二
もがきながら水を掻いて、先に水面へ顔を出したのは幸村だった。水泳の鍛錬などろくにしたことはないが、どうにか浮いていることはできた。
咳き込んで水を吐き出し、苦しさに喘ぎながらも思うさま呼吸をして、助かったのだと安堵する。すぐに周囲を見回して、幸村は、ひやりとした感覚に襲われた。
広い水面には、羽を休める鳥の影が遠くに幾つか見えるだけで、他に人らしき姿はない。
「独眼竜……?」
掴んだ腕は、落水の衝撃で離してしまっていた。
湖面に全身を叩き付けられてしたたか水を飲み、溺れかけながら必死に水面を目指したのだ。それで精一杯だった。政宗の姿を探す余裕などありはしなかった。そのことに歯噛みする。
「政宗殿! ……政宗殿!」
呼び声は虚しく四散して消える。
二人の落水で荒れた水面が、無情にも静けさを取り戻す。
常日頃近しい者たちに窘められている、戦場に不釣り合いな幸村の軽装。動きを妨げられるのを嫌い、必要最低限の箇所にあまり重量のない武具ばかりを選んで着けていたのが、この場に限っては幸いした。
甲冑一揃いを身に着けて水に落ちれば――重みで身動きが取れず、溺れる。
水に浸かっているせいだけでない震えが、幸村の背を這い上がった。
独眼の竜の、全身を余すところなく鎧った甲冑。六本の刀と、弧月の前立て。
あり得ない。あってはならない。
天下に名立たる知将猛将を脅かす伊達の名士が。己が宿敵と定めた男が。
水に落ちたとそんなことで命を。
自分の手にかかったのでなく、こんな水に命を奪われるなど。
死ぬことなど許しはしない。
意を決して、幸村は邪魔な鉢巻きをかなぐり捨てた。水面に血が流れたかのような紅い色彩がゆらと浮かぶ。
「……お助け致す! 必ず!」
革製の上着は水を含んで肌に張り付き、脱ぐことはできそうにない。それは水中では動きの妨げになるし、泳ぎは得意ではないが、そんな事を言ってもいられない。
す、と喉を反らして深く息を吸い込んで、幸村が再び水中へと身を沈めかけたその時。
「愛デ――――――――ス!」
謎の叫び声と共に大音響を立てて、幸村の眼前に太い水柱がたち上がった。
「……っ!?」
何事かと身構える先で水柱は飛沫となり飛散して消え、あとには稀な巨躯をもつ大男がひとり立っていた。
そう、立っていた。
非常識にも、水の上に。
「な……ななな何者でござるか!」
縦にも長いが横にも広いその体に、黄金色の異国風の長衣を纏い、腰には何故か白い注連縄。頭頂だけを剃り上げた頭に金の冠を乗せて、両手を広げどこか恍惚とした様子で男は言う。
「ワタシ、この湖のフェアリーデース」
「ふぇ……ありい……?」
疑問符を飛ばす幸村のことなど気にもかけない様子で、その『湖のフェアリー』と名乗る男は身を屈め、水中へと右の手を差し入れる。
「アナタが落としたのハー」
ざばざばと水を掻き回して持ち上げられた右手には、まるで土の中から引き抜かれた根菜のように、襟首を掴まれた政宗が吊り下げられていた。
「この普通の政宗デスカー?」
「Shit!! テメエどこ掴んでやがる、離しやがれ!」
「政宗殿! ご無事でござったか!」
「ソレトモー」
身を屈めて、今度は左手を水中へ。
「こっちの受っぽい政宗デスカー? ソレトモ攻っぽい政宗デスカー?」
「……え?」
男の左手に掴まれて政宗が更に二人、水中から姿をあらわした。空気を求めて激しく咳き込んだ後、離しやがれオレを誰だと思ってやがるだの、生きて帰れると思うなだの、ところでテメエら誰だだのと、口々にわめき立てる。
合計、三人。
普通ならば驚くところなのだが、幸村は優秀な忍のおかげで、同じ顔が三つ程度並ぶことには慣れている。ぽんと手を打つと感嘆の表情で三人の政宗を見上げた。
「おお、なんと、貴殿に斯様な忍術の心得があったとは!」
「あってたまるか!」
「できるわけねえだろ! オレはstandardなただの武将だ!」
六爪を操る時点で標準からは遠くかけ離れているわけだが、それを指摘できる人材はここにはいない。
「さあ、アナタが落とした政宗を選んでクダサーイ! レッツチョイス!」
大男は楽しげに、歌うようにそう言って、幸村へ向けて片目をぱちんと瞑ってみせる。
「む……それはつまり、その中から本物の政宗殿を選べということか?」
「そういうことネー」
政宗達はまた口々に、自分が本物だ、選ぶならオレにしろと主張する。
『受っぽい』と『攻っぽい』は、要するに防御型と攻撃型ということだろうか。考えて、幸村は政宗達を見比べながら首を捻る。言葉の意味がよくわからない上にどの政宗も同じ政宗に見えるのだが、見た目で区別がつかなくとも、思えば選択肢には『普通の』が含まれているのだ。迷うことはない。
幸村は胸の前で拳を握り、力強く答えを返した。
「それがしが落としたわけではないが、落ちたのは『普通の』政宗殿でござる!」
「グッドデース!」
大男は政宗を掴んだまま再び両手を大きく広げ、何やら恍惚の表情を浮かべて目を閉じる。
「ああ、愛は全てヲ奪う……。正直者も全てヲ奪う……!」
「わけわかんねえこと言ってねえで早く離しやがれ!!」
「政宗殿、落ち着かれよ! そこで離されてはまた水に沈むだけでござる!」
「正直者にハー、全部の政宗をあげまショー」
「……全部、とは……?」
不穏な言葉に意味を聞き返そうとした幸村の襟首を、男の右手がぐいと掴んだ。有無を言わさず、政宗と束ねるようにして吊り上げられたかと思うと
「さらばデース! グッドラック・サムラーイ!」
「うおおおおおおおお!?」
彼方に見える陸地目がけて、幸村と三人の政宗を纏めて放り投げた自称『湖のフェアリー』は、くるりとその場で一回転すると、現れた時と同じように派手な水飛沫をあげながら、無責任にも水の中へと姿を消した。