六
その時、北条の武将が二人、護衛の忍を引き連れて密かに甲斐を抜け、同盟国である越後へと向かう途中だった。
人目につかない山道を進む中、武田の忍に発見されたのは彼らの不運だ。忍が数人で食い止めて一行は先を急いだが、北条同様、甲斐は忍の数が多い。再び発見されたところで、老齢に差し掛かった武将達は一時身を隠す事にした。
既に行程は半分を過ぎ、引き返すよりも越後に近い。囮の忍が敵を撒くため走り、それらが合流するのを待ちながら、残りの忍から一人を上杉領へと向かわせ加勢を求めた。
日暮れすぎに武田の忍軍が山中の捜索を始めた。
夜が明けて上杉の忍が到着した。
遅れて真田の忍隊が駆け付けて、双方数が膨れあがる。
闇が白い明けの気配に蝕まれるなか、忍同士の戦が始まった。
「真田の旦那、下がれ!」
参戦からおよそ一刻、幸村は強引に前線から後退させられた。まるで命令のように言う声に、赤々と槍の穂先に炎を灯しながら幸村はならぬと首を振る。
「ならぬ! 俺には俺の役割がある!」
忍軍同士のぶつかり合いは、戦い方も通常の戦とは異なる。並みの武将では足手纏いになるだけだが、幼い頃より忍相手に鍛錬を積んできた幸村だけは例外だった。
忍のような速さはない。
だが、互いの手の内を知り尽くした忍たちの中で、幸村は場を乱す異質な存在だった。気配を見抜き、忍に混じり、忍とは違うその異質さを生かして敵を撹乱することができる。
「ったく……!」
草木の模様の装束が目の前に立ちはだかった。と同時、その姿が瞬時にかすむ。すぐに赤い、六文銭を背負った戦装束へと摩り替わった。
振り向いた、自分と瓜二つの顔から、佐助の声が発せられるのを幸村は見る。
「その役割なら俺様が貰う。だから旦那は一旦下がれ。そういう話だっただろ!?」
「それは……そうだが」
「その有様で、こんなとこで倒れられて、給料未払いのまんま失職なんてことになったらどうしてくれんのさ!」
内容ばかりは冗談めかした叱責に、痛むほどに幸村は歯噛みした。
忍の戦い、動きに後れを取る幸村ではない。炎の制御に不安はあったが実戦の経験を積む機会、問題あればすぐに下がるという取り決めで参戦した。
初めのうちは順調だった。
だが、戦場に立って半刻ほどして、朱羅に炎が揺らめいた。ここ最近収束を見せていたはずのそれは、幸村の意に反して槍先に炎を燃やし続けいたずらに幸村を消耗させた。
「……わかった」
言うなり、佐助が短く指笛を吹いた。応えて、影がひとつ現れる。若い忍だ。幸村も見知った顔だった。
「頼む」
佐助の言葉に、承知、と忍は幸村を引き受けた。んじゃ行ってきます、と軽い言葉で幸村の姿をした佐助が再び駆けて行く。
忍の戦に陣営はない。
幸村は護衛の忍に促され、山の南側の、戦闘から離れた場所へと身を隠した。
「不甲斐ない……!」
浅い洞穴に崩れるように座り込んで、幸村は荒い息を吐いた。時に真田忍が利用するというその穴は、山の斜面、低木の茂みの影にあった。外からは一見して分からぬよう、入り口付近に目隠しの細工が施されている。
退かぬ、とあの場では言い張った幸村だったが、戦場を離れて落ち着いてみれば全身に重く疲労が纏い付いた。
「どうか御心やすく。必ずや我らのみで片付けます」
幸村の護衛として共に戦場を離れた年若い忍が差し出す竹筒を、すまん、と受け取って幸村は水で舌を湿らせる。
「わかっている。ここに居よう。だからお前は戻れ」
竹筒を傾けながら言えば、忍は驚いて首を横に振った。
「戻れ。頼む」
幸村は語気を強める。
「ここならばそう易々と敵に見つかる事もあるまい。万が一見つかったところで、少数ならば俺一人でどうとでもする」
「長のご命令なれば」
「ならばこれは俺の命令だ。俺と佐助と、どちらが上か知らぬとは言わせぬぞ」
短く拒んだ忍に、幸村は即座に切り返す。
そうして、洞穴の壁に預けた背を起こし、傍らに膝を付く忍と目線を近づけた。表情を緩ませる。
「案ずるな、俺は大丈夫だ。それよりも、俺の忍たちが心配でならぬ」
顔の下半分を覆う布地の下で、忍の口が動きかけ、躊躇った後に閉じる。
「お前は腕が立つ。行って、佐助の手助けをしてくれ」
強く、拒絶を許さない語調に押されたように、忍の頭が下げられた。懐を探った手が薄紙を取り出し、洞穴の入り口を軽く掘ってそれを埋める。指先で壁や天井、数カ所に何かの文字を堀りつけて、最後に印を結んで呪を唱えた。
「防護の術です。そう保つものでもありませんが不意打ちの防ぎと、備えのための時間は稼げましょう」
「助かる」
「くれぐれもご注意を。戦況が落ち着き次第戻ります」
「わかった」
外へ出た忍を見送って、幸村は再び壁へと凭れる。竹筒の水で、もう一度舌と喉とを湿らせた。
灌木の茂みを縫って差し込む光は弱い。夕刻が近い。あと一刻かそこら、陽があるうちは、何者かが洞穴の前に立てば光が遮られて即座に判る。
疲労に重い体は休ませ、目だけはしっかりと開けて、意識は外に向けて、幸村は感覚を研ぎ澄ませた。負傷して退いた北条の忍が、偶然に彷徨い込まないとも限らない。
そうしながら視界の端に、長く使い込んだ愛槍・朱羅を眺めた。槍のせいではないと解っていながらも、どこか裏切られたような思いがある。
戦場に立った時、幸村の中に焦りはなかった。
ただ、心は乱れていた。
戦場にいるというのに、心の中の靄が消えず、集中しなければと解っていながらもどうにもできなかった。そのことに苛立ち、焦り、後は泥沼だった。
このままでは満足な槍働きなど出来はしない。
深呼吸を繰り返し、幸村は平静を装ってそっと槍の柄を握る。
途端、鋼の先端にゆらりと火が揺れて慌てて離した。
「……駄目か」
きつく奥歯を噛み締めて、重い息を吐き出す。
意味もなく喚きたいような気分が胸を塞ぐ。
苛立つ。
気配を殺しながら外の様子を探る感覚に、何の異変も感じられないまま時間が過ぎた。
洞穴に差す光に仄暗く朱い夕刻の色が混じり始めた頃、幸村は恐る恐る槍に手を伸ばした。
疲労はあらかた回復した。木の葉擦れや、鳥の声や、何か小さな生き物の気配を感じながら、荒れた心も大分落ち着きを取り戻している。
柄に触れても異変は起こらず、幸村は頷いて、二本の槍を纏めて持った。地面にもう一方の手を付き、そっと入口へ向けて移動する。
誰も戻って来ないのは、戦闘がまだ続いているということか。
或いは。
考えながら、灌木の隙間から外を伺う。洞穴から出ようとして、すんでのところで幸村は身を低くした。
(……馬?)
確かに聞こえた低い嘶きに、幸村は息を潜めて目を凝らす。
一応道らしきものはあるが、このあたりはあまり人も通らない場所だ。北条の忍が使っていたのもそれが理由だ。
待つうちに、歩く蹄の音が近付いて洞穴の前を通り過ぎる。灌木の隙間から、栗毛の馬の脚を見る。
そしてその馬の背に跨った、鮮やかに蒼い陣羽織。
まさか、と上げた視線の先に夕日を弾いて光る弧月の前立てをみとめ、目を見開き、茂みが音を立てるのにも構わずに幸村は洞穴から飛び出した。
馬上で男――伊達政宗が、驚いて振り向く。
「……真田?」
突然背後に現れた幸村に隻眼を瞠って、政宗は軽い身のこなしで鞍から降りた。
「アンタ、何で」
こんな所に、と政宗がすべてを言い終える前に、幸村は衝動に任せて地を蹴った。
考える前に体が動いた。燻っていた炎が風に煽られ、唐突に燃え上がるようだった。いつかのように目の前が赤く染まった。その視界で竜だけが蒼い。
槍先は炎に包まれた。その炎の種となっている気力か、体力か、命か、そんなものが足の一蹴り腕の一振りごとに磨り減って行く。感じながら、構わずに幸村は政宗へと打ち掛かる。
嘶いて、馬が脇へと距離を取った。
政宗が柄を握り白刃を鞘から抜き放つ。
「待て、真田!」
踏み込み、鋭く突き出した幸村の二槍と、防ぐ政宗の刀が重い音を立てて噛み合った。
刃と刃が擦れて火花を生む。
幸村の六文の銭が場に不似合いな音で鳴る。
空気が細く鳴り、振り下ろした刃の軌跡に青白い火花が走る。身をかわした幸村の動きに少し遅れて、流れた紅い鉢巻の先端が切っ先に撫で切られて空に舞った。
「……ッ!」
その残像に気を取られた一瞬、具足が土を抉る音に政宗は右肩を引いた。斬り込んで来た十字の槍へと刀を絡めて動きを止める。
力と力の競り合い。ごく間近で視線がぶつかった。
朱に染まる光を浴びて、高温の闘気を湛えた幸村の目の奥に見えるのは闘志ではない。
怒りだ。
何かに苛立っている。
感じて、政宗は隻眼を細めた。
戸惑いが消えて頭が冷える。
思えば、出会い頭に有無を言わせず打ち掛かってきたあの時の目が、既に幸村らしからぬものだった。猪突猛進は幸村の性質ではあるが、敵と云えど無言で斬りかかるような真似はしない。少なくとも、政宗の知る幸村ならば。
「なぜ本気を出さぬ独眼竜!」
絞り出すように言う幸村の、声にも明らかな苛立ちがあった。政宗は口の片端を上げて笑う。
「Ha, アンタこそどうしたってんだ。らしくねえぜ、真田幸村」
「――何」
幸村の両眼が強い怒りを宿して歪む。槍先の炎が勢いを増す。
「何があったか知らねえがろくでもねえ目しやがって。本気を出せ? よく言うぜ。そんな千鳥足のアンタなんざ、partyの相手にもなりゃしねえ。オレがその気になりゃあっという間にTHE ENDだ。死にたくなけりゃ大人しく退きな」
「断る!」
「あァ?」
「いちど刃を合わせた以上、情けを受け生き永らえることを思えばここで朽ち果てたとて本望!」
幸村が吠えた。まるで呼応するかの如く、風が走りさざ波のように木々を揺らす。
「……馬鹿が」
短く言い捨てた。
競り合った鍔を押し返す、その反動で後方へと跳ねて幸村が距離を取り直す。
炎を纏い、間断なく突き出される左右の槍。
弾き、隙を突いて政宗は幸村の懐へと飛び込む。それを幸村は背後へと飛び退いてかわし、殺しきれなかった勢いを後転の跳躍にかえて間合いを取り直す。
踏みしめた紅い具足の下で土が抉れる。
「くッ……!」
肩で息をする幸村の髪の先から、汗が頬へと流れ落ちた。
激昂する幸村と対照的に政宗の心は凪いでいた。
久方ぶりの幸村との対峙ではあるが、楽しむような状況ではなく、その上違和感を抱えては打ち合う気になどなれはしない。
小十郎の予想の通り、幸村の腕は落ちていた。
実力差は歴然。だがそれでも、疲労し、荒れていて尚、その槍振るう様は無性に政宗の心を騒がせる。
血の色をした戦の華。
けれど今は、戦うべき時ではない。
突進を、すんでのところで身をかわした。動きを見切る。素早い足運びで背後に回り込み、その背へと柄頭を叩き込んだ。
「ぐ……ッ!」
幸村が地に崩れた。激しく咳き込む。
吐息一つ捨てて、政宗は無造作に腕を下ろした。
荒い息をつきながら顔を上げた幸村が、身を強張らせ、これ以上ないというほどに目を瞠る。
「敵を目前にして刀を下ろすか!」
構わず刀を鞘に納めて、政宗は冷えた一瞥を幸村へと投げた。
「敵? そりゃオレか? 相手しといて今更だがな、待てっつって聞かなかったアンタが悪ィ」
悠然と言う政宗に、幸村が言葉に詰まる。
「オレは武田と北条の小競り合いの見物に来ただけだ。別に何もしやしねえ。横槍入れるつもりもねえ。……で、アンタは何でここに居る? アンタの敵は誰だ? まさか、オレを待ち伏せしてたとでも言うつもりじゃねだろうな」
音が聞こえそうなほどに、幸村がきつく奥歯を噛み締めた。
それを見て、政宗はふと既視感に囚われる。口の片端を上げて挑むような笑みを浮かべた。
「なあ、真田。この勝ちはオレの力じゃねえ」
いつか聞いたような言葉を、地べたに這う幸村を見下ろして政宗は口にした。
「そんな状態のアンタを倒したところで意味がねえ。一度きりのchanceをそんなつまらねえ結末にすつるもりはねえ。オレとのdanceはいずれ、万全の時に派手に頼むぜ、真田幸村」
幸村が目を瞠る。瞬きも忘れて政宗を凝視して、やがて、悔しげに目を伏せた。
「……某は」
ひどく掠れた声が喉からこぼれた。
「今の某には……斯様に、貴殿に、……見合うだけの」
「あ?」
聞き取れず、距離を縮めようと軽く上体を折った。次の瞬間。
政宗はふいに総毛立って息を飲んだ。
幸村が弾かれたように上を見る。
ほぼ同時に飛び退いた二人の、元居た場所に、土を裂く音を立てて数本の苦無が突き刺さった。
「……北条の!」
「Shit!」
巡らせた視線が木々の間に忍らしき影を捉えるが、すぐさま消えて見失う。一人か、二人か。二人だ。幸村が槍を回転させ防御を取りながら跳躍する。その足下に、また数本の苦無が突き立つ。
陽はまだ落ちてはいないが夕暮れ時だ。視界が悪い。木々が茂り影が多い。忍はそれらに容易く紛れる。
舌打ちして、政宗は左右の鞘から一振りずつ刀を抜いた。気を張り詰めて周囲を見回した政宗の、右の耳が微かな音を拾う。
政宗が振り向く。
幸村が地を蹴った。
政宗は、死角から迫る小さな刃を見る。
弾き返すべく右の刀を振り上げる。
その視界に、紅い背が飛び込んだ。
六文の。
「ば……ッ!」
槍が空気を裂いた。その軌跡を炎が走った。溢れる。荒れた波のように膨れあがる。
炎が木々を呑み込む様を、政宗は呆然と見つめる。
「――――――――!!」
幸村が吠えた。竈の中に投じられたかのように、空気の温度が瞬時に上がる。視界が白く染まり、皮膚が灼ける。
満ちる熱に炙られ乾いて悲鳴を上げる眼球を腕で庇い、政宗は耐えきれずに瞼を閉じた。
2013.06.09