彼の基準

 年始の慌ただしさも過ぎた頃、政宗の元へと、久方ぶりに幸村が姿を現した。ただしいつものように個人的な訪問ではなく、信玄からの文を携え、正式な使者として。
 何事かと訝りながらも幸村と供とを広間に通し、受け取った書状をその場で披見して、政宗はひとつ唸ると改めて幸村の様子を伺った。
 常より幾分上等な着物を身につけた幸村は、姿勢を正して下座に静かに座している。
 だが、政宗に向けられた目が内心の喜びを隠しもせずに湛えているのが、どことなくおすわりを命じた犬を思い起こさせて、締まらねえなと政宗は内心で苦笑した。よし、と許しを出せば、尻尾を振って飛びついて来るのではないかと思わせる風情。
 もっとも政宗としては飛びついてくれても構わないのだが、というより久方ぶりに会ったのだ、むしろ飛びついて来いと命じたいくらいだったが、その気持ちは文に目を通すのと連れ立って、水を注がれた種火のように静かに消えた。
 次いで、幸村の背後に座る男へと視線を移す。
 黒髪をきっちりと結い、幸村よりは年かさだろうがやはり若そうな風貌で、身動ぎもせずに座っている様はまるで置物のようだ。
 目を戻し、文面をもう一度ざっと眺めて、政宗は片肘を膝へつけると心持ち身を乗り出した。
「Hey, 真田」
「は」
 短くこたえて、幸村が身を低くする。
「アンタ、書状の中身は知ってるか?」
「いえ、それがしは何も聞かされておりませぬ」
「Humn...」
 障子を背に控えている小十郎が、問うような視線を寄こして来る。それを視界の隅に捉えながら、政宗は面白くもなさそうに呟くと、紙面を指の背で二、三度弾いた。
「政宗殿……何か、不審な点でも?」
「Ha, 不審と言や確かに不審だ。オレはてっきり、アンタにオレを口説かせようって腹だと思ったんだが。そういうわけでもねえのか?」
「……申し訳ない、何のお話でござろうか」
 含みのある視線と言葉とを向けられて、幸村は音がしそうな瞬きをすると眉根を寄せる。
 その困惑した様からは偽りの気配は感じられない。幸村を眺める目を眇め、小十郎とひととき視線を合わせ、政宗は手にした書状をひらりと空に泳がせると、文面を幸村の側へと向けて見せた。
「同盟の申し出だ」
 どうめい、と小さく繰り返して、幸村が目を瞠る。
「オレが受けたらしばらく戦えなくなるなァ、真田幸村」
 What do you think? と笑い含みに言って、政宗は口の片端を吊り上げた。
 違いに、超えるべき壁と定めた相手だ。
 そして唯一、体を重ねることを求める相手でもある。
 武田方にその関係を知る者は少ないだろうが、真田の忍の頭領に知られているのだ、信玄に伝わっていない筈がない。
 ならばよりにもよって幸村にその文を持たせたことには含みがある筈で、そうすれば首を縦に振る、と、考えられているのだとしたら腹立たしいことこの上ない。何なんだこれは嫌がらせかと、信玄の屋敷に殴り込みに行きたいくらいだ。
 しかしこのところ周辺の国がこぞって不穏な動きを見せていて、上杉と北条が手を結んだという情報もある。永久にというのは御免被るが、一時的に手を組むのはそう悪い話でもなかった。
 素直に受けるには腹立たしく、断るには惜しい。さてどうしたものかと考えて吐息したところに、
「破廉恥な……!!」
 場にそぐわない言葉が飛来して、政宗の思考が一瞬停止した。
 見れば、幸村はなぜか顔いちめんに朱をのぼらせていて、畳についた手は感情のたかぶりのせいかわなわなと震えている。
 そのわけのわからない反応に、説明を求めようと供の男に視線を遣れば、男は幸村から視線を逸らし庭を眺めて逃避していた。
「……待て、何だって?」
「何だ、ではござらぬ!」
 気を取り直して言葉の意味を問えば、幸村は赤面したまま厳しい視線を政宗へと寄こし、ぴしりと鋭く怒鳴り声を放つ。
「同盟ということは、政宗殿とそれがしが共にいくさ場に出ることもあると、つまりはそういうことでござるな!?」
「そりゃまあ、……オレが承諾すれば、の話だが」
「左様でござろう!? そのように! 好き合った者同士が! 手に手を取って共に戦に出るなど破廉恥極まりない!!」
 どうやら相当の羞恥を覚えているらしい幸村は、耐えかねたように両の掌を畳へと叩き付ける。
 そのさも当然と言わんばかりの言葉ぶりに傍らを見れば、小十郎が無表情のまま硬直していて、ああ良かったオレの感覚がおかしいわけじゃねえんだなと政宗は胸を撫で下ろした。
 幸村はすっかり一人の世界に入っているようで、耐えられぬ、まともに槍を振るえるかどうか、しかしお館様のご意向とあらば従わぬわけにはいかぬ、だのとぶつぶつと独り言を呟くと、やがて
「うおおやはりそれがしにはできぬ!! 申し訳ございませぬお館様ぁぁぁぁ!!!!!!」
 叫ぶなり猛烈な勢いで走り出し、裸足のまま外へと飛び出して、見る間にその姿は視界から消え去った。すぐに庭からばきりぼきりと木の枝が折れたらしき音と、派手な水音が広間に届く。どうやら池に嵌ったようだ。
 残された三人は誰一人として動けないまま、ややあって、何とも言い難い空気と妙な静寂を破って政宗がぽつりと呟いた。
「……おい、真田の忍」
 その呼称に視線を跳ね上げた供の男は、訪れて以来初めて政宗と目を合わせ、それまでの無表情を芝居がかった渋面に変えると溜息と共に首の後ろを手で掻いた。
「あーもー、何でバレるかなあ」
「見抜かれたくねえなら、変装より先に主への態度を改めな。……それより、だ」
「真田の旦那の破廉恥の基準なんて、俺様に訊かれてもわかりませんよ」
「……Okay. じゃあこれ以上ウチの庭破壊する前に、あの野郎回収して来い」
 はあすみませんねと気のない謝罪をして佐助は幸村の回収に向かい、それを見送って、政宗は書状の端を指先でつまむと目の前に翳した。
「小十郎」
 続く言葉の予想がついているらしい小十郎は、気がすすまない様子ながらも政宗へと向き直る。悪巧みを仕掛けようとする子供のような主君の表情に、無遠慮に溜息を落とすと姿勢を正した。
「まあ、軍議にかければ概ね賛同を得られるとは思いますが」
「Good」
 頷いて、政宗はにやりと笑う。
「あれだけ期待されたら、応えないわけにはいかねえよなあ……?」

 そして数日の後。二頭の見事な駿馬と幾つかの贈答物を添えて、奥州から甲斐・武田信玄の元へと、同盟快諾の書状が届けられた。
 それを聞かされた幸村は半泣きでうろたえ、そんな幸村を眺めて信玄は首を捻り、説明を求められそうになった佐助は越後へと自主的な偵察任務に出かけて、そのまま暫く戻って来なかったという。

初:2007.01.10/改:2009.05.30
「夫婦で戦に出るとは破廉恥である!」なんて言うからには。→つづき