二
政宗と幸村が出会ったのは、政宗が、奥州にほど近い甲斐の端に攻め込んだ戦でのことだ。
三年と少し昔の事。
今の幸村にとってはそう遠くない昔の話。
僻地であるせいか、あるいは伊達を侮り兵力を惜しんだものか、その戦に武田信玄の出陣はなかった。そして、精強と聞いた武田の兵は予想外に脆かった。そのことに政宗はいたく落胆した。
戦は伊達の圧倒的優位で進んだ。
武田も大したことがないと、腹立ち紛れに声をあげた。
侮るならばそれも上等、この勢いで手近な城を落とさんとしたところに、政宗の前に一人の若武者が単騎で現れた。
それが、まだ無名の幸村だった。
初陣から幾度かの小競り合いを経験しただけの、さほどの場数も踏んでいない頃。
今では日の本に広く知られる虎の若子の二つ名も、誰の口にも上っていない頃。
名乗りを受けて記憶を探った。真田の名に覚えはあったものの、軍議の席で話題に上るようなこともなく、気にも留めていなかった。その程度の存在だった。
挑まれて、応じた。
少しは楽しめるだろうかと退屈凌ぎ程度に考えた。
――そして結果は、政宗の敗北だった。
実力で劣ったわけではない。歯応えはあった。楽しめはしたが、幸村の槍は小細工を知らず、まっすぐなばかりの突進に打ち負かされる政宗ではない。
だが、二人の一騎打ちの場に、遅れて佐助が駆け付けた。
すぐさま幸村の不利を見て取り、放った手裏剣が政宗に隙を作り、その機に幸村が乗じたのだった。
けれど、どんな手であろうと敗北は敗北。とどめを刺せと促す政宗に、突き付けた槍の穂先を震わせて幸村は躊躇った。荒い呼吸の下から、声を絞り出して言い放った。
『この勝ちは、我が実力に非ず』
そうして槍を逸らし、幸村は退いた。いつか力をつけた時に改めて勝負を頼むと言い置いて。
愕然とした。
信じられなかった。
あり得ない行動だった。
実力でなかろうと構う必要はない。まして佐助は幸村の抱える忍、目端の利く忍を得たのは幸村の運だ。偶然や運や、そういったものを引き寄せるのも力のひとつだ。
どのような手段を用いてでも勝利には貪欲に手を伸ばす。
政宗はそれを躊躇ったことはない。
躊躇う理由などありはしない。
そうして奥州を平らげた。
幸村の行動が理解できず、地面に拳を叩き付け、政宗は屈辱に打ち震えた。
舐められたのだと感じた。
二度と消えない血の色の傷として、真田幸村の名は深く心に刻まれた。
落とし前は必ずつける。その怒りは燃え上がり、衰えることを知らず、真田幸村を倒すまで先に進むことはできないと天下取りすら中断した。
だがその反面、己の力以外を恃むことをよしとしない、そのためならば目の前の勝利すら捨てて槍を退いてみせる幸村の、その潔癖な様に心惹かれたことも確かだった。
――もう、三年も前の事になる。
*
廊下に出た政宗は、土間に向かいかけたところで足を止めた。
そこに政宗の履き物はない。縁側から幸村を運び込み、草履はそこで脱ぎ捨てたのだった。すっかり頭から抜けていた。
ぼけている、と自嘲して、政宗は踵を返す。そうしてから、この日幾度目になるか知れない溜息を、床板の古びた木目へと密かに落とした。
これからの時間をどう過ごすか。考えばがら、政宗は廊下に足を踏み出す。
夕餉まではまだ時間がある。今日の下拵えは客人のためにと政宗自ら済ませてある。実り豊かな奥州の秋だ。山から海から美味いものを集めて、片端から食わせてやろうと腕によりをかけたがそれも全て無駄になった。
せめて食わせてから帰そうかと考えるが、警戒心剥き出しで口にされるのも業腹だ。
想像するだけで舌打ちが漏れた。
自室に戻って、武器の手入れでもするか。
それとも馬を走らせて気晴らしするか、読みかけの書物の続きでも読むか。
政務を前倒してもいいが、この際だ、近場の温泉に出かけてもいい。何しろ幸村と過ごすつもりで空けた予定は数日分、片手の指ほど残っている。
縁側の下には、脱いだ時のままに草履がてんでに散らばっていた。
それを拾って揃え、足を通す政宗の背に、
「独眼竜殿!」
懐かしい響きの呼びかけに、政宗は瞬きの後に目を上げた。
部屋から出て来た幸村は、その場で縁板に両膝を付いた。誤解が解けたおかげだろう、政宗を見る目からは険が削がれていたが、緊張を解くことまではできないのか、硬い表情は変わらないままだ。
「何だ、……真田幸村」
問えば、幸村は政宗に向けて畏まった様子で頭を下げた。
「申し訳ない。ご迷惑をおかけした」
――真田の旦那には、お館様からの文を預かってここに来て、旦那の不注意で頭を打ったって説明してある。その衝撃で、一時的に記憶が混乱してるって。
佐助は政宗にそう説明した。
確かに、今の幸村に事実を告げるのは得策ではない。佐助がいなかったとしたら、政宗も、幸村にとって受け入れやすい適当な嘘を探しただろう。
政宗は、佐助の様子を思い出して密かに苦笑する。表向きは飄々とした様を取り繕っていたが、あれで意外と動揺していた。
「No problem」
理解できない言葉に幸村は目を瞬かせるが、口の片端を上げる政宗を見て察しをつけると再び深く頭を下げた。いつの間にか結び直されていた後ろ髪が、肩を滑って前へと垂れる。
上げられた目が政宗を見た。
まっすぐな茶色の目。
しばらく互いに黙ったままで視線を交わし、幸村は何かを言いかける様子を見せて、結局言葉にせずに唇を閉じた。
政宗は鼻で笑って挑発する。
「らしくねえな。言いてえ事があるなら言ってみな。それとも、言葉の使い方まで忘れちまったか?」
幸村は政宗を軽く睨め付け、やがて、どこか不安そうに視線を彷徨わせた。
「いや、……妙な心地がしているだけだ。目が覚めて、貴殿の城に居て、事情は佐助から聞かされたがどうにもまだ担がれているような……狐につままれた心地が致す」
それは政宗も同じだった。
昼前に幸村が到着して、交わりこそしなかったが気が済むまで体を触れ合わせて、落ち着けば手合わせをして、並んで歩いて雑談を交わして。
そして今は、借りてきた猫のように警戒を覗かせながら政宗を見ている。何かの冗談だとしか思えない。
「そいつはオレの台詞だ。アンタ、物忘れの振りでオレをからかってるワケじゃねえだろうな」
「あり得ぬ。某、冗談の類は不得手なれば」
知ってるさ、と胸の中で呟いて、政宗は目元を緩めた。
「オレも、庇う義理はねえがあの忍も、別にアンタを担いでるわけじゃねえ」
「無論、分かっている。ただ、そのような心地がするというだけだ」
幸村はどこか拗ねたような、気まずいような、そんな様子で口を閉じる。
政宗は面白そうにそれを眺め、草履をかけると立ちあがった。
「ま、オレが拐かしたって方が、アンタにゃ納得できるだろうがな。アンタを人質に取る意味もねえ。囚えて殺す理由もねえ。あいにく、自分で自分の楽しみを減らす趣味はないんでな」
「……楽しみ、とは」
「アンタとは、戦場で戦う方が面白え。そうだろ? 真田幸村」
言えば、幸村が目を丸くした。息を呑み、少しの後にそうかと小さく呟いた。
その目がふと、何かに気付いた様子で政宗の腰のあたりを見た。首を捻って視線の先へと目を遣れば、
「ああ」
小袖の、脇腹のあたりがぽかりと丸く膨らんでいる。政宗は手を入れて、中から柿を取り出した。
「くれてやる。持って行け」
幸村に向けて放り投げる。
幸村は腰を浮かせて受け止めた。驚いて、政宗と柿とを見比べる。
「あ、いや、すまぬ。そういうつもりでは」
「どういうつもりでもいいさ。そいつは元々アンタのもんだ。だから渡した。それだけだ」
「某の……?」
経緯は言わずにそれだけ告げれば、ややあって、幸村は大人しく頭を下げた。
「ならば、ありがたく頂戴致す」
「おう」
短く応えて、政宗は目を細める。
話すうち、少しばかり緩んだ気配で、政宗を見上げる幸村の姿。顔。形。それ自体は、この城に着いた時と何ら変わっていないというのに。
――いずれ、また、何処かで。
そんないつもの別れ際の台詞が、この幸村の口から出ることはない。
名残惜しげに政宗を抱きしめることもない。
頬をすり寄せ、髪に鼻先を埋めて、まるで感触や匂いやそういったものを忘れまいと必死に覚え込むかのように政宗を抱きしめる、腕。離れてしまえば次があるとは限らないのだと。
「……何か?」
黙り込んだ政宗に、幸村が不思議そうに目を瞬かせる。
政宗は口の片端を上げて少し笑う。
「いや、何でもねえ。じゃあな」
右手を上げ、なおざりに振って、政宗は幸村へと背を向けた。
幸村の荷を回収し、厩から幸村の馬を引き取った後、佐助は烏を呼んでその足に事情を記した文を括った。
何しろ信玄の使者として奥州を訪れたと、咄嗟にそういうことにしてしまった以上、幸村は信玄の屋敷に報告に出向く。前もって事の次第を報せなければならない。
頼むよ、と言えば心得て飛び去る闇色の鳥は、まっすぐに上田の忍小屋へと戻る。その脚に括り付けられた文に部下の誰かが必ず気付く。そして、幸村の帰還よりも早く信玄のもとへと届けられるはずだ。
幸村と政宗との関係は当然信玄も承知のことで、認めてもいないが咎めることもなく、今のところは静観している。
幸村の忠心は曇らない。
信玄を裏切ることなどどれほど政宗に懸想したところで起こるはずがなく、だから大方、政宗が幸村に絆されて武田への態度を変えでもしたら儲けもの、とでも思っているのではないかと佐助は見ているが本当のところは解らない。
「真田の旦那、お待たせ」
荷を担ぎ、馬を引いて、小屋に待たせてあった幸村に声をかければ、幸村は縁側で柿の実を手に眺めていた。
佐助の視線に気付いて、それを軽く掲げてみせる。
「独眼竜殿に頂いたのだ」
幸村が眠っている間に、一度佐助も見せられた柿だ。食えばいいと政宗に返し、結局幸村にくれて寄こしたのかと、考えて佐助は少し笑う。
「へえ。美味そうじゃないの」
「そうだな」
幸村は滑らかな果皮を指の腹でひと撫でする。一度城の方向を振り向いて、濡れ縁に出しておいた槍を掴んだ。
「行くか」
「はいよ、っと」
佐助は答えて手綱を引く。
見上げた空には既に烏の影もない。
2008.05.21/修正:2013.06.09