三

 信玄の館に参上した幸村は、報告を済ませ、己の不始末を平身低頭して主に詫びた。
 信玄は、屋敷全体を揺るがすほどの声量で幸村の不覚を厳しく叱責し、その後で、烈火の眼光を慈愛に満ちた眼差しへと変えた。
「幸村よ」
 は、と勢い込んで返事をして、幸村は床板に額を擦り付けんばかりに頭を垂れる。
「失われた時間は惜しく思う」
 信玄の声は深く重い。
「しかし、おぬしがおぬしである事に変わりはない。ゆえに失くした時間を気に病む必要もない。武田の若き虎の魂は、いささかも損なわれてはおらぬのだからな」
 信玄は身を乗り出した。その眼差しと声音とがいっそう柔らかなものへと変わる。
「だが、もし、治療に必要な物が見つかれば何なりと申し出よ。遠慮は無用じゃ。ワシの力の及ぶ限り手に入れて、必ずやおぬしの元へと届けよう」
「お館様……!」
 そして、感激した信玄と幸村とで、お約束の殴り合いが始められた事にはさすがの佐助も唖然とした。
 いつもの通り、名を呼び合いながらの激しく熱い殴り合いは、まるで三年の落差など存在しないかのような主従振り。頭を痛めていた己が馬鹿らしく思えたほどだった。
 けれど、どれほど変化がないように思えたところで、幸村からは三年分の記憶が抜け落ちている。信玄の館からは幸村の護衛を部下に任せ、佐助は一足早く上田の城へと駆け戻った。
 実感が湧かないと、甲斐までの道中幾度となく零していた幸村だったが、城に戻れば嫌でも変化を実感するはずだ。三年の歳月は意外と大きい。
 城の見た目は変わっていないが、下働きの者が幾人か入れ替わった。城下の様子は随分変わった。幸村の部屋の調度も幾つか増えて、最近信玄に下された槍などが誇らしげに床の間に飾られていたりする。
 上田にへ戻った佐助が真っ先に向かったのは、その幸村の、真田家当主が代々使っている部屋だった。人目を避けて忍び入り、佐助は蒔絵の施された塗りの文箱の蓋を開ける。
「旦那、ごめん。預かるよ」
 そこから見落としのないよう慎重に、政宗からの文だけを全て抜き取って紐で括り、布にくるんで懐に入れる。
 数はそう多くない。
 いっそ、見せたら驚いて思い出すのではないか。そう考えもするが、そうならなかった場合の幸村の混乱を思えば、ひとまずそれは最後の手段だ。
 記憶が戻るまでだから、と佐助はもう一度文の束へと詫びる。
 それらを城の敷地に与えられた自分の小屋の納戸の棚へ、木箱に収めて仕舞い込んだ。


 家人たちと忍隊に事情を話し、治療法を求めて里長に使いを出し、幸村が城へと戻って来たのは丁度佐助がひと息ついた頃合いだった。
 佐助、居るか、と呼ぶ声に姿を見せれば、私室前の廊下で庭を見回していた幸村が、佐助を見つけて破顔する。
「ご苦労だった。用事は済んだか?」
「おかえり。済んだよ。茶でも持って来させようか? それとも何か聞きたいこととか」
「いや。それよりも、すまぬが少し相手をしてくれ」
 手に持っていた槍示す幸村に、佐助は露骨に呆れてみせる。
「旦那さあ、ほんっと体力馬鹿だよね……」
「主に向かって馬鹿とは何だ! 移動続きで体がなまってたまらんのだぞ」
「あーはいはいちょっと待ってね、っと」
 軽くあしらって一旦姿を消すと、佐助は鎖のついた大型の手裏剣を両手に携えて庭へと戻る。
 今の幸村の腕のほどは確かめておきたい事でもあったし、信玄にも同じ事を言われていた。
 軽い身のこなしで木の枝を渡り、大きく跳躍する。
 槍を振って体を慣らしていた幸村の頭上へと、不意打ちじみた攻撃を仕掛けた。
 気配に気付いた幸村が、振り下ろした手裏剣を槍で受け止める。誰が食らうか、と嬉しげな声が言った。
 好戦的な笑みを浮かべて、幸村は佐助を押し返す。その力を逆に利用して後方へ飛び、身を捻って着地した佐助は、その脚を狙う一槍を僅かな動きだけでかわす。
 耳元に槍の穂先が空気を裂く音を聞く。
 間髪置かず繰り出されるもう一槍を片手の手裏剣で受け流す。
(弱い)
 すぐに感じた。
 予想していた事ではあったが、幸村の腕は三年前の時点まで戻っていた。力ではなく身のこなしが、今の、本来の幸村と比べて大きく劣る。
 動きに隙が多い。
 攻撃は鋭さに欠け、仕掛けに対する反応も遅い。
 今もし独眼竜と一対一で戦うような事になれば、そうもたずに首が胴から離れるだろう。
 同時に佐助は、この三年でどれほど幸村が成長していたのかを改めて思い知る。特に最初の一年の伸びは凄まじかった。二度目に政宗と対峙した時、幸村の槍は政宗に伯仲した。政宗が研鑽を怠っていたという事ははないだろう、ただ、それだけ急激に幸村が腕を上げたのだ。
 お館様のため。そして独眼竜を超えるため。
 その一心で鍛錬を積み、真剣勝負の相手を出来る者が一人減り二人減り。
「っ!」
 しばらくの打ち合いの後、手裏剣を防ごうとした幸村の手から、衝撃に耐えかねて槍が一本弾け飛んだ。
 鉢巻のない額から顎へと汗が次々滴り落ちる。それを手の甲で拭いながら、幸村は弾む息を整える。
「佐助、強くなったのではないか?」
「え、そう? ま、俺様もそれだけ成長した、ってことかなー」
 軽口混じりで言うが、確かに佐助も腕を上げた。幸村の相手が務まるよう、そうしなければならなかった。真田に仕える者で本気の幸村の相手を出来るのは、今では佐助一人になっている。幸村が、悔しさを隠しもしない目で佐助を見た。
「……三年か」
 幸村が呟いた。
「うん?」
「いや、まだ僅かだが、少しばかり染みてきた。やはり、皆で俺を担いでいるわけではないのだな」
「はは。ま、そう思うのも無理ないけどさ」
 頷いて、幸村は弾け飛んだ槍の方へと足を向ける。その背。
 ここ最近では、佐助でも、実戦であれば死んでいたと、相手をして冷や汗を流す回数は確実に増えていた。今の幸村はその逆だ。実戦ならば幾度となく殺せるだけの隙があった。
 経験を重ねて得るものは日常ではどうにもできない。だが明日からの鍛錬で、極力効率的に教えなければならない事を佐助は頭の中で数え上げる。いっそあのまま独眼竜の城に滞在して、手合わせの相手をさせた方が効果的だっただろうかと、そんな事まで考える。
 そうしながら、幸村の様子にふと首を捻った。
「どうかした?」
 槍を拾い上げ、手の中で、感触を確かめるように回す幸村のどこか不思議そうな顔。
「いや……何でもない。もう一度だ」
 二槍を構え直して、幸村が地を駆ける。
 鋼の打ち合う音、鎖の鳴る音が夕刻間近の、弱い光の注ぐ庭に響き渡る。
 攻防の末に、二槍と二振りの甲賀手裏剣とが真正面からぶつかった。鍔迫り合いのように噛み合って押し合った。
 機を伺い、同時に飛びすさって間合いを取り直す。幸村が腕を回して突き出したその十字の穂先に、
「――――ッ!?」
 炎が灯った。
 幸村が、まるで熱した鉄にでも触れたかのように両の槍から手を離す。二本の槍は乾いた木の音を立てながら幾度か跳ねて地面に落ちた。
「旦那、今の」
 幸村は落ちた槍を見つめ、自分の手を見つめて、丸い目が最後に佐助へと向けられる。
「わからぬ。勝手に点いた」
「勝手に、って」
 炎は幸村の属性だ。
 だが戦場でならばともかく、手合わせで幸村が槍に炎を灯すことなどあまりない。第一、
「それ、朱羅だよね?」
「ああ」
 今握っている槍は主に鍛錬用として使っているもので、武器自体に幸村の炎を映す力がない。
「何だそれ。真田の旦那、そういうの今までにもあった?」
「いや。初めてだ」
 甲賀手裏剣を腰に収め、佐助は身を屈めると、素手の指先でそっと槍の柄に触れた。
 熱くはない。
 ということは、単純に驚いて手を離したということだ。
「手、火傷とかしてねえよな?」
 念のため確認すれば、幸村は大丈夫だと頷いてみせる。
 少し休もうと言い置いて、台所で湯冷ましと菓子を調達して、佐助は幸村と並んで縁側へと腰掛けた。
「旦那さ、何か、どっかに違和感とかある?」
 幸村は白湯に口をつけながら、慎重に言葉を選ぶ様子を見せ、
「違和感……というか、体が」
 声が途切れた合間に相づちを打って、佐助は続く言葉を待つ。
「おかしな言い方だが、動きすぎる感じがある。俺が思っている以上に動くのだ。……例えば、転ぶと思った体勢でも持ちこたえるとか、だな」
「三年の間に鍛えたからね。筋力とか、かなりついてると思うよ。他には?」
「他には、いや、特にないな。火が出たのは本当に何故だかわからぬ」
 ふむと口の中で呟いて、佐助は白湯で舌を濡らす。
 幸村は思い出したように体を捻り、開け放たれた障子から部屋の中へと視線を向けた。
「あの槍は?」
 問われて、壁にかけた槍を見た佐助は、文机の上に柿が一つ置かれていることに気が付いた。政宗の寄こした柿だ。奥州からの帰り際にも見つめていた。発端の柿。覚えていないながらも、幸村に、何かしらの引っかかりを与えているのかもしれないと考える。
「夏の初めだったかな、戦で活躍したご褒美にって、大将が」
「お館様が?」
 幸村は改めて槍を見る。部屋の中を見回して、苛立たしげに溜息を吐いた。
「……お館様がくだされたものを、俺は覚えておらぬのか」
 佐助は脚を抱え上げて胡座をかいた。
「ま、んな難しい顔しなくてもそのうち思い出すって。気楽に行こうぜ、旦那」
 務めて軽くそう励ます。幸村は悩み出すと意外と長い。
「体の感覚は徐々に慣れていけばいい。意識しないで火が出るのは……何でだろうな。続くようならちょいとヤバそうだけど」
「注意しよう」
「ああ。もし、変な感じとか気になる事とか、少しでもあったら言ってくれよ」
「わかった。心配をかけてすまぬな」
「やだな、なに今更」
 会話が途切れたところに、長、と声がかかって佐助は庭の、樹木の間へと目を向ける。低木の影に忍隊の部下が一人、片膝をついて頭を下げた。
「悪い。ちょっと行ってくるわ」
「ああ、佐助」
 茜色に染まり始めた日射しを浴びて、幸村はどこか困ったように笑ってみせた。
「後でその、槍を頂いた時の戦の陣立てを教えてくれ。詳しく」
「あいよ。了解、っと」
 答えて、それは良い案かもしれないと佐助はふと考える。
 戦の陣立て、その時の真田隊の役割、動き。話して聞かせるのは、記憶の刺激にもなりそうだった。


 結局二日間を湯治場で過ごし、政宗は早々に城へと戻った。
 戻るなり、夜半に急ぎで持ち込まれた案件に、政宗は寝衣で筆を取るはめになっていた。
 内容については小十郎に意見を求めて決めた。
 後は書状をしたためるのみだ。
 燭台の明かりを頼りに筆を動かしていた政宗は、途切れた文章を思案する間に、眼帯の上を筆の背で掻いた。
 こんな事ならば時間の許す限り湯治場に居るのだった。苛立ち紛れにそう思うが、実のところどこにいようと同じ事だ。
 湯治場にいたところで、政宗の判断が必要な事柄があれば馬や忍の足で持ち込まれる。
 湯に浸かってくつろいでも、幸村の事が頭から離れずに思い出しては気に掛かる。
 物忘れの病。
 帰すのではなかったか、と、浮かぶそれは繰り言だ。
 いっそ全て忘れていたならば、自分の領地で起きた事故だと責任を振りかざして留め置けた。城下には腕の良い薬師も多い。だが、あの警戒も顕な幸村を、口八丁で奥州に留めるのは酷に思えた。
 もし記憶が戻ったなら、幸村が飛んで詫びに来るだろう。
 それが無理でも佐助か、佐助も無理なら他の真田忍が報せに寄こされる筈だが、今のところ音沙汰はない。
 幸村に飲ませようと用意した上等の酒や、珍しい甘味。持たせて帰せば良かったと後になってから思ったが、上田に送りつけるのは不自然だ。だからといって何となく手をつける気にもなれず、そのまま放って置いてある。
「――、なれば。如何なさるおつもりですか」
 問いに、雑念に沈むまま政宗は答えた。
「Ah, 酒は痛むもんでもねえが、菓子がな……そうだな、明日にでも食っちまうか」
「は?」
「……ん?」
 共に疑問符を浮かべて、顔を上げた政宗と、控えていた小十郎とは暫し目を見交わす。
「ああ、悪ィ。ちっと余所事考てた。何だって?」
「いえ、ですから、真田のことを……」
 大分言葉を聞き逃していたらしい。偶さか真田絡みは合っていた。
「このまま病が治らなかった時は、如何なさるおつもりか、と」
 政宗は少し悩んで筆を置いた。やや凝った気のする背中を反らしてほぐす。
「この機に攻め込んで討ち取っちまえ、とでも言いてえか?」
 あの日、城に戻り、幸村の蜻蛉返りの理由を政宗から聞いた小十郎が真っ先に口にした言葉。
 ――では、真田の腕は三年分衰えていると、そういう事になりますか。
 虚を衝かれた思いだった。
 政宗は咄嗟に言葉を失った。
 だが言われてみればそういことだ。多分、と頷く政宗に対し、小十郎はその時は、それ以上のことは口にはしなかった。
「よくおわかりですな」
「Ha, そりゃお前」
「と言いたいところですが、それでは政宗様の胸にわだかまりが残りましょう」
 政宗は瞬いて、口元を曲げる。
「……よくわかってるじゃねえか」
「それは、無論」
 主従は探り合うような視線を交わし、やがて、どちらからともなく吐息で笑う。
「ったく、お前といいあの忍といい……」
 今まで政宗と幸村の付き合いに良い顔をしてみせた事などなかった癖に、調子が狂うようなことばかり言う。
 もう近付くな、討ってしまえと言われれば、逆に反発する勢いも付くものを。
「真田の忍が、何か?」
「いや、こっちの話だ」
 切り上げれば、小十郎はそれ以上の追求はしない。
 かき上げた前髪を後ろへと撫でつけ、政宗は天井を仰いで、見るともなしに木目を眺める。
「……ま、暫くは様子見だ。原因が原因だしな、何かの拍子にあっけなく治るだろ」
 柿の木から落ちたなどという間の抜けた発端には、間の抜けた結末が似合いだ。
 滑って転んで頭でも打てばいい。
 草を忍び込ませて、廊下に蝋を塗らせてみようかと考える。
「治らなかった場合には」
 政宗は考えて、僅かばかり首を傾げる。
「さあな」
 すぐに口の端を上げて笑んでみせた。
「ま、何回か打ち合いでもすりゃ、あの野郎のことだ、どうせすぐにまたオレに惚れる。そうすりゃあっという間に元の鞘だ。余計な事考えるだけ無駄だぜ、小十郎」
 自信に満ちた口振りに、小十郎は苦笑して、そうかもしれませぬなと同意した。政宗は筆を取り、具合良く墨を含ませて紙に向き直る。
 思案の後に、一息に筆を走らせた。数行に渡る文章を綴り、眺める。紙の端を持って翻して小十郎へと渡す。
 受け取った小十郎はその文面を目で追って、やがて頷いた。
「確かに」
「OK. 寝るぞ」
「朝晩は冷えますれば、寝床まで移動された方がよろしいかと」
 その場で畳に転がれば、すぐさま降ってきた小言に政宗はひらと片手を振る。
「わかってるって。心配すんな」
 溜息を置き土産に襖が閉じられ、室内に静寂が訪れた。
 静寂といっても秋の夜だ。障子紙一枚隔てた外からは、上等の鈴を転がしたような虫の音が幾重にもなって届いている。
 政宗は横になったまま手を伸ばし、地袋の引き戸を弾いて開けた。その中の三段ばかりの抽斗の、金具に指をかけて引き開ける。赤い、細い布を取り出した。
 幸村の鉢巻だ。
 あの日、床に運んだ時に解いてやって、特に考えもなしに丸めて袂に入れてあった。思い出したのは、幸村を帰してしまった後だった。
 細い布の、端を指にかけて顔の前へと垂らす。そうすればふいに、鼻をくすぐった匂いに、政宗は思わず苦笑した。
 汗臭い。
 当然だ。手合わせの間つけていたものだ。幸村が元に戻るまで預かるなり、それを待たずに返すなり、どちらにしても一度洗うべきだろう。
 考えながら、見上げる視界に垂れる一筋の赤。
 真田幸村を象徴するかのその血の色。
「――……」
 少しの躊躇の後、政宗は垂らした布を腕に絡めた。
 鼻先へと近づける。
 嗅ぎ覚えのあるその匂いに頭の芯が痺れるような心地がする。
 もう片手で、寝衣の裾をかき分けた。
 少しばかりの自己嫌悪に眉根を寄せて、政宗は、むずつく雄を握り込む。緩く上下に手を動かしながら、目を閉じた。
 そんな風に、自分で慰めたところで到底足りない。
 わかってはいる。今日まで堪えもした。けれど。
 布を絡めた手を胸元へと差し入れた。指先で尖りを潰して捏ねる。
「ン……」
 その刺激も、舌で舐られ、歯に甘く噛まれるそれとは遠い。
 もどかしい。
 それでも、触れられる感覚を記憶から引き摺り出して、擦り替えて、自分自身を追い上げる。
 弾む息の下から、こぼれそうになる声を噛み殺す。
『政宗殿』
 声。
「……っ」
 記憶のそれに、全身を漣のようなふるえが駆けた。
『――政宗殿であれば、例え、あの時出会っていなくとも』
 いつだか、何かの会話の流れで、幸村が恥ずかしそうに笑んで口にした。
『見えたのが戦場であれば、某はいずれ必ず、政宗殿に惹かれていた。そう思うのだ』
 言う声は、恥じらいながらもどこか誇らしげだった。
 馬鹿かテメエ、と、そんな返事をしたはずだ。
 例え話なんざどうでもいい。くだらねえ。今、目の前にアンタがいる、それが全てでそれで充分だと、そんな風に。
 それを。
 三年前の、出会った直後。
 戦場で一度見えた後。
 政宗をただ敵視する目。
 あの関係のままでいればこんな疼きなど知らずに過ぎた。
 どこよりも歯がゆさを訴える場所には、自分で触れるのは躊躇われる。それこそ、指などでは到底足りない。大きさも、熱さも。
「ッ……、ふ……」
 だが幸村の言葉を真に受けるならば、幸村の中に既に種は落ちている。その事が。
 自分にとって幸いか。
 或いはその逆か。
 考えて、政宗はかたく目を閉じる。手の動きに集中しようとしてすぐに気を散じさせる。吐息をこぼす。
 迷っていた。あの日から、ずっと判じ兼ねている。


 どこかで奏でられる笛の音が、夜の静寂に細く流れる。
 燭台の灯りを受けて座す信玄は、脇息に凭れながら、佐助の話を聞いてひとつ唸った。
「意図せずに炎が出るか」
 顎に指を這わせて髭を撫でた信玄の目が、僅かな空気の流れに揺れた燭台の、ささやかな火を捉えて細められる。
「大将、そういう事ってありました?」
「いや、ワシにはない。そういった例を聞いた事もないな」
 考える間もなく信玄は言い切った。
 日の本でも未だごく少数の、秀でた武将にのみ現れる属性――その気性や、闘気や覇気、そういったものの象徴とでも言うべき現象は、人によって出現する形は様々だ。
 炎、風、雷、光。信玄の宿敵である軍神は氷。
 だがその力は、本人の資質と、強いまじないを練って鍛えた武器とが揃った上で、意識して初めて形を取る。それだけは誰でも同じことだった。
 例外といえば、強いと表現できる範囲を超えて、禍々しさに至った力を武器自体が宿している場合。佐助の『闇烏』などがそれだ。
 どういった経緯を辿ったものか、無機物でありながら妖かしの範疇に入りかけているその武器は、生半可な、それを支配できない者が手にすればたちまち触れた先から生気を奪われる。気づかずに触れ続ければやがて命すら落とす。
 あの時幸村が持っていた槍は、初陣前から長く使い込んでいる槍だ。
 幸村の手には最も馴染んだものであるが、どれほど念じてみたところで、炎など灯るはずのない十字槍。
「思わぬところに支障が出たな」
「ですねえ……」
 信玄は手にした扇を開いて、閉じる。折り畳まれた紙が小さく鳴る。
「どう影響が出るかわからぬものを、無理をさせるのは本意ではない」
 その目は燭台をひたと見ている。
 佐助も揺れる火へと目を遣った。
 綿糸の芯と蝋とが揃って、長く火を灯し続けるその仕組み。今の幸村は、その片方が欠けた状態だ。意図せず、武器の助けも借りずに力が形を取ってしまう。
 蝋なしに、綿糸に直接火を灯せばどうなるか。
 信玄が案じているのはその可能性だ。佐助とて、当然それには思い至っている。
「だが、今、幸村はこの武田に欠かせぬ男じゃ。槍働きの面でも、兵たちの士気を向上させる意味でもな。戦になれば幸村には出て貰わねばならぬ」
「はい」
「年内、どこかに攻め込むつもりはないが、仕掛けられる可能性はないとは言い切れぬ。可能な限り早急に、――そうじゃな、幸村が元に戻ればそれが一番だが、ひとまずは体と意識を慣れさせよ」
「齟齬ですかね、やっぱり」
 飛躍的に成長した体と、三年前に戻った心とが噛み合わずに起こっているものだろうかと問えば、信玄はゆっくりと頷いて、
「そうであれば良いのだがな」
 少しの後に、言葉を足した。
 室内に沈黙が落ちる。笛の音はいつの間にか止んでいた。
「伊達の小せがれはどうしておる」
 佐助は目を上げた。信玄はまだ燭台を眺めている。
「独眼竜なら、今のところは、何も」
「そうか」
 その横顔からは心のうちは見て取れない。元より、自分などに読めるお人ではないけれどと、考えて佐助は口を開いた。
「大将としては、どうなんです、アレ。正直なとこ」
 幸村の奥州通いを黙認している、その真意について。問えば、信玄が佐助を振り向いた。
「ワシか? 幸村が好敵手を得たこと、喜ばしく思うておるぞ。常々そう言うておろう」
「好敵手ってだけならいいんですけどね。それに収まらないから聞いてんですよ。知ってんでしょ」
 信玄は、可笑しそうに喉で笑う。
「なんの、ワシとて二十歳そこそこの若さで軍神に会うておれば、あれの閨に忍ぶ算段を講じたかもしれぬぞ?」
「……その時軍神、十かそこらですね」
「おお、そうか。ちと無体じゃのう」
 ぱちん、と芝居がかって扇を鳴らす信玄に、どこまで本気なんだかと佐助は密かに溜息を落とす。
「ときに佐助」
 腰を浮かせて座り直し、信玄が身を乗り出した。
 その声の響き、目の輝きに嫌な予感を覚えて、佐助は膝で一歩下がり、二歩下がって、
「なぜ逃げる」
 咎められて動きを止めた。嫌そうな様子を隠しもせず、上目遣いに信玄を伺う。
「何でって、この時間からひと勝負は勘弁してくださいって」
「何も言うておらぬうちから察しが良いのう。一局だけじゃ、付き合え」
「いや、大将長考するじゃないの!」
「ならば早打ち勝負とするか。うむ、それも良いな」
 言いながらも信玄は立ち上がり、盤と将棋駒とをいそいそと取り出す。
「早打ちは俺様が無理ですって。それにほら、俺様じゃ物足りないでしょ。勝負するなら誰か他の、もっと強ーいお人に頼んだほうが」
「なんの、おぬしの腕も悪くはないぞ。ほれ」
 駒を盤上にざらりと開けられてしまえば、最早どうにもできはしない。
「……ほんと、一局だけで勘弁してくださいよ」
 佐助は渋々膝でにじり寄って、肩を落としながら盤上の駒を整えた。


 翌日、柿は文机の上から姿を消した。
 食べてしまったのかと思えばそうではなく、床脇の違い棚へと場所を変えて、手回り品などの間に飾り物のように置かれていた。
 元は黄みがかった色をしていた柿は、日が経つうちに赤みを増して、表皮はすっかり熟れた色だ。若いうちに収穫したおかげでまだ食べ頃の範囲だが、本来日持ちする物でもない。
「食べないの?」
 言えば、幸村は陣立ての説明のために広げられた地図から顔を上げ、佐助が示す柿を見た。
 幾度か瞬きする間考えて、
「……そのうちな」
 とだけ答えると、煮え切らない言葉をそのまま映したような目を伏せた。
「それで、佐助、この隊の役目は」
 地図に置かれた木っ端を差す幸村に、佐助は意識をそちらへと戻す。夏にあった戦の陣立てだ。幸村が、信玄から槍を拝領した戦。木っ端を隊に見立てて、動かしながら戦の流れを説明していた。
「ああ、えっと、その前に上杉がこう動いてきて……」
 佐助は指先で別の木っ端を押し、川沿いを進軍させる。次に幸村が示した武田の隊を動かし終えて、
「で、旦那の動きはこう」
 真田隊の駒を移動させ、敵の部隊とぶつかる位置へ。
 目を上げて、佐助は幸村の様子を見る。
 幸村は、黙ったまま眉間に深く皺を刻んで地図と駒とを見比べている。
「……思い出せない?」
 顎に指をあてて思案していた幸村は、しばらくして悄然と首を横に振った。


 剥いてくれ、と件の柿を渡されたのは、それから二日経ってのことだった。
 鍛錬を終えた縁側だった。その日も幾度か朱羅から炎が吹き出したが、最初のように都度休憩を挟むことはせず、槍を離し呼吸を整えればすぐに打ち合いを再開した。
 はじめから属性を持つ武器を持てば解決するのではないか。そう考え試してもみたが、予想とは逆に幸村の疲労の度合いが尋常ではなく、結局、制御を身につけるしかないという結論に至っている。
 熟れきった柿は、力を込めれば指が沈みそうな具合だった。
 佐助は慎重に剥いて皿に置いた。剥く間にもとろとろに熟れた実は指を濡らすほどで、掴んで食べては服を汚しかねないと一口大に切り分けた。
 それを、幸村は楊枝で刺して口へと運ぶ。
 政宗がくれてよこした柿。独眼竜の名は、甲斐に戻って来て以来滅多に幸村の口にのぼらない。
「甘いな」
 幸村が言う。
 そうだね、と佐助は答えた。
 少しの違和感に目を瞑れば、物忘れの病などまるで嘘のように日々は過ぎる。

初:2008.05.25/改:2013.06.09