四

 木々が紅葉し、色づいた葉が枯れ落ちる。
 寒さは日増しに肌を刺す。
 やがて景色から色彩が乏しくなり、信玄の言葉の通り、甲斐は年内どこに攻め込む事もなく、幸いにしてどこからも攻め込まれる事もなく、佐助たちは表向きは穏やかに年始を迎えた。

 奥州は年の瀬から一面を白く染める雪と厳しい寒気とに沈黙し、雪解けを待っていたかのように領地の端で、昨年召し抱えたばかりの家臣の一人が謀反を起こした。
 寒気に沈黙する間に、じっくりと策を練りでもしたか、鎮圧には予想以上に手間取った。

 そうして政宗がようやく帰城できたのは、桜が蕾を膨らませる頃の事だった。

 鎧を鳴らしながら城の廊下を渡っていた小十郎は、近くに鳥の羽音を聞いて空を見上げた。
 大きな鳥だ。音だけで分かる。烏でも降りてきたものかと思うが視界に鳥の姿はない。
 見上げた空は淡い色だ。芽吹きの季節に、庭の草木も随分と春めいた。若い緑がそこここに見える。梅が盛りだ。桜にはまだ少しばかり遠い。
 早いものだと考えて、小十郎はふいに湧いた溜息を密かに廊下へと落とす。
 何とはなしに庭に鳥の姿を探しながら建物の角を曲がり、そして、そこに思いがけず主の姿を見て小十郎は身を強張らせた。
 政宗と、そのすぐ傍、廊下の手すりに黒い塊。
 咄嗟の動きで腰の太刀に手をかけた。
「政宗様、危のうございます!」
 政宗と、まるで会話してでもいたかのように向かい合っているのは烏だった。稀に見る大烏。羽を閉じていてもその大きさは尋常でないとわかる。
 声をあげた小十郎を、政宗と、烏までもが言葉を理解したかのように揃って振り向いた。
「何びびってやがんだ小十郎。No problemだ」
 心配を知らぬげに、政宗が口の端を吊り上げて笑んでみせる。
「手招きしたら降りて来たぜ。可愛いモンだ」
「手招き!?」
 血相を変える小十郎に、甲冑を半端に解いた姿で政宗は事もなげに頷いてみせた。
 兜は馬を降りた時に脱いでいた。解きながら歩いていたものか、足下には籠手が無造作に転がされている。
「ともかく、あまり近付かれますな。たかが烏といえど」
 小十郎は大股で政宗へと近づきながら、ふと、黒い鳥を使役する人物を思い出した。
「いや。……猿飛、ですか?」
 思えば、間近で佐助の鳥を見た事はない。だがあれも、闇が凝って形を成したような黒い大きな鳥だった。
「多分な。Ah, ちっと待ってろ……っても通じねえか? そうでもねえな、猿の使いにしちゃ利口な目をしてやがるぜ」
 烏に向けて呟いた政宗は、足早に自室に戻ると床の間の抽斗を開けた。洗って畳み直してあった赤い鉢巻に手を伸ばす。
 迷って、やめた。
 近くの紐の中から青いものを手に取った。
 何に使った余りかは忘れてしまった。青は政宗の戦装束の色だ。何の印もない紐だが、見れば政宗のものと伝わるだろう。
 廊下に出れば、小十郎と烏とが元の場所で待っていた。
 片手を上げて、政宗は歩きながら紐を伸ばす。烏の片脚へと巻き付けて結ぶ。
「政宗様、小十郎が」
 慌てて小十郎が手を伸ばすが、その間に政宗は手早く紐を結び終える。
「OK. 行っていいぜ。ご苦労さん」
 政宗が一歩下がれば、烏は政宗を一瞥し、言葉を理解したかのように手摺りを蹴ってその反動で舞い上がった。
 まっすぐに向かうのは南西の方角。
 黒い姿が見えなくなるまで見送った政宗は、陣羽織の懐から、細く折られた紙を取り出した。
「あれが運んできたものですか」
「That's right. 足に結んであった。鷹もいいが、烏も案外悪くねえな。一つ捕って馴らしてみるか」
「ご冗談を」
 政宗は、折り畳んだままのそれを小十郎へと放る。受け止めてみれば、一度開いた形跡があった。政宗が読んで、畳み直したものだろう。小十郎はそこに書き付けられた言葉と、主の顔とを見比べた。
 綴られていたのは何の癖もない平凡な文字だった。おそらくは敢えて、記憶に残らないよう訓練されたに違いない筆跡でごく短く一言。
 ――変ワリ無シ。
 思わず政宗の顔を見れば、主は常通りの皮肉めいた笑みをちらりと浮かべて足を踏み出す。
「元に戻ったら報せろ、って言ってあったんだがな。こんなもん寄こしたってことは望みもねえってとこか」
 言いながら政宗は、蒼い陣羽織の裾を翻して歩き出した。
 折り目の通りに紙を畳み直して手の中に握り、政宗の手甲を拾って、小十郎は後を追いながら主の背中に問いかける。
「よろしいのですか?」
 問いかけたというより、思わず声にしてしまった言葉は、出してしまってから後悔した。
 戦が終わり、つい今しがた居城へと帰還したばかり。
 良かろうと悪かろうと政宗はあと数日は動けない。様子を見に行くなどと言い出そうものなら、自分はそれを止めなければならない立場だ。
 政宗は肩を揺らして笑う。
「What? そりゃ、論功放り出して遊びに行っても構わねえって許可か?」
「……いえ」
 背後に付き従う小十郎には政宗の表情は伺えない。


 午前の素振りを一区切りつけて、幸村は湯冷ましの碗を手に自室に腰を落ち着けた。
 佐助がいないので、自分で台所に顔を出して貰ってきた。腹ふさぎにと羊羹を出されてそれも抱えて戻ってきた。
 花曇りの空は、いつの間にか雲が去って、程良く暖かな快晴だ。きりのない汗を手拭いに吸い取らせ、濡れた前髪を後ろへと撫でつける。開け放った戸口から吹き込む風が火照った体に心地良い。
 初めのうち、鍛錬の際にはまるで他人の物のように思えた体は、今ではすっかり馴染んで違和感は消えた。
 手合わせのさなか度々槍先に吹き出した厄介な炎も、完全に御しきれてはいないものの、出現の頻度は格段に減った。ここ十日ほどは一度たりとも現れていない。
 菓子楊枝で羊羹を割って口に入れた。舌の上に甘さが広がる。
 そうしてふと、吸い寄せられるように、幸村は床脇の棚へと目を向けた。けれどすぐに、慌てて視線を元へと戻す。
「……直らぬな」
 呟いて、羊羹のもう一切れに楊枝を刺した。
 柿を、そこに置いてあったのはほんの数日の間のことだ。
 それなのに、気を抜けば今も目があの果実を探してしまう。半年経っても抜けないそれは、もはや癖のようなものだった。
 半年。
 その間に佐助や、時に信玄にも、自分にまつわる三年分の様々な話を聞かされた。
 自分が記していた覚え書きなども繰り返し読んだ。
 けれどまるきり他人の話だ。
 思い出せそうか、と時折問われるのには首を横に振るしかない。信玄から賜ったという槍にも未だ触れる事ができずにいる。
 朱塗りの柄に金で繊細な装飾が施され、刃の部分にも炎の文様が彫り込まれた見事な槍。それを賜った働きを覚えていない以上、手にすることは躊躇われた。
 何を見ても何を聞いても、心は僅かもふるえない。
 ただひとつ、目にする度に心が騒いだのはあの柿だ。
 痛む寸前で佐助に剥かせて食べてしまった。それまでの短い間、見れば胸の奥底が揺さぶられるような、理由もわからず不安と焦りに取り憑かれるような、そんな感覚を幸村へともたらした。
 柿。
 伊達政宗。
 羊羹を割ったまま止まっていた手に気付いて、幸村は甘味を口に放り込んだ。舌に残る甘さを水で流す。
 あの時柿を投げてよこす前に、政宗が口にした言葉、声の調子を今も覚えている。
『アンタとは、戦場で戦う方が面白え。そうだろ? 真田幸村』
 返す言葉は自分の中には見あたらなかった。
 ただ驚きばかりがあった。
 独眼の竜。
 超えるべきと定めた相手。
 雷光の太刀筋。鮮烈な印象。どれだけ日を経ても褪せることがない。
 戦場でまみえて以来、あの秋の日まで、焦りに駆り立てられるようにして槍を振った。取り憑かれたようだと佐助には揶揄された。どれほど鍛錬を重ねても追いつけるとは思えなかった。それほどに、力の差は歴然としていた。独眼竜が自分を認めるなどと、そんな可能性は微塵も考えていなかった。
 それを。
「…………」
 そして、去り際に見せた顔。
 思い出して、幸村は表情を曇らせる。
 あの時の政宗の表情と、似たものを幸村は他に見たことがない。思い返すたび、幸村に落ち着かない心地をもたらすそれ。
 どうかしたかと問えば、何でもないと返された。すぐに背を向けられて、その表情は隠された。
 知らない顔だった。初めて目にする感情だった。そう感じた。まるで、
 何かに堪えるような。
 酷く淋しげな。
 ――苦しげな。
「旦那?」
「うおッ!?」
 唐突に呼ばれて顔を上げれば、間近に佐助の顔があった。
「あ、やっと気付いた。どうしたのさ、ぼーっとして」
「な、何でもない。お前こそ、如何したのだ」
「だから、用事が済んだから旦那のお相手ができますよって。何、どこか調子悪かったりすんの? どうする、やめとく?」
「いや、頼む」
 幸村は立ち上がった。
 後について、佐助は庭へと下りる。
「さーて、今日の得物は何にしよっか。槍? 鎌? それとも刀? クナイなら大奉仕でかすがちゃんに化けちゃおっかなーなーんて」
 冗談めかしたそれに、幸村が目を丸くした。おや、と佐助は首を傾げる。
「あれ。ほんとにやる? かすが変化」
「いや」
 ひと呼吸ためらって、幸村は、まっすぐに佐助を見た。
「……六爪は、どうだ」
 佐助は目を瞠る。小首を傾げた。
「一本でもいい? 下手でよければ二刀まで」
 六爪が文字通りの六爪でなく、政宗への変化を指していると踏んで聞けば、幸村は無言のまま頷いた。
 政宗の存在は、幸村にとっては起爆剤のようなものだ。
 その事に変わりはない。
 政宗の姿で対峙して幸村の記憶を刺激する、その考えは早くからあった。だが、炎の出現が不安定なうちは過ぎた刺激かと実行に移せずにいたのだった。
「了解、っと」
 だが、幸村自ら政宗の事を口に出した。
 頃合いということかもしれない。
「でも仕込んでねえや。ちょっと待ってて。っと、そうだ、腕の方はあんま期待しないでくれよ?」
 言うなり、佐助の体が地面に消えた。まるでそこが水面であるかのようにするりと沈み、少しの後に、今度は近くの木の枝が鳴る。跳躍した佐助が元の位置へと降り立った。
「んじゃ」
 印を結ぶ。足元から湧いた煙が佐助の姿を覆い隠す。それが晴れるに従って現れた姿に、幸村は静かに目を見開いた。
 蒼い衣。額に三日月。
 何かの鰭のように仕立てられた、両の腰の六本の爪。
 立ち姿の癖まで寸分違わないように見えるその姿の、隻眼の色。どうだと言わんばかりの悪戯めいた光だけが確かに佐助のものだった。
「見事なものだな」
 幸村は感嘆の声を漏らす。
 口の片端を釣り上げた佐助が、答える代わりに左腰から刀を一振り抜き放った。隻眼が細められて佐助の印象を隠す。片手で持つその切っ先をまっすぐに幸村へと向けてくる。
 挑発するように顎が上げられた。
 佐助だと、頭では分かっていても血が煮える心地がして、幸村は得物を握る手に力を込めた。膝を曲げて腰を落とす。
 刀が両手に持ち直される。顔の横に、地面と水平に構えながら佐助が右足を後ろへと引く。
 ――来い、と。
 声が聞こえた気がして、幸村は地を蹴った。
 吠える。異なる軌道で突き出した左右の槍を、右の一爪と、腰から引き出されたもう一爪が受け止めた。鍔迫り合いの至近でぶつかり、楽しげに見返してくるそのひとつ目だけがやはり確かに佐助だと、そんな事を。
 考えていられたのは初めのうちだけだった。
 本来の得物でないにもかかわらず佐助の二爪は幸村の槍を凌いでいた。
 藻掻くように戦ううち、その姿が佐助である事すら時に頭から抜け落ちかける。
 余裕の素振りで幸村の槍を交わし、弾き、会心と思えた突きすら往なして、からかい混じりに褒めたつもりか時にひゅうと口笛を鳴らす。その様が憎らしい。
 届かない。
 まだ、届かない。
 佐助の、本分でない二刀ですらこれほどに遠い。
『――アンタとは』
 あの時、独眼竜が、伊達政宗が口にしたように。
 戦場で戦う方が、などという言葉は。
 今の自分では到底引き出せない。今対峙すれば政宗の口から出るのはどんな言葉か、と。
「……ッ!」
 考えて、脳裏が染まった。朱の色に灼けた。槍を握り直した。身を沈め、幸村は駆けた。
 その時どう動いたのか、後で思い返そうとしてもはっきりとは分からない。ただ衝動的な動きで気づけば二爪の間、その懐へと入り込んでいた。ひゅ、と独眼竜が息を呑む。捉えた。その確信を裏切って、繰り出した槍はすんでに交わされた。柄頭に手首を突かれて握っていた柄を取り落とした。その素手を、幸村は構わず喉元へと突き入れた。
「が、……っ!」
 右手が喉を捉えた。そのまま体重をかけて地面へと叩きつける。掴んだ喉の頼りなさ。皮膚の感触。
「待っ、!」
 細く潰れた叫びと同時、火薬が爆発するかのように、喉にかけた幸村の手元から濃い煙が沸き起こった。咄嗟に目を庇って瞑り、幸村はすぐに目を見開いた。
 我に返った。
「あ……?」
 驚いて、独眼竜を――佐助を押さえつけていた手を浮かした。煙の下から現れた佐助は常通りの、草木に紛れる模様の戦装束で、涙目でひとしきり噎せるとえづきながら背を起こす。
「あーびっくりした……。真田の旦那ぁ、本気で締めるのは無しでしょ」
「す、すまぬ。つい」
 油断してたからまともにくらっちゃったよ、と、まだ喉がおかしいのか、佐助はまた幾度か咳き込む。
「素手の喧嘩はお館様とやってよね」
「ああ、すまぬ」
「けど、今の動きはいいんじゃない? 突きまでの。俺様あの時、正直やばいと思って武器叩き落としちまった」
「……うむ」
「ま、無我夢中、って感じだったけど。旦那、自分でどう動いたか覚えてる?」
 幸村は黙り込んだ。佐助が軽快に笑って、そこに、鳥の羽ばたきが聞こえて二人は揃って空を見上げた。
 見れば烏が一羽、庭の隅にある杉の木の天辺近くに止まったところで、その視線はまっすぐに二人の方へと注がれている。片手を上げた佐助が指笛を鳴らしてやれば、すぐに、忍小屋の方角へと飛び去った。
 それを見て幸村は目を瞬かせる。
「……何だ?」
 何か長いものが、烏の足の先に垂れていた。細く、長いものの影。ああ、と佐助が少し笑う。
「どっかで落ちてた紐でも引っ掛けて来ちまったかな。よくあるんだ」
「そうか。ならば良いが。行って外してやったらどうだ」
「いいの? 鍛錬、始めたばっかだけど」
「ああ」
 じゃ、と言い置いて佐助はすぐに姿を消した。幸村はそれを見送って、どこか恐る恐る自分の手を開いた。
 汗ばんだ手のひらをじっと眺める。
 佐助の言うとおりだった。無我夢中だった。ほぼ無意識下と言って良かった。
 どうにかして互角に持って行かなければ、匹敵しなければと、それがどんな手段であってもと、考えて。
 持ち上げた手の指先からは血の気が引いていた。
 鼓動が早い。
 腹の奥には焦げるような心地がある。
 あの竜と戦いたかった。渇望していた。一刻も早く戦場で見えたかった。あの時――奥州で目を覚ます、あの時までは。
 今は逆だ。
 自覚して、幸村は歯噛みした。
 まだ立てない。対峙など出来ない。
 先ほどの、青い竜の姿を思い返せば足が竦む思いがした。負けを恐れているわけではない。だが、出来ない。
 腕を『三年分』戻さなければならない。
 佐助や、佐助がいない間に幸村の相手を務める者たちは皆一様に口を揃える。『以前』に比べ劣っている。言われたところで実感などない。
 だがその劣った自分で、独眼竜の前に立ち、
(……つまらぬ、と)
 落胆される事が怖ろしい。
 今しがた、幸村を駆り立てたのはその恐怖だった。
 考えて、口元を歪めた。そしてやはり駄目だと強く思う。腕よりも何よりも、そのような矮小な心であの竜の前に立つことなど出来はしない。
 あの清冽な、凄絶なまでの。
 蒼の。
 ふいに、弾かれたように顔を上げた。
 杉を見る。先ほど佐助の烏が止まっていた杉。
 そこから飛び去った軌跡を追うように、幸村は、視線を佐助の小屋の方へと向けた。

2013.06.09