七
山の一角に火の手が上がった。
いっとき空を染めて見る間に消えた炎に、敵にも味方にも等しく動揺が走る。
幸村だ。
佐助は確信を抱いて持ち場を部下に託して離れ、火の手の上がった方へとひとり矢のように駆けた。同じく物見に動こうとしたらしき敵方の忍を、真田隊が阻んで食い止める。
幸村の扮装は戦ううち、必要に応じて解いていた。今纏うのは常通りの草木の色で、山中を走ればすぐに紛れる。
増援に現れた上杉忍軍の数は多かったが、かすがも、北条お抱えの『伝説』も参戦していなかった事は幸いだった。もしどちらかでも居れば、佐助が戦線を離脱することなど一時たりとも出来なかった。いや、そもそも風魔が居ればこの戦もなかったはずだ。最初に接触した武田の忍たちは、知らせを出す間もなく残らず命を落としていただろう。
火が舐めたのは、歪んだ円形のようなごく狭い範囲。近付けば、草木がことごとく焼き尽くされ、緑の葉が失われて、半ば炭になった枝が露出している。
その焼けた円の中に、誰とも判らないほどに黒く焼けて地に転がる二つの死体と、地面に散らばる幾つかの苦無と、円の淵に倒れ伏した赤備えの姿を佐助は見た。
そして、それだけは予想のうちになかった、その幸村を抱え起こそうとする蒼い陣羽織の。
「独眼竜の旦那?」
政宗が煤で汚れた顔を上げる。隻眼の光が佐助を射た。
「遅え」
まさか、と思うが流血の跡はなく、血の臭いも感じられない。といっても、立ち込める焼け跡の匂いで鼻が利いているとは言い難く、佐助は足音もなく近付いて政宗の傍らに立つ。
「あのさ」
「生きてる」
問いかけの先を読んで、政宗が短く答えた。
「……これ、真田の旦那が焼いた?」
それには、頷きだけが返された。
佐助は膝をついて、幸村の首筋に触れて脈をとる。
確かな脈動を指先に確かめて、佐助は油断なく周囲の様子を伺いながら腰を浮かせる。
「あんた、まさか歩いて来たわけじゃねえよな? 馬は?」
問うが、政宗からの返事はない。
政宗が担ぎかけた幸村を引き受けて、脇の下に手を差し入れ、起こす。忍び装束の肩へと担ぎ上げる。幸村の手から落ちた二槍が地面で乾いた音を立てて転がる。
「こっちはひとまず引き揚げる。あんたも早く行きな。食い止めてるけど、北条の忍が来ないとも限らない」
「オレも行く」
「は?」
幸村の槍を持って、政宗が立ちあがる。
「どこに行くんだか知らねえが、連れて行け。オレも行く」
佐助は呆れるまま罵ろうとして、舌打ちしてやめた。政宗の目は譲らない色をしている。言い合いをしている余裕はない。
「わかった。死ぬ気で走んな」
幸村を背負ってなお身軽に駆け出した佐助に、政宗が続く。
間もなくして、上杉忍軍の統率が崩れ、てんでに引き上げたとの報告を、後を追ってきた部下の一人がもたらした。
政宗を連れ、倒れた幸村を担いで、佐助は甲斐の中心へとしばらく移動した場所にある廃寺へと二人を移動させた。
政宗の馬は火の手から逃れ、少し離れた沢の近くにいるところを佐助の部下が見つけ出した。
山奥に建つ寺は朽ちるに任せてあったものを、真田の忍隊が修繕し、任務の際などに利用する拠点とした。周囲には目眩ましの仕掛けが張り巡らせてあり、仕掛けを知らない者が踏み込もうとしても巧妙な木々の配置に迷わされ、方向を見失い、元来た場所へと出る仕組みだ。
政宗は幸村の側を離れようとしなかった。
後は自分たちが面倒を見ると、そう説得しても政宗は幸村の傍らに座して、頑として動かない。仕方なく佐助は烏を呼んで文を持たせ、小十郎の元へと遣いに出した。
二人に火傷や外傷はなかった。
だが全身煤と汗で汚れていた。
指摘して、水桶と手拭いを用意して、汚れを落とせと政宗を別室へと追いやった。絹の寝衣などありはしないので、忍達が使っている質素な小袖を出して渡した。
その間に幸村の焦げた赤備えを脱がせ、煤のついた顔と体とを拭って、やはり備えてあった小袖を着せて布団に入れた。
朱羅に灯る炎は幸村を削る。それが、あれだけの範囲を焼き尽くしたのだから気を失ったのも頷ける。
額に触れても熱はない。
呼吸も落ち着いたもので、ただ意識だけがない。
秋の初め、木から落ちて気を失った時の様子を佐助は思い出す。これで元に戻りはしないだろうかと、諦め半分の期待を寄せる。
佐助にとって幸村は、例え全ての記憶を失ったとしても幸村であることに変わりはない。幸村が幸村であり、真田の当主である限り、忍隊の長として仕え続けることができる。
けれど。
障子が開いて、佐助は目を上げた。表は薄闇に包まれているが、まだ視界は利く。小袖に着替えた政宗が刀を一本携えて、無言で幸村の枕元に座した。
佐助と、幸村と、政宗と。
そうしてみれば本当に、この室内だけが秋の日の再現のようだった。
意外だと、あの日政宗は佐助に言った。
自分でもそう思う。
別段政宗の心情を慮っての事ではない。ただ、例えば幸村が信玄の事を忘れれば、佐助は思い出させるため手を尽くすだろう。それと同じだ。幸村を思えばこそだ。伊達政宗という男は既に、幸村を構成する欠くことのできない一部だった。
「悪いけど、あんたが食うような上等な飯なんかないぜ」
「食わせろなんて頼んでねえ。放っておけ」
始終表情を変えず言葉数の少ない政宗は、口にする内容だけは常の通りだ。
「はいはい。朝になったら帰んなよ」
「何度も言わせんな。コイツが目を覚ますのを見届ける」
佐助は口元を曲げて首を鳴らし、忍装束の懐から丸い、梅の実ほどの大きさの紙包みを取り出すと幸村の頭の脇へと置いた。
「ウチの携帯食。食わなくても別にいいけど。水は土間。そのまま飲める。厠はあっち」
何かあったら呼んで、と言い置いて、佐助は政宗に任せて部屋を出た。
予想外の展開になったが、政宗を連れてきた事は正解だった。廊下を歩きながら考える。戦場ではともかく、平時に幸村を害さない事にかけては、政宗は真田の忍たちと同じ程に信用できる。そしてこんな状況下で、忍隊を凌ぐ腕を持つ政宗が、幸村の傍らに居る事は何より心強かった。ここを完全に離れる事はしないが、政宗に任せる事ができるぶん佐助は身軽に動くことができる。
仕事ならば山積していた。
まずは信玄に報告を出し、部下にここの見張りに残す者、戻る者、北条と上杉の動きを探らせる者等の配置の指示を出さなければならない。
次の日も幸村は眠り続けた。
政宗は一睡もせずに幸村の傍らから動かず、幸村の枕元には兵糧丸が昨日のまま置かれている。続く間には、眠るなら使えと用意された布団が皺も寄らずに延べられたままだ。
不思議なほど目は冴えていた。
空腹もさほど感じなかったが、昼に出された握り飯は食べた。味などしないが有事のため、最低限腹に入れておこうと考えた。
頭はぼんやりと霞みがかったようだ。
幾度めかに政宗は幸村の口元に手を翳して、呼吸があるのを確かめる。凶刃を受けたわけではない。死ぬわけがないとは思うし、命には関わらないはずだと佐助も言っていたが、ふいに波が寄せるように不安に思う瞬間があった。
「……馬鹿が」
その言葉も幾度めかのものだ。
だが政宗を庇おうとした、その事は不思議には思わない。
もし立場が逆なら政宗もきっとそうしていた。
その命、自分以外の誰かにくれてやるつもりはない。
二度目の夜が訪れて、どこかでしきりに蛙が鳴いている。外に池でもあっただろうかと頭の隅で考えるが、表の様子などあまり覚えてはいなかった。
燭台の光を受けてなお幸村の顔は青白い。
まるで死んでいるようだ。幾度目かにそう思う。
思うたび胸が凍る心地がした。指先の感覚が遠ざかる。それを感じながら、煩悶など所詮絵空事でしかなかったと理解した。
くだらない時間を過ごした。
思い悩む必要などなかった。直に幸村を見れば済むことだった。離れているから迷いに嵌る。身を持って答えを知った。
戦いたい。
手に入れたい。
殺したい。
失いたくない。
その首を落としたい。
抱き合いたい。融け合いたい。
矛盾した望みが溢れて、その全てを偽りなく本心で欲した。
叶う限りの全てが欲しい。どれほどの苦しみをもたらそうと構わない。自分は幸村を諦められない。戦う時抱きあう時、二人きりで世界が閉じるようなあの感覚が欲しくて渇く。
政宗はまた幸村の口元へと手を翳す。暖かな吐息が触れて、安堵して手を引いた。
そこに。
「……う」
呻く吐息を、皮膚に直に感じて政宗は腰を浮かせた。
無言で顔を覗き込んで待てば、やがて幸村の目瞼がひくりと動いた。
茫洋とした目が焦点を結び政宗を見た。
「伊達……、政宗」
掠れ声が呟いた。声を出した途端苦しげに咳をする。
「喋んな。待ってろ」
政宗は足早に部屋を出ると、土間に陶器の碗を見つけて瓶から水を汲んだ。一口含んで確かめる。それを片手に戻り、幸村の頭を支えて起こして碗をあてがえば、幸村は大人しく喉を鳴らし飲み下した。
碗に半分ほどの水を全て干し、深く息を吐いた幸村は、吐息と共に閉じた目を慌てた様子で瞬かせた。
戻されるまま頭を布団に付け、部屋の様子をぐるりと見る。やがて、気を失ったのか、と独り言の響きで呟いた。
「……ここは?」
「テメエんとこの忍小屋だ。元は廃寺らしい。アンタの忍が連れてきた」
「佐助か」
「そこらに居ると思うぜ。呼ぶか?」
幸村は障子の方へと目を遣って、佐助、と小さく名を呼んだ。少しして、障子の向こうに影が現れて木枠を引き開ける。
「はいはい、っと。体、どう? 腹は? 何か食べられそうなら言って」
常通りの戦装束で、佐助はその場に両膝を付く。
「怠い。それだけだ。腹はすいていない。戦はどうした?」
「そっか、良かった。上杉が引いた。件の武将の姿は見つけられず終いだ。すまねえ」
「いや、俺が足手まといになったようなものだ。すまなかった。お館様へのご報告は」
「とっくに。あれから一日経ってる。真田の旦那、死んだみたいに眠ってたんだぜ」
そうか、と幸村はいちど大きく息を継いで、視線を政宗へと向けた。
「それで、何故、独眼竜までがここにいる」
佐助は政宗を見た。政宗は佐助へと視線を返す。
無言の佐助に、政宗は小さく舌打った。
「……オレを庇って倒れたんだ。頼んじゃいねえこととはいえ、そのまま死なれちゃ寝覚めが悪い」
「庇ったつもりなどござらぬ」
「なら、何のつもりだってんだ」
「無論、あの忍を排そうと思ったまでのこと」
ひたすらに硬い幸村の声音と目とは、どこか怒ってでもいるかのようだ。佐助は襟足のあたりを手で掻いて、
「あの、さ」
幸村に、政宗との仲が知れていること。
告げるべきか口を開きかけた佐助は、すぐに、幸村の鋭い視線を受けて言葉の続きを変えた。
「俺様、真田の旦那の意識が戻ったとか色々、報せ出さないといけねえんだ。伊達の旦那、後、任せていい?」
「ん? ああ」
障子が閉じられて、尖った空気の中に二人が残された。幸村は政宗から視線を外し、やはり怒ったような顔のままで天井か、吊り棚か、どこかそのあたりを睨んでいる。
「独眼竜」
居心地の悪い長い沈黙の後、目は合わせないままに、先に口を開いたのは幸村だった。
「貴殿、何故あのような場所にいた」
「……見物だ」
言って、政宗は思い出す。そうだ、そもそもこんな風に言葉を交わすつもりなどなかったのだった。
「甲斐で忍同士の小競り合いが起きたってな、ウチの草から報せを受けた」
「それで、供も無しに物見遊山か。忍の戦を知らぬと見えるが、人の戦とは違うと心得られよ。戦いの場は常に移動して、呑気に眺めてなどいれば見料がわりに命を取られるが関の山」
「Ha, 忠告痛み入るぜ」
「戦も見れず、収穫なしで戻るのは不本意であろうが、国に戻られよ。付き添って頂いたこと、感謝いたす。礼は、いずれ」
感情の乗らない言葉に、政宗は左の眉を上げた。
「収穫?」
幸村の目が自分を見ない、そのことに苛立った。
遠目にと、小十郎にはそう釘を刺された。予定は大きく狂ったが、自分の腹を決めることはできた。
「それならあったさ。見物の目当てはアンタだ」
幸村が目を瞠る。驚きを乗せた視線が政宗へと向けられる。
「……某を? 何故」
「なぜも何もねえだろう? アンタはオレのrival……好敵手、ってやつだからな」
口の端を釣り上げて政宗は言う。
このまま、失った幸村の記憶ごと何もなかった事にして、ただ好敵手として戦い、打ち取り、こだわりを越えて天下取りへと乗り出す。
そんな道は存在しなかった。
収穫はそれだ。
「好敵手……」
呟いて、幸村は一度目を閉じる。痛みを堪えるように眉根を寄せた。
「今の某は、そのような評価に値せぬ。『腕が落ちている』のだと、貴殿とて先程知ったはずだ」
「Ah, まあな。けど、アンタなら今に」
「今に?」
被せるように吐き出されたその、幸村らしからぬ自嘲めいた響きに政宗は言葉を止めた。
「つまり、今の某では不足ということでござろう」
「……まあ、否定はしねえが」
「ならばそれで構わぬだろう。それが全てだ。捨て置かれれば良い」
拗ねたような口振り。政宗は眉根を寄せる。
「あのな、真田」
ふいに幸村が布団から体半分起き上がった。身を乗り出す。床を叩くように片手をつく。
鋭く政宗を睨み上げた。
「貴殿と対等に渡り合った? そんなもの、某は知らぬ。某ではない。貴殿も、佐助も、みな揃って誰を見ているつもりかはわからぬが、知らぬ者の話をこれ以上俺に押し付けるな!」
驚いて幸村を見た。温度の高い、憤りを乗せた目が政宗を見据える。
政宗は言葉を探す。
だが結局、
「悪ィ」
それ以外の言葉が見つからなかった。
幸村はややあって顔を逸らした。政宗に背を向け、布団へとまた横たわる。
拒絶を示すその背を眺め、政宗は腰を浮かした。
「すぐ隣の部屋に居る。もし、何か手が必要なら」
幸村は身動ぎひとつせず、言葉は耳に入っているだろうが、果たして聞いているかどうか。政宗は密かに表情を曇らせる。
「……外に、アンタの忍も居る」
自分を呼べ、という言葉は喉の奥へと沈めて、政宗は隣の間へと移り、部屋と部屋とを仕切る襖を静かに閉じた。
続く間で、薄い布団は板の間に直に敷かれていた。
眠るつもりはなく、ただ上掛けの上に横たわれば、手も足も疲労にひどく重かった。そうして横になってしまえば、二度と持ち上げられそうにないと感じさえする。思えば一日以上眠っていない。
燭台もないのに部屋はぼんやりと明るかった。障子の向こうが白い。満月が近かったかと、考えながら、政宗は首を曲げて襖を見る。
幸村のいる部屋とを隔てる襖。
眠ってでもいるものか、その向こうに今は何の物音もない。
三年前に遡った。ただそれだけの事だと考えていた。
そこからまた同じ道を辿り、真田幸村として同じように成長して行くのだろうと思っていた。
政宗の中で、幸村は幸村だった。
政宗とのことを全て忘れて、戻らないというならばそれでも良いとそう思った。またそこからやり直す、それだけのことだと迷いは晴れた。
――だが、幸村にとっては。
どこか遠くで鳥の声がした。室内に冷えた空気が細く吹き込み皮膚を撫でる。
「……何してやがったんだ、テメエら」
隣の間に届かないよう、囁きの声量で毒突いて、政宗は目を動かした。壁に背をつけ腕組みして立つ佐助が、薄闇のなか朧気に見える。
「……悪かった」
佐助の声は政宗よりもかすかで、そのくせ不思議と鮮明に耳に届く。重い体に力を入れて、政宗は布団の上に背を起こした。
「謝る相手が違うんじゃねえか」
「そうだけど」
佐助は壁に背をつけたまま、音もなくずるずると座り込む。
「この俺様が大反省」
「愚痴の相手も御免だ。他をあたりな」
冷たく言い放ちながら、政宗は細く溜息を落とす。
「けど、……まあ」
理解していなかったのは自分も同じだと、政宗は考える。
今の幸村は病を得た状態なのだと自分たちは考えていた。
だが幸村にだけ、この事態の見え方は異なっている。
自分を置いて、周囲だけが三年分先に進んだ。
幸村にとっての認識はそれだ。
自分はそのまま。変わらぬまま。一瞬にして年経た周囲が、自分の知らない自分の話をして物忘れの病だと嘆く。自分の意識は何一つ欠けていないのに、今に思い出すと期待をかける。
今の自分が“間違った状態”なのだと繰り返される。
それは、確かに。
(嫌にもなる、か)
だからと言って政宗とて、以前の幸村と一切重ねずに今の幸村を見ることができるかと、考えてみれば答えは否だ。
「ん?」
小さく声をあげて、佐助の姿が掻き消えた。
何かあったのかと首を巡らせた政宗の耳に、隣の部屋から衣擦れの音が届いた。
床板を踏むかすかな軋み。
近付いて、四枚並んで部屋を仕切っている襖の手前で止まる。
話す声があちらまで届いたかと、それは過ぎた心配だった。
「独眼竜殿。……起きておいでだろうか」
呼びかけに、政宗はそちらへと顔を向ける。
「何だ」
声を返して待てば、ゆっくりと襖の中央が開けられた。人ひとりの肩幅分。その向こうで、幸村は板の間に座していた。
灯りを背に、その表情は影になって、はっきりとは見て取れない。
「先程はすまなかった。……貴殿にあたるなど」
「いや、いい。気にすんな。的外れってわけでもねえ」
苦笑で返せば、そうかと幸村は短く答えた。
俯いた幸村の、ほどかれて流れる髪のきわが燭台の灯りを受けて透けている。
「……某は」
言ったきり、幸村は視線を落として口を閉ざした。
胸の内を言葉にできず迷っている、そんな沈黙だった。
2013.06.09