まだ明け遣らぬ
幸村が目を覚ました。
柱に凭れて座る佐助もまた、その気配でごく浅い眠りから目を覚ます。
天井裏は常闇だ。だが板の隙間から差す僅かな光でようやく空が白み始めた時刻だと知る。
少しして幸村は布団から出た。
足早に、けれどそっと廊下に出る。
厠だ。足音の方角から佐助はそう推理する。同時に、常よりだいぶ早い目覚めはそのせいかと納得した。戻ればまた、起床の刻限まで寝直すだろう。
足音は予想の通りまっすぐに厠へと向かって、やがて廊下を戻って、寝間に戻って、
「佐助か? ……いるか?」
ひそめた声に呼ばれて佐助はおやと目を見開いた。天井板をずらす。逆さまに顔を覗かせる。
「いるよ」
年若い主は布団に座って上掛を腰のあたりまでかけて、何か困ったことが起きたのだ、と、ひと目でわかる顔で佐助を見上げた。その表情に、何も言われずとも室内へと降り立ち、そしてふと、佐助は小さく鼻を鳴らした。首を傾げる。幸村の近くに膝をついて、その顔を覗き込む。
「なに、旦那」
問うが、呼んでおきながら幸村は何やら躊躇う素振りを見せている。
「どうしたのさ」
重ねて問えば、幸村の眉根がぎゅっときつく寄せられた。
「……佐助。俺は、病かもしれぬ」
「病?」
「わからぬが、多分」
幸村は沈痛な表情で視線を落とす。
腰のあたりを隠すように覆う上掛を握りしめた。
「厠に行っただろう」
「うん」
「目覚めたら、寝間着の、前が、濡れていたのだ。それで……」
この年になって寝小便をしてしまったとは。
そう思って、慌てて厠に駆け込んだ。
重い口で、ゆっくりと、幸村が話す。佐助は黙ってそれを聞く。
そして薄暗い中、濡れた衣服を懐紙で拭おうとして気づいた。
「小便ではなかったのだ。……何か、粘り気のある、何かで」
幸村の声は泣きそうな響きだ。
「いや、小便なのかもしれぬ。だが小便があのように粘るなど普通ではあり得ぬ」
絞りだすように吐かれた言葉に、佐助は、焦りもせずに得心した。室内に降りた時に感じた匂い。予想した正体は間違っていなかったということだ。
夢精。幸村にとっては初めての精通。
これまでにそういった話は出たことがなかったし、大声でする話でもないし、然るべきお方が教えているものだと思い込んでいたけれど、まさかそれ自体がなかったとは少しばかり予想外だった。随分と遅めだが、幸村の日頃の幼い言動を思えば納得もする。
その、年の割に幼い幸村が、一体どんな夢を見たものか。
考えて、佐助は何だか可笑しくなる。
「俺は、何の病なのだ」
縋るような視線を受けて、佐助は片膝をついた姿勢で軽く首を傾げてみせた。
「ああ、大丈夫だって。病じゃねえよ。そんな不安そうな顔しなくていいぜ、旦那」
「……まことか?」
「ま、驚くのも無理ねえけど。男なら誰でも経験することだからさ。旦那が正常だったって証しみたいなもんだよ」
できるだけ幸村を安心させるよう、心がけて笑みを浮かべて主の目を覗き込んだ。
幸村は目を丸くして、それでもまだ不安そうに身を乗り出す。
「ということは、これからは小便がみなああなるということか?」
「や、そういうわけじゃねえんだけど。小便は小便で、あれはあれで、あー何て言やいいのかな、必要な時に出るっていうか」
「必要な時? それが寝ている時なのか?」
「んあー……っと」
佐助は首の後ろを指で掻く。何だか雲行きが怪しくなってきた。
こんな教育は忍の仕事ではないし、幸村相手に具体的な説明など御免被る。早めに切り上げようと心に決める。
「男が子を成せる体になると、あれが出るんだ。赤ん坊の種みたいなもんか。だから、子を作る時に出すんだけど、そうじゃねえ時にもたまに出ちまうことがあって」
「赤子の種……? こんなものがか? そうじゃない時というのはどういう時だ」
「えっと、つうか、出そうと思えばいつでも出せるっつうか……ああもう、とにかく旦那もめでたく子を作れる体になったってことで! 詳しくは然るべき方に聞いてください、っと。じゃ俺様はこれで!」
「待て、佐助」
「はい?」
できれば待ちたくないんだけど、と思いながらも見れば幸村は何やら厳しい顔で。
「信じられぬ」
「え?」
「佐助はすぐにはぐらかすではないか。正常だと言うならその証拠を見せてくれ。見るまでは信じられぬ」
「……え?」
いや、確かにするけど。はぐらかすけど。
え? と佐助は繰り返す。
「待って、旦那。見るって何を」
「だから、小便でないあれのことだ。病のせいでなく、男ならば誰でも出せて、いつでも出せるのならば佐助とて今ここで出せるだろう」
「…………え?」
頭の中が真っ白になった。
それは、つまり。
旦那の前で。
「ええええええうわ無理無理無理! ごめん俺様ほんっと無理!」
「何故だ? おぬし、まさか男ではないのか!?」
「いや男だけど! そうなんだけど」
「ならば何故嫌がる。立ち小便ならばよく並んでするではないか!」
「や、それとはちょっと違うっつーか……。ああ、ほら、そうだ! まずはお医者にちゃんと説明してもらうってのは? それなら信じられるでしょ」
幸村の目が探るように佐助を睨む。
「……その医者とおぬしが、口裏を合わせておらぬという保証は?」
「ええっ!? うわ何それ旦那、いつの間にそんなに疑り深くなったのさ!?」
そんなに何度もはぐらかしていただろうか。
……していたかもしれない。
考えて、佐助は激しく反省する。
だけどそれはあまり旦那に教えたくないような、例えば大将に頼まれたお仕事の話だったり忍としてのあれこれだったり、俺様にもはぐらかすなりの理由があるのに、忍の隠し事、やたら鋭く勘付く旦那が厄介なんだ。でもごめんなさいほんとすみません、心から反省します。
だが今になって猛省したところで幸村の追求は収まらない。
「出来ぬのなら理由を言え!」
「それもちょっと言いにくいっていうか……」
「なぜだ!?」
「いやほんと勘弁して……! けど病じゃないから。それだけは絶対に!」
「まことか!?」
「ほんとですって!」
声をひそめて言い合って、佐助は幸村の目をまっすぐに見る。
「本当に。嘘じゃねえよ。もしこれが嘘だったら、旦那、俺様のこと斬り捨ててくれよ」
声音を、ごく真面目なものに変えて訴えた。
幸村にもあまり聞かせない声音だ。気恥ずかしい。
黙り込んだ幸村は佐助の目をまっすぐに見返して、しばらくして、不機嫌なまま頷いた。
「……わかった」
それに、佐助が胸をなでおろすよりも先に。
「ならば、他の誰かに見せてもらう」
「ええっ!?」
納得しなかった幸村に佐助は衝撃を受けた。
幸村は唇を尖らせて視線を逸らす。
「俺とて、佐助のことは信じたい」
「えっ、嘘だろ。俺様があれだけ言っても駄目!?」
「だが病でないのならば、先ほどから何を動揺しておるのだ。俺に言えぬことがあるのだろう? 信じたくとも信じられぬ!」
「それは、だって」
佐助は再び混乱する。先ほどの比ではない。
失敗した。悔やむが遅い。見せろなどとあまりにも予想外で、しかも想像してしまって思わず動揺した。もっと冷静に対処するべきだった。
(いやらしく喘ぎながら出すことになるのでできません、とか)
多分そんな言葉で幸村は納得しない。というより、こうなったら幸村は滅多なことでは引かない。だから、つまり。
誰かに見せて貰うまで諦めないということで。
いずれ折れた誰かが幸村に見せるということだ。
例えば誰が。
想像しようとして、頭が拒否した。それくらいならまだ自分が。そう思いかけるがそれも打ち消す。
別にその程度、他の誰かに見せろと命じられればできるのだと思う。どうということもない。ただ、幸村だけは嫌だった。
佐助は生唾を飲みこんだ。
正直まずい。
冗談ではない。
洒落にならない。
だって自分が――幸村で、何度。
黙り込む佐助に、幸村が苛立たしげに息を吐いた。
「もう良い。誰ぞに頼む。さがれ」
「いや旦那それもまずいって!」
「ならば佐助が出してみせよ!」
結局のところそこに戻った。
佐助は未だ仄かなばかりの朝の気配の中で、強情な主に睨まれながら、究極の選択を迫られてだらだらと冷たい汗を流した。
2012.07.27 続くかも。続かないかも。