六: 戦場で名乗りを挙げる真田幸村

 明け方にひととき降り注いだ雨を含んで地面は色濃く、陽に炙られて、強い土の匂いと草の匂いが鼻を突く。山際には厚い入道雲が立ち上がり、その目映いばかりの白を裂いて、灰色の煙が晴天めがけてゆっくりと細い筋を描いていた。
 高木の枝を揺らして音もなく降り立った佐助は、するりと主の傍らへ進み出ると身を低くする。
「旦那、そろそろ来るよ」
 じっと前方を見据えていた幸村は、視線も動かさずに佐助の言葉にただ小さく頷いた。湿った地面に片膝を付き立てた槍の柄を握り、逸る心を抑えて静かに時を待っている。
 例えば、滑空する前の鷹。
 得物に襲いかからんと間合いをはかる野生の獣。
 そんなものを連想させる主の姿に佐助は静かに唇の端をあげ、自分もまた前方へ、今はまだ穏やかに青草が風になびくばかりの、開けた草地へと視線を向けた。
「ああ、それと」
 言葉を継いで、思い出したように報告を付け加える。
「伊達の忍が観戦に来てる」
 予想していた通り、先ほどまでの緊張をかなぐり捨てて、弾かれたように幸村が振り向いた。
「まことか!?」
「まことですよ? いやー竜の旦那、よっぽど真田の旦那が気になってるみたいねえ。一人だったし、乱入のために様子見してるって風でもないから放っておいたけど、何なら今からひとっぱしり行って」
「いや、構わん」
 やおら立ちあがった幸村は、深く息を吸うと片手の槍を体の前で軽く振り、その目が閉じられたと思うと同時、鈍い発火の音を連れて十字の槍の穂先を紅い焔が包み込んだ。そのあからさまな態度の変化に、佐助は声をあげてひとつ笑う。
「旦那ぁ。いくらお客さんが居るからってはりきりすぎじゃない?」
「わざわざこんな山中まで見物に来たのだ、期待には応えてやらねばならんだろう。……それに」
 言い差して、幸村の目が複雑な感情を湛えて細められた。
「政宗殿に知れるとあらば、無様は見せられぬ」
「ま、いいけどね。見料も寄こさない見物人よ?」
「そんなものはいずれ、身をもって払って貰えば良い」
「うわ、おっかねえ」
 笑い含みの佐助の声にかぶって、地に耳をつけていた兵卒が幸村を振り仰ぎ、来ます、と緊張した声が叫んだ。頷いて、幸村は手綱に手をかけると身軽に馬の鞍へと跨る。等間隔に並んだ柵の向こうに無数の小さな黒い点が現れ、間もなくして、色鮮やかな旗指物と人馬に変わる。
「真田隊の働き、目に焼き付けて、どうとでも報告すれば良いのだ。……行くぞ!」
 先陣をきって駆け出した栗毛の駿馬に続き、一度跳躍して体を伸ばした佐助と、忍隊とが身を低くして走り出す。鎧の音を立てながら歩兵の具足が地を蹴り、柵の内側できりと弓の引き絞られる音。その名乗りが敵と味方とに与える効果を充分に自覚して、馬上で朱槍を掲げた幸村が高らかに己の存在を示す。
「真田幸村、ここにあり!」
 前方から迫る蹄の音、足音、鼓舞と威嚇の雄叫び、それら全てを退けて、それ自体が熱を持っているかのような声が戦場の空気を震わせた。

2007.01.11