いつかどこかで
一
「なにをしているのだ?」
その問いを音にするには少しの勇気を必要とした。
柔らかな日差しの降り注ぐ、柔らかな青草の茂る春の河原の土手だった。そよとも風の吹かない暖かな日で、だというのにその土手にぽかりと冬の気配を弁丸は見た。
硬く凍えた空気。
その中心にいたのは少年だった。
土手に座り川面を眺めるその少年に、弁丸は、何か見えない力に引かれるようにして近づいた。
年の頃は自分と同じくらいか、せいぜい一つか二つ上に見えた。服装もやはり同じような、ひと目で武家の子供だと知れる上等な布地の袴姿だった。
弁丸の問いかけに、子供は何の反応も見せなかった。聞こえなかったのかもと悩みながらじっと待てば、少しの後に、頬杖の手からゆっくりと顔を上げて傍らに立つ弁丸を見た。
日に焼けていない白い顔。やや茶色がかった髪は頭の後ろで結わえられ、顔の右側、長い前髪の下に、額から頬までを覆い隠すように濃い藍色の帯状の布が巻かれている。向けられた目は薄曇りの冬の空気のように醒めた色で、弁丸はどきりとする。
鋭い視線は弁丸を一瞥すると、すぐに興味を失った様子で逸らされた。
「なにか見えるのか?」
続けて訊くが今度は視線すら動くことはなく、問いかけを無視された弁丸はむっとして頬を膨らませた。硬い横顔は関わるなと雄弁に伝えてきたが、そんなものには構いはせずに、弁丸は無遠慮に子供の隣に腰を下ろす。
視線の先にあるのは川だ。
そして、所々に大きな岩の目立つ、砂と小さな石の敷き詰められた河原。
澄んだ流れは幅は広いが、その幅のうちの半分は、二人がいる土手からでも底の砂利が見えるほどに浅い。大きな岩が幾つも水面に顔を出して、水を白く泡立たせ、向こう岸には雑木の林が広がっている。
「岩と、川と、林が見えるな」
見たままを口にすれば、返されたのは苛立たしげな溜息だった。
一言も口にしないまま子供は弁丸に背を向けて立ち上がる。それを目で追い、立ち去る背に落胆しかけた矢先、弁丸は子供の手に持たれた二本の木刀に気付いて目を丸くした。思わず土手に手をついて身を乗り出す。
「待ってくれ! おぬし、それを使うのか? 二本とも!?」
怒鳴るような勢いで問えば、振り向いた子供は手に持った木刀へと目を落とし、つまらなそうな目で弁丸を見るとはじめて口を開いた。
「使えねえものを持ち歩いて何の意味がある?」
やや乱暴な言葉遣いと、低く抑えてはいるが幼い声とがどこかちぐはぐな印象だった。
雨の予感を運ぶ風や、川の浅瀬の水音や、何か流れるものを思わせる声。
「使えるのだな!?」
「……だから、」
「見せてくれ!」
繰り返しの問いにやや苛立つ様子を見せた子供は、続けられた言葉に目を丸くした。
訝りながらも差し出された木刀に、弁丸はそうではないと慌てて否定する。
「ちがう、使ってみせてほしいのだ。二つもあっては邪魔ではないのか?」
弁丸は自分も立ち上がり、袴の尻を手で払うと、持っていた稽古用の槍を体の前に突き出した。鋼はなく、棒の先端を綿と布で包んである。
「必要ならば相手もするぞ。おれは槍だがかまわぬな?」
言えば、子供の表情が変わった。驚きを乗せた目が弁丸と槍とを眺め、細められたひとつの目が好戦的な弧を描く。
「そう言うからには、強えんだろうな」
「わからぬ。だが、そうなりたいと思っている」
「へえ?」
揶揄の響きで子供は言い、周囲を見回すと草を踏んで土手を下った。河原でも石の少ない平らな場所へと言葉もないまま先導し、左右の手に木刀を構えると勝ち気な笑みを浮かべてみせた。
「いいぜ。相手してやる」
ぱっと表情を明るくした弁丸は、目を輝かせ、自分も稽古槍を構えて腰を落とした。
けれどすぐに思い直して構えを解き、屈託の無い笑みと共に子供へと問いかけた。
「そうだ、おれは弁丸という。――おぬし、名は何という?」
その時弁丸は父・真田昌幸に連れられて、昌幸の古なじみが預かる土地に滞在していた。
年の頃は少年の域に入ったばかり。伸ばし始めた後ろ髪が背にかかり、堅い言葉遣いに未だ舌が追いつかないような年齢だ。滞在にと整えられた屋敷は件の古なじみの別宅で、鄙びた場所だがすぐ近くに効能豊かな温泉が湧いていた。
昌幸と弁丸には二人の忍が同行していた。
一人は真田の家に仕えて長い、昌幸の信頼篤い壮年の男。
もう一人はごく最近弁丸のためにと召し抱えられたばかりの若い忍、猿飛佐助。群を抜いて才長けた者だと里長の御墨付きで渡された佐助は、戦忍としては既に真田忍隊随一の腕前とまで言われている。
今回忍が同行を命じられたのは昌幸や弁丸の護衛の任ではなく、近くの山で追いはぎを働き民を脅かしているという野伏せりの調査のためだった。どうにも尻尾が掴めないと頭を悩ませた件の古なじみ、この土地を預かる武将から相談を受けて昌幸が応じた。応じついでに温泉を楽しもうと自らも足を運んだのだが、湯に浸かる間もなく信玄の命で、ひとり府中へと赴くことになった。
そして二人の忍は調査のために日がな一日走り回り、屋敷に通いの女中はいたものの、弁丸は日中のほとんどを一人きりで過ごしていた。
その日、日暮れの頃には必ず戻って来る忍を、弁丸は屋敷の庭門で槍を片手に待ち構えた。
「佐助、たのむ。これを二本持つにはどうすれば良いのか教えてくれ」
屋敷に戻り、木戸をくぐるなり年若い主に捕まった佐助は、示された稽古用の槍を見てひととき言葉を失った。
「……え、二本?」
「うむ」
鸚鵡返しに口にした佐助に、弁丸はごく真面目に頷いてみせる。
佐助は助けを求めて咄嗟に脇に目を遣りかけたが、その日、壮年の忍――佐助の上役は、調査の経過を報告するために途中で佐助と別れ、昌幸の居る府中へと向かって不在だった。そのことに思い至り、躊躇いながら弁丸へと目を戻した佐助は、きらきらとした大きな目とかち合って途方に暮れる。
真田の家に仕えてからこちら、初めは驚かされるばかりだった弁丸の突飛な発言や行動にも大分慣れたつもりでいた。お役目のうちと自分に言い聞かせて無茶な要求にも応えるうちに、今では甘味なども作れるようになってしまった。だが、またどうしてそんな発想が出てきたのか。戸惑いながらも身を屈めて佐助は弁丸と目線を近づけた。
「えっと。槍を、二本?」
「そうだ。試しに同じような棒をもう一本持ってみたのだが、どうにもうまくいかぬのだ」
それは上手く行く筈がないだろう。
佐助は大型の甲賀手裏剣を得手とするが、それ以外の武器も大抵のものは使いこなす。使いこなせるようにと訓練されてきた。だが刀や鎌ならばともかく槍を二本持つなど聞いたこともなく、どうすれば上手く扱えるかの見当すらつかない。
背を屈めた佐助から頭一つ分低い場所で難しい顔をしている弁丸に、佐助は視線を泳がせて、ふとその足下に目を留めると屋敷の一角を指さした。
「とりあえず座ろう、若旦那。で、草履脱いで」
示した縁側は、古びてはいるがよく磨かれた縁板も、きっちりと閉じられた白い障子も、何もかもが一日の終わりの茜の色に染まっている。低くへと落ちてゆく陽にかかる雲の際が眩しく光っている。
弁丸は片足を少し浮かせて、鼻緒の片方が千切れた草履と佐助の顔とを見比べた。
「直せるか?」
「うん。だから座って。それ貸して」
「そうか! 佐助は本当に器用なのだな!」
顔をほころばせた弁丸は長い影を連れて先に立ち、跳ねるようにして縁側に腰掛けると、脱いだ草履を佐助に渡す。
佐助は弁丸の隣に腰掛けて修繕のための道具を取り出し、緒を直す様子を珍しげに眺める小さな主へと問いかけた。
「あのさ若旦那」
「なんだ?」
「何で二本持ちたいのか聞いていい?」
刀ならば二刀流も稀に見るが、槍は主に突くための武器だ。打撃に用いることもあるが、どちらにせよ長い柄を活かして、離れた間合いから敵を攻撃するための武器だ。
刀に比べて鋼の占める割合は少ないが、木といえども長柄の重量は馬鹿にならない。片手で扱うには難しく、片手の突きでは威力も落ちる。二本持つためには柄を短く軽くしなければならないだろうが、それでは間合いの長さが台無しになる。
考えてみたところで全く利点が見あたらないが、弁丸は「あのな」と弾んだ声で前置いて、
「今日、木刀を二本使う子供と会ったのだ」
佐助は驚いて弁丸を見た。
「二刀流の? 子供?」
「うむ!」
「そりゃ珍しい……」
「だろう?」
弁丸の声は、まるで自分の事のように自慢気な響きだ。
「たぶん、おれと同じくらいの年だと思う。同じくらいの背丈で、手もくらべてみたら同じくらいの大きさで」
嬉しそうに手振りを交えながら話す弁丸を横目に、佐助は顎に指を滑らせて、少しの思案の後に草履へと目を戻す。
「へえ……。どこで会ったの? ここらの、どっかの武家のご子息で?」
「すぐそこの、川の近くだ。どこの家の子供かはわからぬが、よい身なりをしていたな」
「ふうん。名前は?」
「聞いたが教えてもらえなかった」
佐助は視線の隅で弁丸の顔を盗み見る。そうしながら頭の中で、付近に名を隠さなければならないような事情を持つ武家があるかと記憶を探るが、思い当たる節はない。
代わりに思い浮かんだのは、近くに高名な僧の居る寺があるという話だった。その僧を頼り他国から密かに訪れる武士も居るのだと、屋敷で世話をしてくれる下女から聞いたのだった。
それに伴われて来たどこぞの、甲斐に居てはならないような武家の子供といったところか。そう考えれば名を隠すのも頷けた。
「それでな、手合わせをしてもらったのだ。驚いたぞ! 佐助はその、に、」
「二刀流」
「うむ、二刀流というのを見たことがあるか? 刀が二本、まるで腕の続きのように動くのだぞ!」
「うん」
「だからおれも、槍二本で戦ってみたい」
「……ああ、なるほどね」
子供は兎角、数が多いもの、大きなものに憧れる。二刀を操るその様子が羨ましくなったのだと納得して、佐助は胡座の足を体に引き寄せる。
「んじゃ、若旦那も刀に持ち替えればいいんじゃない?」
それはごく当然の提案のつもりだったが、弁丸は大きな目を更に大きくして佐助を見た。
「それじゃだめ? 木刀なら、まあすぐには無理だけど、鍛錬次第で何とかなるだろうし」
「何を言うのだ!」
弁丸は縁に手をついて、佐助へとぐいと身を乗り出す。
「父上は槍の名手なのだぞ! 父上の子なのだから、おれも槍でなければだめだ!」
「けど、昌幸様だって一本じゃないの。槍の二刀流なんて俺様も見たことないし、誰も教えられないと思うけど」
「ならばおれが最初の使い手になればよい!」
頑として譲らない弁丸に佐助は弱って襟足を掻くと、縁側に立てかけられた弁丸の槍をしげしげと眺めた。
あれはなかなか筋が良い、と事ある毎に昌幸が自慢して語るように、弁丸は年の割には腕が立った。使っている稽古槍も、この年頃の子供にしては大きなものだ。
長さは弁丸の背丈の一つと半分。握らせれば手の親指と人差し指が付くか付かないかの太さ。
「それ、重い?」
視線で示して問えば、弁丸は槍を取って持ち上げてみせる。
「これか? ちょうどいいぞ」
「ってことは、振り回されない程度の短さにして、細くして、一本の重量をその半分くらいに減らせば何とか……なんのかなあ」
「頼めるか!?」
期待に満ちた弁丸の声に、佐助は苦笑してひとつ頷いた。
「はいよ、任せられました、っと」
快諾は、実際に持たせてみれば諦めるだろうと考えてのことだった。二槍の利点は見つけられないし、使いこなせるとも思えない。弁丸の気性ではすぐに諦めることはないだろうが、使い方の指南はできなくとも、気が済むまで模索に付き合うくらいのことはできる。
本当は昌幸の帰りを待てと言いたいところだが、大人しく聞き入れる弁丸ではない。放っておけば、今の大きさのまま二槍に挑むのは目に見えている。それよりは、適当な長さの棒で拵えたものを渡した方がまだ安全だ。
「用意するだけしてみましょ。朝まで時間貰うよ?」
「すまぬ佐助、感謝する!」
「あ、でも俺様明日から二、三日留守にするんで稽古のお相手はしばらくできないけど」
「わかった。仕事だな?」
「そ。大詰めってとこ」
弁丸は聞き分け良く頷いて、けれど瞬きの後でふいに表情を曇らせた。唇を尖らせて茜色の庭を見る。
「佐助はよいな。うらやましい」
「え、何が?」
「おれも、早く父上のお役に立てるようになれればよいのだが」
拗ねた調子で言う弁丸に、佐助は密かに苦笑いを浮かべる。
「それはまあ、そのうちね。若旦那だってすぐに、嫌でも戦場に引っ張り出されちまうって」
「嫌でもとは何だ! 戦場に出ることこそが男のほまれであろう!」
「あーはいはい、そうですねっ、と……?」
緩やかに風が吹いて、二人はふと、同時に顔を上げると建物の一角へと目を向けた。
「たけのこだ」
漂う香りに弁丸が言う。台所から風に乗って流れてきた煮炊きの匂いが鼻をくすぐり、筍と山椒の香の混じった美味そうなそれが二人の胃の腑を刺激した。
修繕を終えた草履の鼻緒を引いて強度を確かめ、佐助は頷くと、弁丸の足もと、沓脱石の上へと揃えて並べた。
「もしまた外れたら、そのままにしないで、誰かに頼んで直させてよね」
「わかった」
「あと、川に行くのはいいけど気をつけてくださいよ。若旦那でも溺れるのは難しいくらいの水嵩だけどさ。結構早い流れだったし。まだ水も冷たいし、もし落ちたりしたら」
「そうだ佐助! 水だ。井戸に行くぞ!」
「え?」
唐突に立ちあがった弁丸は、片方の足に草履をかけながら、もう片方の足を胡座のように膝に置いて足裏を佐助へと向けてみせた。
「洗わぬと家にあがれぬのだ」
鼻緒の切れていた方の足だ。一体幾度脱げたのか、それとも脱いだまま二槍を試してでもいたものか、随分と土に汚れていた。
「ああ、はいはい……っていうかさ、ちゃんと聞いてた?」
「うむ。川だな。気をつける」
弁丸は答えるが、この主はどうも返事だけが良い傾向にある。そう理解し始めていた佐助は僅かに肩を竦め、東に星の瞬き始めた空の下、二人は並んで井戸へと向かった。
翌朝、弁丸が目を覚ました時には既に佐助の姿はなく、布団の脇に稽古用の槍が二本、約束通り揃えて用意されていた。
目を輝かせて手に取ったそれは、佐助の言っていた通り以前のものより短く細い。持つ分には何の支障もなかったが、振り回そうとすればやはり長さを持て余した。
午前の時間を、それだけは欠かさずするようにと昌幸から言いつけられていた運動と手習いとで過ごし、昼餉を済ませるなり外へと駆け出した弁丸は、脇目もふらずに河原へと足を向けた。
ぼんやりと薄青い空の広がる春の日だ。小走りの弾む息に、吸い込む空気は何か甘い香りが混じっている。
桜の盛りは過ぎたものの、見渡す景色はそこかしこにツツジが紅い花をつけ、田の畦道も紫や黄や、色とりどりの花々に彩られる季節。
弁丸は昨日の土手に辿り着き、河原へと駆け下りかけて、その途中で足を止めた。柔らかな緑の中に寝転んでいる姿を見つけ、槍を持った両手を大きく振り上げる。
「来たぞ!」
大声に、子供はゆっくりと背を起こした。右目のあたりは昨日と同じ布に隠されたままで、呆れた様子で左の目を細めて弁丸を見た。
「……信じらんねえ。ほんとに二本持って来たのかよ」
弁丸は頷きながら駆け寄ると、昨日と同じように子供の隣に腰を下ろした。
「これでおぬしと五分になった!」
名は教えて貰えなかったので、弁丸はおぬしと呼んで通していた。何故教えてくれないのかという疑問も不満もありはしたが、別段それで不便はない。
「まあ、本数は五分だけどな……」
子供は、短いながらも木刀よりも丈のある、槍にしては中途半端な長さの棒を上から下まで眺めると、弁丸へと開いた片手を差し出した。
「……?」
上向けられた掌にぱちんと瞬きした弁丸は、槍を片方の手に纏めて持ち、空いた手を不思議そうに子供の掌へと乗せてみる。
沈黙が落ちた。
「あんた、犬か?」
「おぬしには犬に見えるのか?」
「今、一瞬な……。そうじゃなくて、それ。そっちの」
乗せられた手を邪険に払って、子供は弁丸の持つ槍へと手を伸ばす。
今度は正しく渡されたそれを手に子供は立ちあがり、体の脇で軽く回して、木刀の要領で構えて振り下ろす。
「案外重てえな」
「おぬしの木刀よりもか?」
聞けば、子供は一本を弁丸に返し、代わりに木刀を一つ拾い上げて重さを比べる。
「あー……同じくらいかもしれねえ。ただ、長い分振った時の抵抗が……いや、振らねえのか。突くんだよな」
独り言の響きで呟きながら槍を持った手を後ろへ引き、そこから前へと真っ直ぐに突き出す。
そうしてみても狙いが定まらず槍の穂先は不安定に揺れる。子供は眉根を寄せて首を傾げ、もう片方の槍も弁丸へと返した。
「で、それでどう戦おうってんだ? 見せてみろよ」
「わからぬ」
「ああ?」
きっぱりと言った弁丸に、子供はぽかんと口を開ける。
「だから相手をしてくれ」
弁丸は跳ねるようにして立ちあがると足を開き、体の両脇で槍を持つ。
「おぬしの動きをじっくり見れば、糸口が見つかると思うのだ。下に行くぞ。昨日のあたりで構わぬな?」
言いながらも弁丸は先に立って土手を降りて、子供は少し躊躇ってから弁丸の後に続いて河原へと降りる。
「ってあんた、誰かに教わったり」
「今朝用意してもらったばかりなのだぞ? それに、おれの家には槍を二本使う者はおらぬ」
手裏剣ならば居るのだが、とそれは口に出さずに、弁丸は佐助の姿を思い出す。佐助は大型の手裏剣を左右の手に一つずつ持って操ってみせるが、さすがに手裏剣と槍では要領が違うと、弁丸にもそれは判った。
「おぬしの家にはそういった槍使いがいるのか?」
「いや……いねえな」
「そうか。ならば頼む。おぬししかおらぬのだ」
言い募る弁丸に子供は渋い表情を浮かべ、やがて小さく頷くと、不承不承木刀を構えた。
打ち合いはそう長くは続かず、子供は土手に転がった。
伸されたわけではない。話にならずに放棄して、笑いすぎて転げたのだ。
「笑うな!」
腹を抱えて笑う様子に弁丸は唇を尖らせ、どかりと腰を下ろして子供を睨む。
「ったって……あんた、あれじゃ、酔っぱらいの踊りみてえな……」
笑う息の合間から子供は言いかけるが、すぐ笑い声にすり替わって消えてしまう。
短いとはいえ槍の長さの得物を、木刀と同じように扱おうとしたところでやはり色々無理があった。
気合いだけは充分だった弁丸は、軽く打ち合ってみれば二槍の扱いを持て余し、ひたすらに戸惑って慌てるばかり。無理に素早く動こうとすれば、長さと重さに振り回されて転ぶ始末。
「なあ、あんたがそれ使いこなせるようになるなら、オレは刀、あと二本持てるかもしれねえぞ」
「馬鹿を言うな! 四本もどこで持つというのだ!」
弁丸は子供の軽口に生真面目に返し、無様を晒した事への、照れ隠しの不機嫌で子供を睨め付ける。
「あー……。そうだな。足でどうだ?」
「それこそあり得ぬ!」
「だから、同じくらいあり得ねえって話だよ」
ようやく笑いの発作がおさまった子供は、頭の上で両手を組み合わせ、寝転がった姿勢から弁丸を見上げて言う。
「あきらめな。槍は刀とは違う。無理だってわかったろ?」
からかう口調ではなく、優しく諭す口調だ。
けれど弁丸は頑なに首を振る。
「今は無理でも、おれはこれしきの事ではあきらめぬ! 成せば成るのだと父上も言っていた!」
「へえ。なら、成るように成ってから持って来いよ。そんなんじゃ打ち合ってもオレがつまらねえ」
「それは……そうだが……」
「まあ、ある意味楽しかったけどな」
悄然と言う弁丸をからかって、子供はまた喉で笑う。
その耳を擽る笑い声に心地よさを覚えて、弁丸の尖っていた唇が、ややあって苦笑いの形に緩んだ。
「ならば、次は一本にする。だからもう少し相手をしてくれ」
「まだやんのか?」
「まだとは何だ。たいして打ち合っておらぬではないか。おぬし、もう疲れたのか?」
「疲れちゃいねえが、少し休ませろよ。笑いすぎて腹が痛え」
言って、子供は意地悪く目を細める。そうしてふと、その目を弁丸から逸らして空を見上げた。
「雲がありゃ良かったな。あと風と」
ぽつりと呟いた声に、弁丸はつられて空を見た。
薄い色の空には、乾きかけの筆を走らせたような雲が、山の際に少しばかり棚引いているのみだ。高い場所に、羽を広げてゆったりと旋回する鳥の姿。
「雲があると、何がよいのだ?」
涼を求めるような暑さを感じる季節でもない。汗を流すほど動いてもいない。不思議に思って訊く弁丸に、子供は何かを言いかけてすぐにやめ、
「今度、雲がある時に教えてやるよ」
言われて、弁丸は思わず子供を振り向いた。
「今度?」
自分も槍を二本にしてくるからと、この場所での待ち合わせを頼んだのが昨日の別れ際。昼過ぎに土手を目指しながら、いないのではないかと幾度も考えた。約束の通り待ってくれてはいたが、そっけない言葉を使う子供に、本当は気がすすまないのではないかとも思っていた。
けれど子供は今度と言った。また会ってくれるのだと、そういうことなのだと考えて自然と弁丸の頬が緩む。
「何笑ってんだ? 気味悪ぃ」
その弁丸の様子に気付いて怪訝そうに眉根を寄せる子供に、弁丸は笑み崩れながら首を振る。
「いや。ならば今度、雲がある時に教えてくれ。必ずだぞ」
「おう。覚えてたらな」
「うむ。おれが然と覚えておく!」
ふうん、と息だけで笑って、子供はまた空を見上げた。
体を伸ばして昼寝でもすれば気持ちがいいだろう。そんな陽気だ。けれど眠ってしまうには勿体ない。弁丸は横にはならず、友達になったばかりのその子供を眺めて、ふと長い前髪の下の濃い藍色の布に目をとめた。
右目のあたりを覆うように、顔の半分近くを隠す布。
それは昨日、顔を合わせた時から気になっていたことではあった。
だがそんな事よりも、子供が手にした二本の木刀に強く気を引かれた。頼んで打ち合って貰えばその剣捌きに度肝を抜かれ、話してみればどこかひねくれた受け答えをする子供との遣り取りが楽しくて、そうしているうちに訊ねるのを忘れていたことだった。
何の気なしに手を伸ばした。
「それは、けがでもしているのか?」
口にした途端、弁丸の、伸ばした指先に鋭い衝撃が走った。
振り払われた。
弁丸は驚いて目を瞠る。弾かれたように身を起こした子供は、少しの間の後で、後退りに弁丸から一歩距離を取った。
「あ……」
気安さで満ちた空気は一変していた。子供の顔は、先ほどまでの笑みが幻であったかのように硬く強張っていた。昨日最初に子供を見かけた時のようだった。いや、それよりも尚悪い。
「――帰る」
子供が木刀を掴み、その顔を隠すかのように身を翻した。弁丸へと背を向ける。
「待、っ!」
慌てて立ちあがろうとした弁丸に、振り向きざま片手の木刀を投げつけた。
弁丸は咄嗟に身を捩り、顔を伏せて腕で庇う。
木刀は弁丸を大きく逸れて、回りながら空を切り背後の草むらへと落ちた。その音を聞いて弁丸が顔を上げた時には、早足で歩き去る子供の背中は遠ざかり、走って追いかけようとした弁丸の足は心ごと凍って動かなかった。
怒らせた。
後悔に、心臓が喉元で大きく脈打った。瞬きも忘れて、遠ざかる子供の背をただ見つめる。
謝らなければと強く思うが、その思いを裏切って足が動かない。声も出ない。
聞いてはいけないことだったのだ。触れてはいけない場所だったのだ。
そう気づいた。
子供の投げた木刀を拾い、持ち帰って、次の日弁丸は朝早くから土手の同じ場所に陣取った。謝るための待ち伏せだった。
例え自分に会いたくなくとも、弁丸の手元には彼の木刀がある。上等な木で作られていて、どこもかしこも細かな傷だらけで、握りの部分に滑り止めに巻かれた布は黒く汚れてどれほど使い込んでいたかが伺える。必ず取りに戻って来るだろうと考えた。
一日待ち続ける覚悟は出来ていて、下女に頼んで水と握り飯も持たせて貰った。素振りをしたり、それに飽いて川に草を流したり虫を追ったりして時間を潰し、けれどどれほど待ってもとうとうその日、子供は姿を見せなかった。
そして次の日も、その次の日も。
日が暮れるまで待ち続けても、子供は土手に現れなかった。
初:2007.11.27/改:2013.04.03