二
佐助が言い置いた日数を一日超えた夜に、忍は揃って屋敷に戻った。
予想外に手こずったのだと壮年の忍は苦笑いで話し、弁丸の様子を確かめて幾つかの言葉を交わすと、すぐさま府中の昌幸の元へと報告に向かった。
「佐助は? けがはないか?」
忍の背が庭の夜闇に紛れるのを見届けて、弁丸は部屋の隅に座した佐助に怪我がないかを確かめた。衣服は所々切れたりほつれたりしていたが、目に見える部分に血の色は見あたらない。
「そりゃもう、俺様優秀なもんで」
佐助は口の端をあげ、おどけた笑みを浮かべるとふと緩く首を傾げて弁丸を見る。
「若旦那は」
「ん?」
「なんかあった?」
浮かべた笑みも軽い言葉の調子もそのままに、けれど声には気遣わしげな響きがあった。それを感じ取った弁丸は、瞬きを忘れて佐助とまっすぐに視線を合わせる。その眉間に徐々に皺が寄り、逃げるように畳へと一度目を落とした。
胡座の膝に置いた小さな手を、ぎゅうとかたく握りしめる。
「……佐助」
視線を上げた弁丸は口を開きかけて、けれどすぐに、続く言葉を喉の奥へと飲み下した。
「何?」
「いや、……何でもない」
ただ首を横に振る弁丸に、佐助は目を伏せた主の様子を瞬きふたつ分の間伺って、それ以上問うことはせずに腰を上げた。
「そう? んじゃ下がるけど、何かあったら呼んでね。あ、それといいお知らせ」
「なんだ?」
「昌幸様、明日か明後日には戻って来られるみたいよ。明日の朝になればはっきりすると思う」
「父上が」
身を乗り出して息を呑み、弁丸は慌てて座り直す。
「そうか。わかった。楽しみだな」
無理に浮かべようとした笑顔が、おかしな風に歪んだのが自分でもわかった。
けれど佐助はそれにも何も言わず、一礼すると静かに廊下に出て、庭に面した障子を閉める。木枠の重なる小さな音と共に一人きりになった部屋で、弁丸はしばらく動けずに、少しして、灯りを消すと犬の仔のように四つん這いで畳を這って、延べられた布団に潜り込んだ。
そうしてころりと寝返りをうてば、障子だけが闇の中に浮かび上がって仄かに白い。部屋の前にある背の低い木の影がぼんやりと黒く障子に映って、風に揺れてまるで生き物のように蠢いている。
三日。
待ち続けてもあの子供には会えなかった。
時には土手を離れて付近を歩き、それらしい子供の姿がないかと探してもみたが駄目だった。
弁丸は腹のあたりを片手で抑えて、苦しく眉間に皺を寄せる。
名を口にしないあの子供は、おそらく遠方から来た者だ。甲斐で名を明かせないような身分の者なのだと、それくらいの想像は弁丸にもできた。
既にこの土地を離れてしまったのかもしれない。その不安は日毎に募る。弁丸の心の中は暗く厚い雲に覆われて少しの間も晴れることがなく、子供のことばかりが気にかかり、忍二人の戻りが予定よりも遅れていたことにも言われて気付いた程だった。
気落ちした様子は面に出さないように努めていたが、佐助にはあっさりと見抜かれてしまった。弁丸より年嵩とはいえ佐助もまだ子供だ。佐助に判るのならば、他の大人たち、世話をしてくれている下女などにも多分見抜かれているのだろう。
考えて、弁丸は唇を噛む。
やはり佐助に頼んだ方が良かったのではないかと、思えば居ても立ってもいられなくなった。布団に手をつき上体を浮かせて、格子の闇に切り取られた白い障子の薄紙をじっと見る。
今ここで、声をあげて呼べばきっと佐助は来る。
そしてあの子供の容姿を伝えて、探してくれと頼めば、明日には見つけ出すのだろう。もし去っているのならば去ったという確かな情報を。弁丸が一人で探すよりもきっと確実で早い。
「……だめだ」
呟いて、弁丸は力を抜くと再び布団に横たわり、滑らかな布地に額を擦りつけた。
「おれが、自分で。……そうでないと、ならぬ……」
けれど明日、遅くとも明後日には昌幸が戻る。あとどれだけ時間があるかわからない。忍たちの仕事も終わった。もうここに滞在する理由はなくなるのだ。
かたかたと風が障子の木枠を慣らす。
微かに耳に届く梟の鳴き声が静かな夜の中に不安を掻き立てる。
焦りと後悔に胸が疼いた。
あの布のことは、聞いてはいけないことだったのだ。
あの下には何か、二度と消えないような酷い傷や痣の類があるのかもしれない。眼球に傷を負っているのかもしれない。真相はわからないが、触れてはいけなかったのだと痛いほどに感じられたそのことが、思い出す度針のように胸を刺し呼吸を妨げて息苦しい。
じわりと鼻の奥が熱くなって、弁丸は慌てて手の甲で鼻を擦った。目をじっと見開いて瞬きを堪え、涙が零れそうになるのを我慢する。
自分が泣くのは違うと思った。
大人と忍に囲まれて育った弁丸にとって、子供は初めての、年の近い友となった。剣の腕も立つ、二刀流の子供。友となれたものを、弁丸が壊した。
相手をしてくれて嬉しかった。
明日も手合わせをしてくれと頼んで別れ、気が向いたらと答えた子供は、翌日もそこに居てくれた。
また今度とも言ってくれた。
それなのに。
不用意な言葉で、あんな風に、泣きそうな目をさせてしまったのは自分だった。
ちりちりと疼く胸を抱えて、弁丸は布団の中で身を丸めた。
*
子供は、名を梵天丸といった。
師に縁があるという他国の寺を、父と共に密かに詣でる傍ら、効能豊かな温泉を紹介されてその地を訪れた。
梵天丸は病がちな子供で、幼い頃に患った高熱が未だ体に火種を残してでもいるかのように、年に幾度かは熱を出して床に伏した。成長するにつれて頻度は減ったが、その体質が温泉で少しでも改善されればという、藁にも縋る親心だった。
滞在には件の寺の住職の仲立ちで、温泉にほど近い小さな寺の一角を借り受けた。
僧は小僧までが皆身元を保証された者達だったが、梵天丸の家に仕える者ではなく、梵天丸の隻眼を見慣れた者たちではない。
寺に着いてすぐ、梵天丸は顔の右半分を隠す形で布を巻き、見えぬ目に怪我を装った。
露骨な奇異の目を向けられることはなかったが、それでも視線が気に掛かった。
そんな風に、気に掛ける己を嫌悪した。
自分の容貌がどのように見えるのかと気に掛かるのは、心のわだかまりが拭えていないことにある。気付かされて居たたまれずに、一人寺を抜け出した。
河原の土手で足を止めたのは、心地よく澄んで流れる水音に惹かれたのと、その時そこに人の姿がなかったからだ。
流れを眺めるうちに川に下りる村人は幾人かあったが、梵天丸に気付きはしても、おそらくはその家柄を思わせる身形のせいで気安く近付いて来る者は居なかった。
一人を除いて。
初めは誰もいないことを理由に選んだ河原で、子供は今、人の姿を探していた。
慎重に周囲へと目を配りながら、ゆっくりと土手の草を踏んで歩く。
昨夜から吹き止まない風に髪が煽られ、足下では草が揺らされて、擦れ合ってさわさわと音をたてている。土手から河原までを見渡しても誰の姿もなく、子供の歩調は徐々に落ちて、やがて立ち止まると深く息を吐きだした。
「居るわけねえ、か……」
あれからもう四日が経っていた。
独り言に呟いて、子供は右目の上に巻いた布に手を這わせる。
その下には、光を失った右目がある。眼球自体は既に無いが、虚ろな穴と、疱瘡で引き攣れ歪んだ皮膚がある。
それで全てだ。
見えないのだと言えば済むことだった。ちょっとした怪我だと誤魔化すのでも良かった。どんな怪我なのか、布を取って見せろと言われる事はないだろう。それを。
指摘され、無様に動揺して、逃げた。
落ち着くなり自己嫌悪が押し寄せた。
右の目を失ってから片手の指ほどの年を経て、片目のみの視界にも慣れて、両眼で見る世界がどのようなものであったのかを思い出す事の方がもう難しい。
それでも、片目の視界にどれほど慣れても、自分の異相に注がれる視線には未だ慣れる事ができずにいた。怯まず受け止めればどうということもないのだと、心を構えてみたところで、いざ見知らぬ者を前にすればそんなものは容易く崩れる。
厭われる事を恐れて心が縮む。
咄嗟に投げつけた木刀は、狙いは定めず当てるつもりもなかったが、乱暴な振る舞いに弁丸は驚いた事だろう。手を撥ね退け、唐突に立ち去った事もあわせてすぐに謝ろうと思いはしたのだが、翌朝急に熱を出した。一日経って熱は引いたのだがその後も安静を取れと寝かされて見張られて抜け出すことが出来ず、そして今日、ようやく外に出ることを許された。
ふいに一際強く風が吹いて、袴の裾と袂とが揺れる。煽られて視界を邪魔する前髪を左の手で脇に押さえた。
もう一度周囲をぐるりと見回すが、やはり誰の姿もない。
ここでしばらく待ってみるか、範囲を広げて人に尋ねて探してみるか、考えながら流した視線に子供は何かの違和感を覚えて、土手の先に目を止めた。
まばらに生えた、林とも言えないような雑木の群れ。そのうちの一本の幹に、細い白い布が巻かれていた。違和感の正体を見つけて目を凝らせば、布と十字を描くようにして、幹の色が変わっているのに気が付いた。
少し近付いて、それが木刀なのだと気付く。
木刀が、布で幹に留められているのだった。
弁丸がしたことに違いない。勝手に投げていったものなど放っておけば良いものを、子供の目につきやすいようにとそうして留めておいたのだろう。考えて、子供はきゅっと眉根を寄せる。それは同時に、弁丸はもうここへは来ないのだと、そんな印にも見えた。
木の脇に立ち、それが自分のものであることを確かめて、子供は布の結び目に手をかける。
そこに、
「――っ!?」
がさがさと頭上で激しく木の葉が鳴った。
音に上を見上げるよりも早く、何かが木の上から子供の横へと落ちてきた。どすんと脇腹に衝撃が走る。
「つかまえた!」
勢い良く飛びつかれて、子供の体が傾ぎ、足の裏が地面から離れた。
「痛……っ!」
背中から土手に倒れ込んだ子供は地面に強か頭を打ちつける。咄嗟に瞑った瞼の奥に火花が散った。
「おい、どけ! この……」
鼻の奥がツンと痛み、目にうっすらと涙が滲む。
子供は胴にしがみついた弁丸の腕を掴み、肩に手をかけて押すが、弁丸は離れない。離れないどころか、更に強い力でしがみついた。
「嫌だ!」
「嫌だじゃねえだろ、離せって! 痛えんだよ! 今、背中とか地面に」
「そうしたらまた行ってしまうのだろう!?」
子供は目を瞬かせて、弁丸の肩を押す手を止めた。背中を打った衝撃と、しがみつかれる息苦しさに一つ小さく咳が零れる。
「謝りたくて待っていたのだ! 毎日! なのにもう、今日しかなくて、会えぬのかと、だから」
絶対に離さぬ、と一息に言って、弁丸は深く息を吸い込んだ。
「すまなかった……!」
口にしたことで、あの時示された硬い拒絶の表情が思い起こされて、弁丸はきつく奥歯を噛み締める。
やっと伝えられた言葉は、しがみついているせいで顔も見られず、咳き込んだ胸のあたりに告げたような形になった。
「本当に、すまなかった」
謝るが、返る言葉は何もない。
怒るわけでも、許してくれるわけでもない。
けれど弁丸を押し返そうとする力は止んでいて、不安混じりで顔を上げた弁丸は、しがみついたまま伸び上がり子供の顔を見ようとしたところで
「ごめん……」
細い声で、子供が小さく呟いた。
驚いて、弁丸の腕から力が抜ける。見上げた子供はどこか呆然とした様子だった。
これまでになく幼い、何の手も加えられずにそのまま零れた響きの言葉に、弁丸は不思議そうに首を傾げる。
「……なぜ、おぬしがあやまるのだ」
「毎日、待ってたんだろ。……オレが、あんな態度とったせいで」
弱く言って、子供は表情を歪める。
地面に後ろ手に肘をついて背を浮かせて、弁丸と目を合わせてもう一度、今度は「悪かった」と口にした。
弁丸は目を丸くして子供の顔をじっと見る。
子供が謝らなければならない事など何ひとつないはずだ。傷つけたのは自分で、許して貰えないかもしれないとも幾度も考えた。姿を見せないのは弁丸に怒っているのだろうと、そうでなければこの土地を離れてしまったのかもと、不安な数日を過ごしていた。
どこの誰とも教えてくれないその子供とは、この土地を離れてしまえば二度と会うことはないだろう。嫌われたまま別れるのは辛くて、許して貰えなくても謝りたくて、出来れば仲直りがしたくて今日までずっと待っていた。
それなのに、子供はごめんと謝ってみせる。
弁丸は時間をかけて、思いもしなかった言葉の内容を理解した。
「怒って、会ってくれなかったわけではないのか?」
訊けば、子供は目を丸くして首を横に振る。
「ちがう。抜け出……その、理由があって、出て来れなかった。だけだ」
身体を起こそうとする子供を、弁丸は今度は止めずに、自分も一緒に起きあがって草の上にぺたりと座った。
腹を立てて会ってくれなかったわけではないのだと安堵して、すぐに、だからといって自分の言葉までが消えてなくなるわけではないのだと思い直す。
「だが、気にしていたことなのだろう?」
「別に……本当に、怒ってるわけじゃねえ」
「……そうなのか?」
理解できていない様子で瞬きする弁丸に、子供は厳しく目を細める。
「何だよ、疑ってんのか」
「いや、ただずっと、おれが怒らせたと、だから」
言い淀む弁丸に子供は一度目を逸らし、躊躇う間の後で、顔の右側を隠す布の端に指先を軽く滑り込ませた。
「見るか?」
「え」
唐突な言葉に弁丸は驚いて、子供の顔と、布にかけられた指とを交互に見遣る。
「だが」
「怒ってねえ。気にしてもいねえ。……見せたら、信じるか?」
指先が、布の端を持ち上げる。
弁丸は口を閉じて子供を見つめ、白い顔に、ゆっくりと左手を伸ばし顔を近づけた。
子供が全身を緊張させる。
「本当に、怒っていないのだな?」
繰り返しの問いに、子供の表情に苛立ちが滲む。
「……だから、」
「ならば良い」
顔に触れた手の指で、弁丸は、浮いた布の端を押さえた。押し出される形になって子供の指が布から外れる。
「隠しているのには理由があるのだろう? それを見ようとは思わぬ」
僅かに眉を動かしただけで子供は何も言わず、本心を探るように弁丸の目をまっすぐに射る。
その目を弁丸は間近から覗き込んで、少し困ったような、寂しそうな様子でくしゃりと笑った。
「謝れてよかった。今日が最後だったのだ。多分、明日には発たねばならぬ」
朝方、府中から戻ってきた忍に昌幸の帰還は今日の夜だと知らされた。一両日中にはこの地を発つということも。
会えずに終わった時のために、返しそびれた木刀を木に括り付けた。ついでに高い場所から辺りを見回してみようと、その木によじ登っていたところに偶然子供がやって来た。
子供はしきりに周囲を見回していて、弁丸は、自分に気付けば逃げるつもりでいるのだと思い込んだ。
緑は生い茂って弁丸の姿を隠し、人は目線よりも高い場所にはあまり気を配らない。そのまま木の上に身を潜ませて、木刀を餌に待ち伏せてみようと、思いついたのはその時だった。
子供は、そうか、とだけ小さく返す。
「うむ。だからその前に、おぬしに会えてよかった」
満面に笑みを浮かべる弁丸に、子供は戸惑った様子で視線を落とす。
「……手、痛くなかったか?」
言われて、弁丸は自分の右手を開いてみた。
「払ったとき」
「あれか。あの程度、どうということもないぞ」
「木刀、当たってねえよな?」
「うむ。かすりもしなかった」
「そうか」
確かめて、子供はようやく、少し困ったように笑みを浮かべた。
「あんな態度とって、悪かった」
「よいのだ。ならば、これで仲直りだな」
重ねて謝る子供に、弁丸は近づけていた顔をそのまま更に近づけると、ちゅ、と音を立ててその口を軽く吸った。
その行動に、子供が目を瞠って固まった。
弁丸は勢い良く立ちあがって袴についた草を払う。晴れやかな表情で笑ってみせた。
「あんどした! ずっと、嫌われたのではないかと心配だったのだ」
座りこんだままの子供へと、手を貸そうと片手を差し出す。
「おぬし、まだ時間はあるか? 良ければ最後に手合わせをせぬか。今日はちゃんといつもの槍を持ってきて、許しももらって、明るいうちは外で遊んでいてもよいと……どうした?」
差し出した手も見ずに、呆然とした様子で動かない子供に弁丸は首を傾げた。不思議に思ってしゃがみ込み、顔を覗けば、子供の頬が僅かに赤い。
「ば」
「……ば?」
陸に打ち上げられた魚のように幾度か口を開閉した子供は、やがて歯を食いしばると弁丸の頭を殴りつけた。
「痛……っ!」
突然殴られて弁丸は両手で頭をおさえ、目尻に涙を浮かべて子供を睨む。
「いきなり何をする! やはり怒っているのではないか!」
「何すんだはこっちの台詞だ! 何考えてんだあんた!?」
「何とは何だ! わけがわからぬ!」
「わからぬって……」
言い淀んだ子供は、顔に血をのぼらせて、はっきりと赤い顔で弁丸を睨み返す。
「今、口、吸っただろうが!」
「吸った! だがそれでなぜ殴られねばならぬのだ!?」
負けない剣幕で言い返す弁丸に、子供はぐっと言葉に詰まる。
これまでにしたこともされたこともないが、口吸いは男女のする睦み事だ。人目を忍んで密やかにするものだ。そういうものだと、知識として持っている。
それをしたという自覚はあるらしいのに、弁丸のこの恥じらいのなさは一体何事かと、続けて怒鳴ろうとして子供はふと言葉を止めた。
「……どういうつもりでやったんだ?」
まだ紅潮の治まらない顔で睨み付ける子供に、弁丸は不思議そうに首を傾げる。
「どういうつもりとは何だ? 仲直りだろう?」
「仲直り?」
「ケンカの仲直りには、ああするのが良いのだと聞いたぞ」
「……誰に」
「おれの、しの、いや、供の者だ」
「どういう、流れで」
「前にそうやっている者たちを見かけて、何をしているのか聞いたらそう教えてくれた」
つまりは適当にはぐらかしたわけだ。子供は内心で頭を抱える。
その二人は実際喧嘩でもしていたのかもしれない。その仲直りに口付けを交わしていたのかもしれない。けれどそんな風に説明したのでは、いずれ誰彼構わず口を吸うような事になると、その供の者は思わなかったのだろうか。実際に、今自分にしたように。
「あー……」
困った様子で髪を掻く子供に、弁丸は不安そうに身を乗り出す。
「もしかして、違うのか?」
「違う。そりゃあんた多分はぐらかされたんだ。仲直りには使わねえ」
ではいつすることなのかと訊かれれば口にするのは躊躇われるが、弁丸は丸い目で、黙って子供の説明を待っている。
「ああいうのは、こんな、明るいうちとか、野ッ原でするもんじゃねえ。もっと大人になってから、好いた相手とすることだ。……そう聞いた」
「大人でなくともできるのに? それはおかしな話ではないか。第一、口と口を付けただけのことをなぜごまかされねばならぬのだ」
まっすぐな疑問に、子供はまた言葉に詰まった。確かにするだけならば大人でなくとも出来るのだが。
悩んだ末に顔を近づけて、抑えた声で訊いてみた。
「破廉恥なこと、っつったら、わかるか?」
弁丸はぱちぱちと瞬きをして、戸惑いながらもひとつ頷く。
「……多分」
「多分?」
「恥ずかしいことなのだな?」
わかったようなわからないような返事だが、恥ずかしいことに分類されればまず間違いはないはずだ。
子供は頷いて、立てた人差し指を弁丸の鼻のあたりに突き付ける。
「そうだ。何なら家に戻って誰か――大人の男にもういっぺん聞いてみろ。とにかくそういうものだから、大人になるまではするんじゃねえ。わかったか?」
「わかった。……ならばおれは、おぬしに恥ずかしい思いをさせてしまったのか」
すまぬ、と素直に頭を下げた弁丸の肩を、安堵した子供は握った指の節でこつんと軽く叩く。
「……手合わせ、するならしようぜ。時間が勿体ねえ。木刀は、今日は、あんたが持ってきたやつしかねえが」
子供の視線が弁丸の後ろの、布を巻いた木へと向く。
「あんた、槍は?」
「向こうだ。取ってくる。おぬし、木刀は一本でも強いか?」
立ちあがった弁丸は、話しながら布の結び目に手をかける。
「当たり前だ。二刀はまだそれほど慣れてねえ」
「あれだけ使えるのに? では、これからもっと強くなるのだな……」
弁丸に任せて座ったまま待ちながら、子供はふと、唇を手の甲でおさえた。
口吸いなど初めてされた。
思い返して、また顔に血がのぼりそうになる。
それを振り払って顔を上げれば、弁丸はまだ布の結び目と格闘していて、
「……ほどけぬ」
呟きに、子供は袴の尻を叩きながら立ちあがって、弁丸の隣から布の結び目を覗き込んだ。
固く丸い結び目は、解くことを前提にしていない結び方だ。
「あんた、小間結びにしたのか?」
「すぐにほどけては困ると、力いっぱい結んだのだ」
「どいてみろ」
弁丸がそう言う結び目は、子供が代わって爪をかけて、弾きながら緩めようとしても固さにびくとも動かない。
「切らねえと取れそうにねえな」
「ならば布は後で何とかする。木刀だけ引き抜こう。少し傷がつくかもしれぬが」
「ああ、それくらい構わねえ。元々傷だらけだ」
結び目から諦めて手を離し、振り向いた子供の肩を、突然弁丸の両手が掴んだ。その勢いで、子供の背が木の幹に当たる。
「な、」
「――すまぬが!」
なぜか赤い顔の弁丸に子供はぎくりとして、
「その、もう一度、してみてもよいか?」
何となく予想通りの言葉に子供は自分も顔を赤くした。
声を潜めて、もう一度弁丸を諭す。
「だから、恥ずかしい事だって教えただろ。大人になるまですんな、って」
「そうなのだが、恥ずかしいことなのだと考えていたら、恥ずかしくなってきて」
「だ……だから、それで何で」
「だめか?」
当たり前だ、と言おうとして、子供は躊躇う。
曖昧な知識の付き始めたそういった事に、興味を覚え始める年頃ではあった。口を吸うのが睦み事だと知ってはいるが、なぜ口など吸うのか、そうすることでどんな心地が得られるのかはわからない。今さっき実際にされたものの、衝撃で何も覚えていない。
弁丸はじっと子供の返事を待っている。
子供は周囲を慎重に見回して、誰の目もない事を確認した。
「……別に、どうしてもだめってワケじゃねえ」
弁丸はぱっと顔を輝かせた。
向かい合った身長差に、子供は心持ち身を屈めて視線を彷徨わせる。その子供の唇を、引き寄せられるように見つめながら、弁丸は肩を掴んだ手をそのままにゆっくりと顔を近づけた。
『仲直り』をしていた男女の様子を思い出しながら、唇をぴたりと重ね合わせる。緩く吸って、今度はすぐには離れずにそのまま軽く食むように感触を確かめる。
さっきは一瞬のことだったが、そうしてみると人の唇の、意外な柔らかさを知って驚いた。
こんなに近くに、誰かと顔を寄せるのも初めてだった。
子供の伏せられた左の目の、青白い瞼と黒い睫毛とが、間近で震えて動くのを見る。
暖かな息がかかるのがくすぐったい。
胸の奥にむず痒いような心地が生まれて、弁丸は僅かに頬を染めた。
「……りかいした。恥ずかしいことなのだな」
実感したまま口にすれば、目を開けた子供が怒ったように弁丸を睨む。
「そう言っただろうが」
「それに、柔らかくて驚いた」
何となくそうしたくなって、何かを言いかけた唇を構わず舌先でぺろりと舐めれば、驚いた様子で子供が顔を離した。
「犬か、あんた」
舐めるな、と赤い顔で言って子供は濡れた唇を手の甲で拭う。
犬かと言われるのは二度目だなと思い返しながら、弁丸は子供が、一度も自分の名前を呼んでくれていない事に気がついた。忘れてしまったのか、それとも、名では呼ばないと決めているのか。
「ちがう。弁丸だ」
呼んでくれずとも覚えていて欲しい。改めて教えるつもりでそう言えば、子供はどこか怒ったような、困ったような表情で、弁丸に顔を近づけた。
耳元に口を寄せて、耳に、言葉をひとつ落とし込む。
弁丸の名を呼ぶのかと思えばそうではなかった。
驚いて弁丸は首を曲げ、丸い目で、子供の顔をじっと見つめた。
「……名前?」
聞けば、子供は口元で笑ってひとつ頷く。
最初に会った日、幾度聞いても教えてはくれなかった名前だ。弁丸は子供がしたように子供の耳に顔を寄せ、両手を筒型に丸めて耳にあて、小さな声で名を呼んだ。
合っているかと問えば子供はもう一度頷いて、口の前に人差し指を立てる。
「誰にも言うなよ」
弁丸はまるで大切な物でも貰ったかのように、嬉しそうに、大きく頷いて、それまでで一番の笑顔を子供に見せた。
翌日、弁丸は府中から戻ってきた父と二人の忍と共に、その土地を後にした。
二槍の件に昌幸は呆れ驚いたが、最後には気の済むようにやってみろと豪快に笑って、弁丸は佐助を相手に命じて二槍を模索し始めた。
佐助としてはやはり始めは素振りから、と行きたいところだったが、型も何もまず前例がない二槍である。仕方なく佐助が軽く打ち込んでそれを防がせるところから始め、できるようなら反撃を、と少しずつ慣らしているうちに、一月経つ頃には弁丸は両手の槍に馴染みはじめて、何となく動きが形を成してきた。佐助が任務で留守にする時は別の忍が相手をしていたが、あれはいずれ本当に使いこなしてしまうかもしれぬぞと、戻ってきた佐助に面白そうに言ってきた。さすが若様、末が楽しみだと忍隊での評判は冗談半分にしても上々だが、少し試せば諦めるだろうと考えていた佐助からすれば予定外の事態ではあった。
それでも、他に例のない二槍を自分の主がものにするかもしれないと、それを思えば心が踊った。そして佐助もいつしか真剣に、二槍の扱い方を探るようになっていた。
「あのさ、若旦那」
日課となっている鍛錬の時間。
地面に大の字に寝転がって佐助を待っていた弁丸は、視界いっぱいの空と雲の中にひょいと現れた佐助の顔に、おおと驚きの声をあげた。
「遅かったな、佐助。待ちくたびれたぞ!」
あれから季節は夏に変わった。寝転がっているだけでも汗が滲むような日射しだが、心地よい風の吹く日だ。橙色の髪を風に乱されながら、佐助は呆れ顔で溜息を落とす。
「はい。お待たせしたのは大変申し訳ないんですけどね、土の上に直接寝るのやめてって俺様何度もお願いしたはずだけど」
忘れちゃった? と嫌味混じりに言う佐助に、幸村は悪びれもせずに自分の脇の地面を掌で叩いて佐助へと示す。
「忘れてはおらぬぞ。だが、これだけ乾いていれば叩けばすぐに落ちるだろう」
「そりゃ見た目はね。けど」
「それより、佐助も横になってみよ。今日は風が強いから面白いのだ」
小言が全く響いていない主の様子に、佐助は抑えきれなかった溜息を一つ落とす。
「面白いって、何が」
「いいから」
ぱたぱたと地面を叩いて促されて、眉をひょいと上げると幸村の隣に体を伸ばした。
雲を見よ。言われて、風に流れる雲を目で追った。
「……ああ」
少しして、理解したらしい呟きに、弁丸はどうだとばかりに佐助を見る。
「地面が動いておるだろう」
自慢気にそう言った。
あの最後の日、打ち合ううちに山の向こうから雲の群れが流れてきた。
教える約束だったと言って子供は土手に寝転んで、雲を見ろと空を指した。言われるまま、弁丸は同じように横になり、やがて流れる雲をじっと見るうちにぐらりと地面が動き出した。無論それは、流れる雲に視線を定めたことで起きる錯覚なのだが、背をついた地面をふいに頼りないものに感じるような奇妙な感覚が面白くて、弁丸は子供と目を見合わせて凄いと笑った。
約束の通り、弁丸は郷に戻ってからも、決してその名前を口にしなかった。
府中に行っている間どう過ごしていたかと昌幸に訊ねられ、河原の遊び相手の事を話しはしたものの、名前は教えて貰えなかったのだと言って通した。それは弁丸が昌幸についた初めての嘘で、罪悪感を覚えもしたが、誰にも言わないと約束したことだ。破ることなどできなかった。
大切に胸に秘めた。
ただ時折、その名を記憶の中から取り出しては、声にせずに、溶けて消えることのない飴のように幾度も舌の上で転がした。
梵天丸、と。
顔も声も日毎に思い出すのが難しくなる。
けれど、その名前だけは忘れるのは嫌だった。
「なるほどね……。それで若旦那、最近やたらと庭に寝転がるようになったってわけ」
佐助は錯覚を楽しむ風でもなく、早々に起きあがって、後ろ髪やら服やらについた砂を手で払いながら弁丸を見る。
「うむ。面白いだろう? 風で、雲が流れる日にしか見られぬのだ」
「ま、いいけど、もう少ししたら日射しが毒になるから、せめて木陰に寝てくださいよ」
「わかった」
弁丸は跳ね起きて、袴の尻をはたいて土を落とす。
「では始めるか」
「はいはい、っと」
佐助が身軽な動きで立ちあがるのを視界の隅に見ながら、弁丸は傍らに置いてあった槍を掴んだ。
手に馴染み始めた短槍を、片手に、ひとつずつ。
初:2007.12.25/改:2013.04.03