終

 柿の木から落ちた。
 顔を上げれば景色は春で、見知らぬ庭で、振り向いてみれば政宗の城ではなくなぜか古寺が背後にあった。
 それが幸村にとっての出来事だった。
 記憶を失くした半年の事は何ひとつ覚えていなかった。

「俄には信じられぬ……。が」
 ひとまず三人は幸村が転げ出てきた部屋へと揃って上がり、一時的に記憶を失っていたこと、そして二日前の戦からここに至る経緯だけを、佐助が簡単に説明した。
 幸村は半信半疑にすら至れない、まるきり突拍子もない夢物語を聞かされたかのように、困り顔で佐助の話に耳を傾けた。
 だが信じられずとも外に見える木々は柔らかな緑で、春の色彩で、庭には梅が盛りとばかりに咲いている。どう見ても秋の景色ではあり得ない。
「つまり、俺は、半年を無駄にしたということか?」
 佐助は肩を竦めてみせる。
「ま、そういうこと」
 政宗は部屋の隅の壁に背を預けて座り、戸惑うばかりの幸村と、すっかり気の抜けた様子の佐助を眺めた。
 無事、元に戻った。
 喜ぶべきなのだろうが、喜ぶよりも先に何やらぼんやりしてしまうのは政宗も同じだった。
 ゆうべ距離を近付けたばかりの幸村と。
 今の、良く知った幸村と。
 上手く頭を切り換えられずに、何となく疲れたような複雑な心地でぼんやりとしてしまう。
「しかし……いや、それがまことならば」
「だからまことですって」
「俺はお館様にどうお詫びすれば良いのだ……」
「ああ、うん。そうね。まあ」
 佐助が投げ遣りに相槌を打つ。
 低く呻いた幸村は、握った両手を床につくと政宗の方へと向き直った。その姿勢で少しの間政宗を見て、やがて深く頭を下げる。
「政宗殿にも、まことご迷惑をおかけしたことと思う。申し訳ござらぬ」
「……あ? 別に、迷惑なんざかけられちゃいねえ」
 言う政宗に、幸村は困った様子で眉尻を下げる。視線を彷徨わせて、佐助を振り向き目配せをした。
「わかった。とりあえず先に、大将に報せ出しとくよ」
「うむ、頼む」
「っと、そうだその前に真田の旦那!」
 佐助は、部屋の隅に置いてあった十字槍を掴むと幸村に向けて放った。受け止めて、幸村は目を丸くする。
「何だ?」
「それ、炎灯せる? ってか試してみてくれる?」
「炎? 無理を言うな。朱羅だろう」
 幸村は不思議そうな目を佐助へと向ける。
「いいから。ちょっとやってみてよ」
 怪訝そうにしながら、それでも幸村は胸の前に槍を構え、穂先に意識を集中した。少しして、下げる。
「……出ぬな」
「んじゃいいや」
 佐助はするりと部屋を出た。
 何なのだとぼやいて幸村は槍を置く。
 政宗は佐助の姿が開け放った障子の向こうに消えるのを眺め、ふと視線を感じて幸村を見た。目が合って幸村は慌てて俯き、躊躇う様子を見せたかと思うと歯切れ悪く口を開く。
「その……政宗殿。某、佐助の言う半年の間の事を何も覚えておらぬのだが」
「ん? ああ。聞いてた」
 政宗の相槌に、幸村がどこかきまり悪そうに目を上げる。
「ずっと、倒れた某に付き添って下さったのだと」
「ずっとって程じゃねえ。二日ってとこだが、まあ、そうだな」
「昨夜もでござるな」
「……それが?」
 肯定する政宗に、幸村が重く息を吐いた。
「では、やはり某が、貴殿に何か無体を働いたのだな」
 政宗はぱちりと瞬いて、自分の小袖の襟元へと目を遣った。それが答えになってしまった事には遅れて気が付いた。
 幸村が顔を曇らせる。
「……そうか」
「ああ、待て。そうじゃねえ」
 政宗は慌てて壁から背を起こした。
「何でもねえ。ちっと噛まれただけだ。つうか、アンタ、何でわかった?」
「首のあたりが赤うござれば。噛まれた、とは?」
 言われて、喉元に手をやるが触れたところで異常はわからない。早く言えと佐助の顔を思い出し胸の内で毒突くが、考えてみれば、戦装束に着替えれば政宗の首は布で隠れる。
「Ah, ……」
 仕方なく、いきさつを纏めようと言葉を探して、政宗は思わず渋面を作った。
「ダメだ、ちっと長くなる」
「長くても構わぬ。聞かせていただきたい」
「上手く話せる自信がねえ。戻ってから猿にでも聞け。ただ、無茶されたワケじゃねえ」
「合意のうえ、という事でござるか」
 硬い声に、政宗は目を瞬かせて幸村を見た。
「……んだ、それ」
 幸村は怒っているように見えた。
 どこか責めるような口ぶりに、政宗は眉間に皺を寄せる。
「妬いてでもいるつもりか? 噛まれたのと、まあ、ちっと抜くのに手ェ貸したが、それ以上の事はしてねえ」
「まことでござるか」
「嘘だと思うなら指突っ込んで調べてみろよ。昨夜は何もやってねえ」
「昨夜“は”?」
「……だから、さっきから何のつもりだ真田」
 言葉尻を捉えての追求に、政宗の頭に僅かばかり血がのぼった。隻眼を細め、顎を上げて幸村を睨む。
「アンタ、最後にオレと寝たのはいつだ?」
「……夏でござる」
「オレも同じだ」
 幸村の表情は硬いままだ。
 答えながら政宗は表情を険しくする。
「アンタが思うような事は何もねえ。アンタ以外とは何もしてねえ。だがな、オレが誰を相手にSEXしたところで、それが何だ? アンタに何を言われる筋合いもねえ。『真田幸村』相手なら尚更だ」
 言いながら無性に腹が立ってきた。
 半年も忘れられたままで、どうにか近付いたと思えばまた失くして、戻って来た幸村はいきなり臍を曲げだした。
「勝手に忘れて、勝手に行き詰まって、人にさんざ当たって噛み付いて、勝手に思い出したかと思えば今度は自分相手に的外れの悋気か」
 言ううちに今度は無性に笑えてきた。Ha, と短く息で笑う。
 もう知るかと口に出しかけたところで、幸村がすまぬと小さく言った。
「すまぬ。……八つ当たりでござった」
 沈んだ様子のまま目を伏せる。
「だが、何やら、まだ狐につままれているようで」
 心細く言うそれとよく似た言葉を、秋にも聞いたと、政宗は頭の隅で思い出す。
「佐助の話といえど容易くは信じられぬ。いや、疑っているわけではないのだがあまりにも突飛で受け入れられぬ」
 柿の木から落ちて。
 顔を上げれば見知らぬ庭で、季節は春で。
 政宗は盛大な溜息ひとつで怒りを散らす。
「寺も、梅も、あの猿の術だとでも言われた方が受け入れやすいか」
「……そうでござるな。ただ、政宗殿のその、跡は」
 幸村の視線が、政宗の首のあたりに向かう。
「術ではあり得ぬ。そのようなもの、某以外には許されぬ」
 その言い様に、政宗は面食らった。
 言われてみれば幸村は、その跡が『自分』につけられたものだと、その点に関して確認はしたがそれ以上は疑わなかった。
「ゆえに、物忘れなどと、どれほど夢物語のようであってもそれがまことの事なのだと……そこから受け止めようとして、想像するうちに、つい」
 幸村が大きく息を吐いた。
「行き過ぎた。申し訳ござらぬ」
「……そいつはまた、意外過ぎる視点だな」
 自惚れなのか何なのか、呆れもするが、それは事実でもある。確かに政宗は今のところ、幸村以外にこんなことを許すつもりはない。
 夜が明けても跡が残っている、そのことにも納得できるだけの痛みがあった。それでもしたいようにさせたのは幸村だったからだ。
 それが幸村の混乱や、葛藤や、そんなものの表れならばと、そう思って受け止めた。歯を立てながら、苦しくてたまらぬのだと、絞り出すように訴えた声を思い出す。
 上手く飲み込めないのは政宗も同じだ。
 幸村が戻ってきた。
 かわりに、三年前へと遡り昨夜政宗に触れた幸村が消えた。
 あの幸村はどこに行ったのだろうと考える。待ってくだされ、某は、と今しがた庭に出る直前に政宗に言いかけた、あの言葉の続きをもう知ることはないのだろう。
 取り戻したと同時に、また失ったような奇妙な気分が腹の底に淀んでいる。
 政宗は肩を押さえ、軽く首を回した。
 なあ、と幸村に呼びかける。
「Simpleに行かねえか、真田」
 秋から春。
 色々あり、それら全て無かった事になり。
「オレは、今年になって反乱をひとつ鎮圧した。アンタのとこはさっき聞いた通りだ。忍同士の戦がひとつあって、オレの知る限りではそれだけだ」
 幸村は戸惑った様子で、それでもひとつ頷いてみせる。
「で、アンタがオレ以外の誰の手にもかからずに今オレの前にいる。オレはそれでいい」
 そう言ったところで腑に落ちるわけもなく、晴れない顔の幸村を、政宗は指で手招きした。立ち上がり数歩の距離を近付いて、政宗の前に座ろうとした幸村を更に手招く。
「Good」
 呼ばれるまま、向かい合って膝立った幸村の腕の下へと、政宗は手を伸ばして背に回した。少しためらって、幸村の手が政宗の頭を抱え込む。
 緩くかけられる重み。
 鼻を寄せた胸のあたりの匂いを嗅げば、借り物の小袖の見知らぬ匂いに混じって幸村のにおいがした。
 寄せた体の相変わらずの温度の高さ。
 染ませるように間近に楽しんで、やがて背を反らして上向けば、意図を読んだ幸村がそっと唇を合わせてきた。最早懐かしくさえあるその感触。
 けれど。
「アンタには、一刻振りくらいか」
 聞けば、幸村が少し困ったように頬を緩めた。
「そうでござるな。先程、手合わせの前に」
 政宗は吐息で笑った。
「オレは半年振りだ」
 薄い唇に再び触れる。繰り返し触れて、幸村の舌を誘った。濡れた感触を纏って舌が絡む。胸を合わせ、互いに背に腕を回して、探り合う感触に政宗はとろりと目を閉じた。
 気が済むまで味わって顔を離せば、幸村が身をかがめて、政宗の首のあたりに吸い付いた。
 その、覚えのある場所に政宗は思わず軽く吹き出す。昨夜、食いちぎられると思うほどに噛み付かれた場所。
「気になるか?」
 言えば、幸村が皮膚を更に強く吸い上げた。鬱血が増したに違いないその感触に、しばらくは洋装しか出来そうにないと政宗は密かに苦笑する。
「気にならぬわけがない。このような」
 体を離し、小袖の衿に幸村が手をかけた。衿を開いてその下を確かめる。裾を帯から引き出して更に開く。肩から腕へと残る歯の跡を見て眉根を寄せた。
 酷い、と漏れた声に、政宗は喉で笑う。
「構やしねえさ。アンタの跡だ」
「……某ではござらぬ」
「アンタだった」
 不満そうな様子の幸村に、政宗は、その頬を指で辿り軽く抓る。
「そんな顔すんなら、二度と物忘れの病になんざ罹んねえことだ。オレは、アンタが何をどこまで忘れようが、アンタである限り誰だって構やしねえ」
 言い放つ政宗に、幸村は困ったような目を向けた。
「何だ?」
「いや、……何やら、喜んで良いのか、悲しんで良いのかわからぬと……」
「喜べよ。何が不満だ?」
 横柄に言い放つ政宗に、幸村は困り顔のまま頬を緩めた。
「そうでござるな」
 頬を抓る政宗の手へと幸村が唇を寄せる。顔の動きで頬から離れた指を唇が軽く食んだ。
「某も、政宗殿が某のことを忘れたとしても構わぬ。幾度でも想いを告げるだけのことなれば」
 そうしてまた幸村は政宗の肩へと唇を寄せた。軽く歯を立てて吸い、跡を辿りながら腕に。そこでまた肌を吸う。
 愛撫でなく、自分の見知らぬ跡を自分のもので塗りつぶす、それだけの意図しかないその行動を政宗はくすぐったく受け止める。自由な手を幸村の髪に遊ばせ、絡めて、梳く。その感触も懐かしいものだった。細い滑らかな髪。掴んで引いて顔を上げさせた。幸村が目を丸くして政宗を見る。
 口付ける。
 唇。
 頬。瞼。額。髪。
 柔らかな耳たぶを口に含む。
「政宗殿」
 ふいに幸村が、政宗の首に抱きついて体重を預けるように凭れ掛かった。
 政宗はその重みを受け止める。
 幸村の後ろ髪を手櫛で解いて、指に絡ませた。匂いを嗅いで、口付ける。政宗を庇った時の炎の名残か、少し焦げたような匂いがある。
 ふいに耳元で、何か、やるせないような吐息をひとつ幸村がこぼした。
「どうかしたか?」
 問えば、幸村が肩に顔を擦り付けるようにする。
「……その、某、この跡の他にもう一つ、佐助の話を信じる根拠が見つかったような気がするのだが」
 瞬きして、政宗は首を曲げて幸村を見るが、抱きつかれているせいで跳ねた髪しか目に見えない。
「根拠? 何だ」
 背に回された幸村の手が、縋るように、小袖の布地を緩く掴んだ。幸村が力なく言う。
「某は、いつから飯を食っていないのでござろう」
 一拍の後。
 吹き出した政宗は、思いきり声をたてて笑い声をあげた。
 うう、と幸村が小さく呻く。
「先程まであまり気にならなかったのだが……。何やら、政宗殿に口付けられるうち、猛烈に腹が減って目が回り、体にも力が入らぬ始末で」
「I see. だろうな」
 言われてみれば政宗も空腹は空腹だ。気が張っていたせいで今まで気にならなかった。しかも政宗は昨日の昼に握り飯をひとつ腹に入れたが、幸村は目を覚ました時に水を一杯飲んだきりだ。
 政宗はひとしきり笑って言った。
「二日だ、オレの知ってる限りでな」
「二日……!?」
 どうりで、との声はもはや嘆きに近い響きだ。
 それにまた声を立てて笑い、政宗は幸村の体を離した。手つかずの兵糧丸が転がっていたはずと布団の脇を見るが、佐助が片付けてしまったのか見当たらない。
「Ah, ちっと待ってな、何か作ってやる。猿の野郎が食材用意してあるっつってたからな」
 確か米、野菜、味噌と塩。何品作れるかは野菜次第だが、幸村の体の問題もある。
 思えば、食事を作ってやるのも久しぶりだ。
 凭れ掛かる幸村の背をあやすように叩いた。
「ま、二日食ってねえんじゃmainは粥だが、文句言うなよ」
 幸村を置いて立ち上がろうとした政宗の首に、抱きついたまま幸村が共に立ち上がった。
「おい、転がってていいぜ」
「いや……某も行く」
「手伝いなら要らねえぞ。我慢できねえなら、すぐ食えそうな水菓子でもねえか見てきてやる」
「それはありがたいが、やはり行く。それで、飯を作る政宗殿を見ている」
 政宗は目を丸くして、すぐに意地の悪い笑みに摩り替えた。声をひそめて低く言う。
「あんまり可愛い事言うと襲っちまうぞ」
「腹が膨れた後ならば望む所でござる」
「Ha, 上等だ」
 首に抱きついたままの幸村の、髪をくしゃりと雑に撫でた。
 遅れついでに、あと一日くらいは小十郎も許してくれるだろうかと考える。
 飯を食べて、腹を満たして、少し休んで体力を回復して。宣言したように布団に雪崩れても良いし、武器を手に庭に出るのも良いと思う。
 戦場以外でならばどうせ、どちらもそう変わらない。


     *


 夏が過ぎ、また秋が来た。
 各地で幾つか戦があって、勢力図は少しずつ変化する。
「あれ、これ何?」
 そんな中、ひとり変わらず、各国の敵対関係など知らぬ素振りで、叔父夫婦に危険が及ばない限りはと気の向くままに各地を巡っている前田の風来坊は、伊達の城の柿の木の下で不思議そうに足を止めた。
 枝もたわわに実った柿は、今が盛りの鮮やかさで色付いている。政宗に会いに来た幸村と、ふらりと城に立ち寄った慶次とは、万年空腹の慶次の要望で連れ立って柿の実を取りに出たところだった。
 後ろから少し遅れて歩いてきた政宗が、慶次の問いにしたりとばかりに笑みを浮かべる。その隣で幸村が目を瞠った。
 柿の木の根元には、去年まではなかった真新しい立て札がひとつ設けられている。
「あァ。調子に乗って登る奴がいるんでな。注意書きだ」
 へえ、と慶次は政宗を振り向いた。
「猿はいい?」
「猿なら落ちねえだろ。別にいいぜ」
「あー、なるほどな。その登った人、落ちたんだ」
 快活に笑って慶次は夢吉を枝に飛び移らせ、夢吉は近くの柿の実をひとつもぎ取ると、その場でよく熟れた実に齧り付いた。慶次も手の届く枝から柿をもぎ取り、抱えてきた籠の中へと収穫して行く。
 それを少し離れた場所で眺め、政宗は意地の悪い笑みを浮かべて幸村を見る。
 幸村は立て札に書かれた『登ルベカラズ』の文字を見て、決まり悪そうに政宗を見た。その眉尻が情けなく下げられる。
「政宗! 幸村も!」
 呼ぶ声にそちらを見れば、慶次の手から柿が放られたところで、曲線を描いたそれは二人の手の中へと落ちてきた。
 二人揃ってそれを眺め、
「……もう登りませぬ」
 政宗にだけ聞こえるよう言われた叱られた子供のような声に、政宗はひとこえ短く笑った。

2013.06.10