どうにもできない

 夕刻まで書物を読む。そう言っていたはずの主の元を、訪ねてみればそこはもぬけの殻だった。
「政宗様?」
 この城で一番日当たりの良い主の部屋に、小十郎の声は聞く者もなく虚しく散った。用意した書物は手をつけた様子もなく整然と文机に積まれ、午後の日射しに目を凝らしても主の気配すら残っていない。頭を休めに庭に出ているのでは、手水を使いに席を外しているのでは、とも考えてみたが一瞬のこと、長年政宗に仕えた勘がそれらを即座に否定した。
 つまり。
「またか……!」
 引き開けた障子の木枠を軋むほど強く掴んで、小十郎は低く唸る。唸った次の瞬間には声を張り上げ、駆けつけた部下やら忍やらに消えた政宗の捜索を命じた。命じられた部下たちも慣れた様子で、声を掛け合い心当たりへと散ってゆく。
 政宗の困った癖だった。
 誰にも何も告げずに姿をくらます。
 常々注意し目を光らせていても、忘れた頃にやらかしてくれる。
 理由は様々。わざわざ粗末な着物を身につけて、城下で民の暮らしぶりを眺めていたこともあった。それはまだいい。山を越え国を越えて、他国の戦を見物して来たこともあった。単騎で戦場に近付くなど何かあったらどうするつもりかときつく諫めたがあまり効果はなく、せめて供を連れて行くようにという懇願だけはようやく聞き入れられるようになった。
 最も最悪なのは、密かに真田幸村に果たし状を送り、そこらの山中で一騎打ちに及んでいる場合だ。駆けつけた時には大抵怪我を負っている。包帯が取れるまでに半月を要したこともあった。あの時は、到着があと少し遅ければと考えただけで生きた心地がしなかった。だというのに、止めに入った小十郎が当の政宗から恨み言を向けられるのだから理不尽だ。

 そして今回、忍の一人が捜し出した政宗の居所と状況は、まさにその最悪のものだった。

 奥州には例年より幾分早く春が訪れ、桜は既に盛りを過ぎてささやかな風にも花弁を散らす。あちらこちらに鮮やかに黄色い花が群れるようにして咲いている。
 澄んだ空に鳥の声。
 その長閑な景色の中を、小十郎は血相を変えて馬を走らせ人里を抜け、杉の生い茂る林道を駆けて、やがて前方、林が途切れてぽかりと草の原が広がっているのを目にした。それと同時、道の端に黒脛巾衆の一人を見つけ、手綱を引いて馬を止める。
「政宗様は!?」
 殺気立って問う小十郎に、あちらです、と片膝付いた忍は遠く草原の端へと目を向ける。その示す方へと馬上から目を凝らし、瞬いて、小十郎は盛大に眉間に皺を寄せた。
 確かにそこには政宗が居た。
 柔らかな緑に覆われた草地の隅、数本ばかり集まって生えた桜の木の根元に腰を下ろしてくつろいでいた。
 そして、隣には真田幸村。
 二人はそれぞれが盃を手にして、何やら話をしているようだった。
「花見……?」
 政宗が真田幸村と一騎打ちをしている。小十郎はそう報告を受けた。けれど、その様子はどう見てもただの花見だ。相手が真田幸村だという点については色々問題があるものの、血相を変えて駆けつけた分拍子抜けして、説明を求めて忍を見る。
「その……私どもが見つけた時には一騎打ちの最中だったのですが、すぐに政宗様の気が変わられて急遽花見という流れに……」
 説明する忍の周囲には幾つもの桜の花弁が舞い、ひらひらと風に遊んで地に落ちる。なるほど、見事な桜吹雪に誘われでもしたかと考えて、小十郎はひとまず納得する。
「政宗様にお怪我は」
「ございません」
「あの酒は?」
「政宗様のお言い付けで調達して参りました」
 ふむ、と呟いて、小十郎は周囲に素早く視線を配る。
「真田の忍は。いねえのか」
「姿はありますが、動く様子は今のところ」
 言いながら黒脛巾は林の方へと視線を遣るが、そちらを見ても小十郎には忍の姿はわからない。しばらく探して諦めて主の方へと目を戻せば、政宗が気安く手を伸ばし、幸村の髪についた桜の花びらを摘み上げたところだった。何事かを口にして、恐らくからかったのだろう、遠目にも幸村の様子が少し変わる。
 二言三言、言い合う声は小十郎までは届かない。
 やがて幸村が身を屈め、地面に落ちた花びらを拾い集めると政宗の頭上へと振りかけた。政宗はそれを楽しげに手で払う。そうしている間にも風が吹いて、二人の頭上に薄紅色の花弁が踊る。
 政宗は笑いながら盃を口元に運び、その視線が、ふと、小十郎へと注がれて止まった。
 政宗につられるように幸村も小十郎達に気付き、思わずといった様子で浮かせた腰を、政宗が片手の一振りでその場に留めた。
 気にするな。
 そのような事を言ったのだろう。政宗と視線を交わした幸村は躊躇いながらも座り直し、そしてもう一度、政宗の視線が小十郎を捕らえた。
 表情もはっきりとは見て取れない距離。
 それでも、邪魔をするな、と政宗の隻眼が雄弁に言う。
 小十郎は溜息の後に馬の鞍を降り、政宗へと頭を下げてみせた。政宗が幸村へと向き直るのを見て、僅かばかりの溜息と共に傍らの馬の首を叩いて労った。
「こいつを休ませる。近くに沢はあるか」
 聞けば、手綱を引き受けようと黒脛巾が手を伸ばす。
「少しばかり先に。ご案内します」
「いらん。政宗様を見張っていろ。もし打ち合いが始まりそうならすぐに呼べ」
 そう言い置くが、今日のところはもう打ち合いになる事はないだろうと小十郎は読んでいた。
 政宗は真田幸村に執着している。あれと闘って討ち取る瞬間の悦びはどれほどのものかと、まるで焦がれるように、夢見るように、政宗が口にするのを幾度も聞いた。
 だからといって、戦でもないのに一騎打ちを挑みに行くのは困りものだが、一度だけ何かの拍子に、落ち着いて酒を酌み交わしてみたいとも思うのだと政宗がぽつりと漏らしたことがあった。あれほど騒々しい男が静かに酒を呑むなど出来ますかな、と、混ぜ返した小十郎に違いないと笑っていた。
 敵対する者への過ぎた執着も、気紛れに花見などして親交を深めるような真似も、政宗の事、この先の天下取りの道を思えば歓迎はできない。
 けれど今さっき見た政宗の、遠目にも楽しげな顔を思えば、もう妨げる事などできなかった。
 心地よい風が吹いて頬を撫でる。
 林の脇、山の斜面に咲いた桜が小十郎の頭上へと花を散らす。
 馬を引いて少し歩けば、すぐに涼やかな水音が耳に届いた。

初:2008.05.14/改:2013.04.03
[ リク内容:舅な小十郎視点のラブラブ夫婦 ]
『舅な』が抜けたような気がします。すみません。色々台無しのおまけ