八
「真田」
呼べば、幸村はのろのろと顔を上げた。
「話したい事があるなら入れ。でなけりゃオレがそっちに行く。体、まだ辛いんじゃねえか?」
「いや……どうということはござらぬ」
少しの躊躇いの後に、幸村は立ち上がって襖の横木を超えた。
元は納戸か何かだったのかごく狭いその部屋は、布団一組伸べただけで床の殆どを占めてしまい、他にあまり居場所もない。
幸村は布団脇の僅かな板の間に腰を下ろした。
「燭台、持ってくるか」
腰を浮かせかけたところを、幸村が慌てて止めた。
「このままで構わぬ。今は、あまり見えぬ方が良い」
見えない方が良いと言うのは政宗の事だろう。開いた襖の向こうから差す隣室の明かりは、受ける角度が変わったことで幸村の顔を先程よりも照らしている。
俯いた幸村は、正座の膝に置いた手を握っている。政宗と視線を合わせずに、布団の端か床かそのあたりを見るともなく眺めている。
躊躇った末に言った。
「貴殿からの文を見た」
言葉に、政宗は目を瞠る。
「佐助から話も聞いた。……恋仲であったと」
思わず先程まで佐助がいたあたりに目をやるが、当然その姿などありはしない。
「真のことでござるか」
問いながらも視線を上げない幸村に、政宗は気まずく耳の後ろを指で掻く。幸村の、苛立った態度はそのせいもあったのかと腑に落ちた。
恋仲。その言葉のむず痒さ。
甘やかな言葉がどれほど気分にそぐわなくとも、客観的に名をつけるとすればそうなるのだろう。
「まあ、間違っちゃいねえ」
小袖の膝の布地を握り、幸村は理解できぬと低く言う。
「わからぬ。何が起こればそうなるのだ」
「何故ったってな……。オレはアンタに興味があった。アンタが何で、ってのはオレは知らねえ」
「貴殿は敵だ。お館様の、ご上洛の妨げとなる者だ」
政宗は頷く。
「そこに恋仲だなどと、そんなものが何故入り込むのだ。お館様がご存知で何も仰らなかったというその意図もわからぬ。某には、皆の語る俺が、貴殿も、何を考えていたのか全く理解できぬ!」
一息に言われたそれを受けて、政宗は吐息で笑った。
そうして事実だけを羅列されれば政宗とて理解し難い。
「理解なんざしなくていいさ。それは、アンタの言うところの、知らねえ野郎の話だ。気に掛ける必要もねえ」
敵対関係でありながら、想い合う間柄で、戦うこともまた望んでいて、主も黙認。
馬鹿げた話だ。
「今のアンタには関係ない」
だが、宥めるつもりのその言葉に、幸村が弾かれたように顔を上げた。正座の足を立たせた。次の瞬間、政宗は布団に背を打ち付けていた。
「――ッ!」
組み伏せられたのだとは、一拍遅れて気が付いた。両手に肩を押さえつけられている。何のつもりかと見返した幸村の目は、薄闇の中でも強い怒りを湛えているのが見て取れた。
「そうだ……。某には関係ない」
低く抑えた声で幸村が言う。
「某の知らぬ某と、貴殿とにどれほど親交があろうと某には何の関係もない。恋仲であろうとそれが何だ。某は何も知らぬ。覚えてもおらぬ。なのに、これほどまでにはらわたが煮えるのは何故だ!?」
政宗は目を瞠る。
「苛立つばかりだ。落ち着かぬのだ。ずっと! 腹の底が焼けるようで、焦れるようで、わけがわからぬ……!」
独眼竜、と、喉から血の塊を吐き出すように幸村が呼ぶ。
「苦しくてたまらぬ。……俺は、……っ」
喘ぐような言葉の後、ふいに幸村が体を伏せた。政宗の喉元へと舌が這わされる。
「さな、――!」
ぎちりと噛み付かれた。
上げそうになった声をすんでに堪えた。
柔らかな皮膚に、加減なく噛み付かれて政宗はその痛みに息を呑む。奥歯を噛み締めて声を殺し、解放されたと思えば次は耳に。
「ッ、い……!」
短く、堪えきれずに声が漏れる。噛み千切られるかの痛みだが、おそらく切れてはいないだろう。
「……ッ」
噛んだ跡を舐め、また歯を立て、場所を変えてまた噛まれる。小袖がはだけられて隠されていたその下へ。首の柔らかな皮膚。肩の薄い部分。
「……く、……っ」
次々に強く噛み付かれる痛みに、喉で殺し損ねた声を漏らしながら、政宗は幸村のしたいようにさせた。苦しいと、縋るにしても酷い手段だが、今突き放す気にはなれなかった。
片腕が袖から抜かれる。肩から腕、脇腹。
痛みに息を詰め、苦しく呼吸を継ぎながら、ふと、政宗は脚に擦り付けられる感触に気が付いた。肉に歯を立てながら、幸村の腰が蠢いて政宗の腿のあたりに押し付けられている。
挑発か、と、考えてすぐに打ち消した。
幸村はそんな器用さの持ち合わせはない。
ならばこれは本能的なものだ。
無理もないと政宗は考える。幸村は丸一日眠り続けた。目を覚まさなかった。それだけ消耗していたということだ。
命の危険を感じた時、男の体は子を残そうとする。政宗にも覚えのあることだった。戦を終え独りでに昂ぶろうとする体を、天幕でひとり宥めた事もある。
抱かれてやるのは容易い。
政宗とて長くしていない。もどかしく擦り付けられる熱に浅ましく喉が鳴る。それが欲しくて目が眩む。深くへと迎えて内側を抉られ揺さぶられたい。
脇腹を噛んでいた幸村が、胸の先端へと舌を這わせた。舐られて、政宗は身を強張らせる。
「待、っ」
制止よりも早く、刺激に立ち上がった先端へと幸村が強く噛み付いた。
「――――!!」
もはや声も出せず、政宗はとっさに掴んだ幸村の肩を力任せに押し返した。
「……あ」
夢から醒めたように瞬きする幸村に、政宗は顔を歪めて盛大に舌打ちした。
「テメエ……本気で食いちぎるつもりか」
「あ、す、すまぬ!」
「悪いと思うならどきやがれ。いい加減痛え」
言うが、戸惑った様子のまま幸村は政宗を見下ろして動かない。これみよがしの溜息をついて、政宗は幸村を押し返す手の片方を離した。
「噛んで紛れるならそれもいいがな。……苛立ちだとか、混乱だとか、アンタの中身のとこはオレにはどうにもできねえ。アンタ自身でカタをつけるしかねえ。けど」
その手を、政宗は幸村の脚の間へと向かわせた。下帯をつけていない幸村の雄は既に張り詰めて、直にそれに触れた手に、幸村が驚いて腰を引く。
「――ッ、な、何を」
「アンタの、それを鎮めることならしてやれる」
幸村が息を呑んだ。
「どうする?」
問いかけに、躊躇う幸村から答えはなく、政宗は再び幸村のものへと手を伸ばした。
「……あ、……っ」
幸村が戸惑って声をあげる。
構わずに竿を握り込んだ。久しく触れていなかったその感触。軽く上下に扱いてみるが、今度は幸村は逃げなかった。
「う、っ……」
手の中で幸村が形を変えてゆく。眉根を寄せる顔を眺め、政宗は背を起こした。
「座れ。腕が怠ぃ」
胸を押せば、幸村は従順に後ろへと腰を下ろす。向かい合って座り、改めて幸村の脚の間へと手を伸ばし形をなぞる政宗の、はだけられた左肩にふいに幸村が指を触れた。
何をするわけでもなく、触れたあたりをただじっと眺めている。やがて、まるで初めて触れるものを確かめるかのように肩を撫で、腕を辿り、幸村を握る手に触れた。
「何だ?」
邪魔をされて顔を上げれば、幸村は手を離し、また肩のあたりへと触れる。
「……人の、肌だと」
「今頃言うことか」
さんざん噛んでおいて今になってそんなことを言う幸村の、腕を掴んだ手の温度の高さ。
「さ、先程は、某、無我夢中で」
この廃寺に運び込んだ時にはひやりとしていた体温がいつの間にか元に戻っていた事に、安堵もして、政宗は喉で笑う。
「人の肌で安心したか? それともその逆か?」
「……いや」
曖昧に応えて幸村は、肩に触れたまま少し考え込む。
「そうだな。……某と、変わらぬのだな」
不思議そうに言う幸村の、それとよく似た声を聞いたことがあると、政宗はいつかの出来事を思い出す。
――触れてみても、良いだろうか。
政宗の手を不思議そうに眺め、言う幸村に、片手を伸ばしてやったのは戦場以外で二度目に会った時のことだった。
一度目は、幸村が政宗の城へと手合わせを求めて駆け込んだ。あれは戦に数えても良いくらいだった。力尽くで門番を退け、駆け付けた城の守りを片端から倒して、それら全て槍の石突きによる峰打ちで、本丸を目前にしてどうにか取り押さえられた幸村は、まるで縄をかけられた暴れ馬のようだった。その奮戦に免じて手合わせに応じ、茶と菓子を振舞って甲斐へと帰した。
二度目はそれよりも大人しく、落ち着いて手合わせを申し込みに来た。それに応じて、気の済むまで打ち合って、やはり茶と菓子を振舞って四阿で話すうち、何かの拍子に手が触れた。
幸村は驚いて自分の手を引き、けれど政宗の手をじっと眺め、やがて触れてみても良いだろうかと口にした。政宗が頓着なく片手を出せば、幾度もまめを潰した硬い皮膚とごつごつと骨ばるばかりの手を、まるで高価な美術品か何かのように慎重に触れて、眺め、
「……某と、そう変わらぬのだな」
呟いた。どういう意味だと訊ねれば、深く考えての言葉ではなかったのだろう、幸村は少し困って、鱗でも生えているのではないかと、そう思っていたのかもしれぬと笑って言った。
三度目の機会は、それから間もなく訪れた。
すっかり顔が知れ渡り、目付けもなく門を通された幸村を、知らせを受けていた政宗は自室前の庭で迎えた。
幸村は武器を持っていなかった。
挑むでもなく、笑うでもなく、ただ真摯に向けられた目を見て政宗は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ろくでもねえ目してやがる。何しに来た、真田幸村」
幸村は政宗から数歩の距離で立ち止まった。体の両脇で拳を握り、喉を鳴らして口を開いた。
「某は、どうやら貴殿に惚れたようだ」
驚きはしなかった。
訪れを知らされた時に、用向きの見当はついていた。
幸村が政宗の手に触れたあの時、政宗もまた幸村の手の温度を知ったのだ。
軽く首を傾げ、政宗は可笑しそうに幸村を見る。
「……オレに?」
「左様。先日お会いしてより思い悩み、ようやく己の心をそうと悟り、矢も盾もたまらずこうして会いに参った次第」
薄い笑みで堅い告白を聞き、政宗はHanと言葉を継ぐ。
「それで? それを告げてアンタはオレに何を望むんだ」
「それは……」
「女にするみてえに、オレを閨に連れ込んで裸に剥いて抱きてえとでも言うつもりか?」
直接的な言葉に顔を赤くし、狼狽した幸村は、けれどすぐにまたその表情を引き締めた。
「如何にも」
軽く吹き出して、政宗は腰の刀に手を置いた。
「OK. いいだろう。アンタの腕はオレも認めるところだ」
驚きに目を瞠る幸村に、政宗は傲岸に顎を上げた。
「奥州に下る覚悟があるってんなら、オレの体と、アンタの腕に見合うだけの領土をくれてやる。歓迎するぜ、真田幸村」
「……え? いや、某は」
「Shut up」
政宗は腰の刀を一振り抜いた。切っ先を、幸村へと真っ直ぐに向ける。
「主は変えねえ、奥州には下らねえ、まさか、そんな生ぬるい覚悟でこのオレを手に入れようなんざ思ってねえだろうな?」
その切っ先を、下へと向ける。地に浅く突き立て、左から右へと滑らせた。ざりざりと音を立てて土が削られる。
「オレもアンタには興味がある。だが、自分の物にならねえモンなんざ、オレは要らねえ」
乾いた地面の、政宗と幸村との間に、一本の線が引かれた。
政宗はそれを眺め、一歩背後へと後退る。腕を組んで幸村を見た。
「テメエの立つ位置を選べ、真田幸村。オレが欲しいならこの線を越えろ。ただし、越えたら二度と虎のおっさんのとこには戻れねえと心得な」
「……政宗殿」
戸惑った様子で、幸村は政宗と、その前に引かれた線とを眺めた。
立ち尽くす。
それを満足気に政宗は眺めた。想定のうちだ。幸村はこの線を越えられない。越えられる男ではない。それで良い。
けれど幸村は、やがて何かに気付いた様子でああと小さく声を漏らした。場にそぐわないほどに晴れやかな笑みが政宗へと向けられる。
「分かり申した」
幸村が足を踏み出した。
政宗はそれを驚きと共に見つめた。
同時に胸に湧いたのは失望だった。
だが、それもまた幸いと考えた。
見立て違いだったが、逆に躊躇いなく討つことが出来る。
ただ一度、本気で打ち合って戦って楽しんで斬り伏せてそれで終いだ。惚れた腫れたで主君を裏切る男などに興味はない。
幸村が政宗へと片手を伸ばした。
口元を笑みの形に歪ませた政宗の、腕組みの手を強く掴んだ。
「っ!?」
力任せに引き寄せられて、体勢を崩した政宗は前へとよろめいた。傾いだ政宗の体を幸村が抱き止める。
抱き締めた。
ご覧下され、となぜか嬉しげに幸村が言う。
「このように、線を越えずとも、こうして触れる事は叶いまするな!」
政宗は地面を見た。
言葉の通り、幸村は政宗と線を隔てて立っていた。僅かな爪先すらも越えていない。
顔を上げると幸村は得意満面といった様子で、呆然とその顔を凝視する政宗の様子に、ややあって不安げに顔を曇らせた。
「……如何でござろう?」
如何も何もない。そういう話ではない。とんち比べを仕掛けたわけではない。
馬鹿か、と罵ろうとするが言葉は次々胸で詰まり、結局、政宗の口から出たのは笑い声だった。
それで良いわけがないと、触れてしまった体温を拒めないほどには、政宗とて幸村を欲していた。欲しい、と、とうに自覚していた。突き放して幸村を退かせる以外に、諦めるすべが見つからないほどに。
「全く……アンタは」
言いかけた頬に幸村の手が添えられた。幸村は笑みを消して、何か痛みを堪えるような目を政宗へと向けていた。
お慕いしている。囁く声が言った。
指先が頬の皮膚を辿った。上向かされた。政宗は幸村の唇の感触を知った。口付けのあいだ頬に添えられた手は長くそこから離れなかった。
その日のうちに幸村に抱かれた。
「ッ……あ、あ」
幸村が、途切れ途切れに濡れた声を漏らす。向い合って座った姿勢で、腹の間で、二人は互いの男根を握り合っていた。
「……っ、く」
座らせた幸村の柔い嚢を揉み、竿から先端へと手で慈しんでやれば、幸村はすぐに限界を迎えて政宗の手を汚した。
幾度かに分けて精を放ち、衰えないそれを更に扱いてやるうちに、政宗の脚の間へとためらいがちに幸村が触れてきた。
その時に止めるべきだった。
張り詰めた幸村の欲に手を這わせ、熱い手に施されるぎこちない手淫に息を弾ませながら、政宗は今になってそう思う。
自分の感情には自分でカタをつけろなどと言っておいて、こんな風に互いに触れ合ってしまえば意味が無い。こちらには触らなくて良いと拒み、熱が引くまで一方的に幸村の熱を処理してやるべきだった。
いや、そもそも、手を貸すと言ったところから間違いだ。結局のところ自分は、自分の、幸村に触れたいという欲望を優先しただけの事だ。
幸村は羞恥に頬を染めながらも、食い入るように二人の脚の間を眺めている。自分の雄に、政宗の指が絡み撫で上げる様。自分の手の中で政宗が張り詰め、先端から滴を溢れさせる様。
「……っ、このような……」
呟いて、自分と同じつくりの政宗のそれを、幸村はまるで初めて見るもののように手で繰り返し擦り、くびれを指の腹で辿る。熱く息を吐いて、政宗は指を絡め直す。
「ふ、あ、…っ、……!」
裏筋を刺激して先端を撫で回し、指先を捩じ込めば幸村はたまらず身を捩った。胸を喘がせて、政宗の肩へと額を凭れかからせる。
額の汗、吐息の熱さ。
「……真田」
緩く手を動かしながら、卑怯ついでと政宗は呟いた。
「オレは、アンタが腕を上げて、オレと対等に渡り合うようになったから興味を持ったわけじゃねえ」
間違わずに伝わるだろうかと、考えて、政宗は躊躇う。政宗の肩に顔を伏せた幸村の手がゆっくりと止まる。
「そんなもんは最初からだ。最初に見えた時からだ。……だから、アンタがアンタである限り、捨て置けと言われたところで出来やしねえ。生憎だがな」
こんな事はこれまで一度も口にした事がなかった。互いに同じような速さで惹かれて、落ちて、関係に多くの言葉を必要としなかった。
言うだけ言って、政宗は幸村を探る手の動きを激しくした。
「っ……!」
思うままに弄り回して、張り詰めてふるえる欲を果てへと導く。舐めてやりたいと思うがさすがにそれは自制する。
止まっていた幸村の手が、慌てたように動き出す。蠢く様はぎこちないままだが、幸村の手だという、それだけで政宗には充分すぎる刺激だ。
は、と喘ぐ速度が早くなる。
「あ……あ、あ、っ、あ、だ、伊達…殿……ッ!」
「ん、く、ッ……!」
漏れる声から絶頂の近さを感じ、手の動きを早めれば、幸村は体を強張らせて精を放った。息を詰めて、政宗もすぐに自分の熱を吐き出した。
夜明けからそう経たず、政宗は浅い眠りから目を覚ました。
障子紙を透かす光はまだほの白い。
隣では幸村が眠っている。薄く口を開けて眠る様を眺めて、政宗はそろりと布団から抜けだした。
見れば、枕元には昨夜まではなかったはずの着替えが置かれていた。小袖と袴が二組。少し悩んで小袖だけを手に取った。
襖は昨夜幸村が開けた時のままだ。
そこから隣の部屋へと移動して、極力音を立てないよう衣服を着替え、政宗は庭に面した障子を開けた。
庭には当然の顔で佐助が居て、木の枝に胡座をかいて政宗を見る。
「オレの服と鎧は」
佐助が視線で示す方を見れば、廊下を右に折れた先の部屋に鎧櫃が置かれているのが見えた。
「馬に運ばせるなら籠か何かつけるけど」
「籠? COOLじゃねえな」
「……要らないってことね、了解」
廊下の途中、靴脱石に草履を見つけて政宗はそれをつっかける。庭へと降りた。
「馬は」
「厩。あっち。何、帰んの?」
「野郎の目が覚めたからな。馬の様子見て、着替えて戻るさ」
示された方へと足を向け、政宗はふいに立ち止まると佐助を振り向いた。口の端を上げて笑う。
「あァ。そういやアンタの烏、優秀だな。ウチに売れよ。高く買うぜ」
「ぜってえ嫌だ。ていうかそうだ、旦那たち腹減ってねえの? 一応、米と野菜と味噌と塩と調達して来たけど」
「野郎に食わせてやれ。オレはいい」
そんな会話を交わしていると、政宗が閉じたばかりの障子が勢い良く開けられた。
「独眼竜殿!」
声に振り向けば起き抜けの、髪も小袖も乱れたままの姿で幸村が戸口に立っていた。庭に政宗を見つけ、すぐに急いで廊下に出る。
「待ってくだされ! その、某は、――ッ!?」
裸足のまま、廊下から庭へと降りようとした幸村の体が、がくんと前につんのめった。
何もない場所で足を取られた。
前のめりに倒れ込む幸村を見て、政宗と佐助とが目を瞠る。
「がっ……!」
幸村は、体勢を立て直すこともできず廊下から庭へと、ものの見事に転がり落ちた。
「……おい」
「ちょっと、何やってんの真田の旦那!」
政宗と佐助とが、慌てて駆け寄って膝を付く。
「不覚……」
幸村は、打ち付けた頭を押さえて緩慢に体を丸めた。そうしながら痛みを堪え、やがて波が去ったのか、深く大きく息を吐いた。
「立てるか? 手ぇ貸すか?」
「いや、……この程度の高さ、どうということはござらぬ」
照れ隠しのように笑いながら体を起こし、幸村は、顔を上げて動きを止めた。
政宗を見、その隣に佐助を見て、ぱちんと目を瞬かせる。
「……佐助」
「ん?」
「お前、いつの間に来ていたのだ?」
「え? ずっと控えてたけど」
「控えていた? どこにだ」
「どこにって、そのへんに」
聞き返す佐助に不思議そうな目を向けて、幸村は呆然と周囲を見回す。
「……え?」
首を巡らせて、体を捻って背後の寺へと目を遣る。
弾かれたように立ち上がって、自分の小袖と裸足の足もとを見る。政宗へと目を戻す。
その様子に、政宗は身を乗り出す。
「アンタ、まさか」
「政宗殿、ここは……?」
予想通りの疑問を口にした幸村に、政宗と佐助は目を見合わせた。
2013.06.09