五: 縁側で寝てしまった真田幸村
足早に回廊を渡り角を曲がり、自室近くが見えたところで政宗はぴたりと足を止めた。
二、三度忙しなく瞬きし、目を細めると肩に手を当て凝った首をひとつ慣らす。急いで歩いてきたのだがその必要は今なくなった。一転して今度はゆったりと、足音を立てずに歩を進める。
暖かな日だ。冬の初めとは思えない日和。ここ数日のぐずついた天気が嘘のように、空は青く晴れ渡っている。
それでも季節はやはり冬で、いくら天気が良くとも空気は冬で、縁側で居眠りなどすれば体調を崩すに違いない。……普通は。
だが政宗の部屋の前、膝から下だけを縁側に垂らして横たわり、緩やかに胸を上下させているのは、普通の範疇から軽く飛び出ている男である。
真田幸村はどうにも病とは縁遠い印象だ。聞くところによると実際そうであるらしい。
冷気が肌を刺す真冬でも、見ている方が寒くなるような薄着で過ごして平然としている。寒さを感じないわけではないらしいのだが、寒さに震えているところなど見たこともない。手を触ってみればいつでも変わらず温かい。いや、熱い。
それにしてもよく寝ているもんだと呆れ心地に政宗は思う。
傍らに立った政宗の気配にも目を覚ます様子がない。
蹴り起こしてやろうかと頭に浮かぶがそれはせずに、政宗は、胴服を脱ぐと幸村の肩へとかけてやった。それが無意識にも障ったのだろう、眠る幸村の表情が険しくなり、身動いで背を丸めるとまた落ち着いた寝息をたて始めた。
室内から持ち出した煙草盆を傍らに、幸村の頭の側に腰掛ける。
足元に槍が置かれているのを見ると、政宗を待つあいだ生真面目に鍛錬をしていたものらしい。休憩を取っていたか、それとも飽いたかはわからないが、縁側に座っている間に日射しに誘われて眠ってしまったのだろう。
飽いたところで無理もない。急な来客があり随分待たせてしまっていた。成実でもいれば相手をさせていたのだが、あいにく遠方に使いに出ていて不在だった。
燻る煙管の煙ごしに庭の常緑樹の緑を眺め、散り落ちる紅葉を眺め、しばらくそうした後で政宗は幸村の髪に片手を置いた。
あちらこちらに跳ねる癖のある髪。差し入れた指にひなたの温もり。柔らかな感触は気に入っていて、近くにあれば触りたくなる。政宗殿は髪を触るのがお好きなのだなといつだか幸村に苦笑混じりに言われたことがあったが、政宗に自覚はなく誰の髪でも良いというわけでもなく、そんな風に感じている者は今のところただ一人だけだろう。
色の薄い髪は日射しを受けて、まるで所々質の良い金糸を混ぜているようにも見える。指に絡めて遊んだ髪が頬を掠め、幸村は逃げるように顔を振ると、掛けられた羽織をもぞもぞと胸元に手繰り寄せた。
そうして身体を丸めて眠る様は呆れるほどに無防備で、幼い。
表情は寝ているにしても締まりがなく、唇は半開きで、口の端から涎が筋を描いている。
「阿呆面だなァ……?」
言葉にして、政宗は吐息で笑った。
いっそのこと、その阿呆面の通りの人間であれば良かったのだと思う。そうすればこんな風に隣にいる事を許すこともなく、面倒もなかっただろうに、これがひとたび戦場に立てば燃えあがるような闘気を纏って見る者を惹きつけるのだから詐欺めいている。
そうして一度執着を抱いてしまえば、それを自覚してしまえば、阿呆面さえも良いものだと感じてしまうのが厄介だ。やかましく、ともすれば耳障りとすら感じた声も、今となっては何より耳に甘く心地良く響く。
髪に手を置いたまま日射しに目を眇めて、政宗はゆったりと煙を吐く。
庭のどこかで小鳥の囀る声がする。
紅葉する山々の上、遙か遠くの空高くを、悠々と風に乗る大きな鳥の姿を見る。何にも縛られず、国境もない空を思うままに飛ぶその身軽な様。生まれ変ったら鳥になりたいと、いつか考えたことを思い出した。
だが今はもう、そんな風には考えられない。
背に負ったものを重荷と感じることすらも、己を信じ、従う者達への裏切りとなる。それもある。
けれど何より、輪廻転生の後にもと求めるものを見つけてしまった。
だから鳥では駄目だ。
今はそう思う。
不自由でも、地を駆ける足が必要だ。風を掴む翼ではなく、得物持つ手が必要だ。名を呼ぶ声、言葉が必要だ。
鳥でなく、人。
人でなければ、この男と、刃を交えることはできないのだから。
鳥は、山の稜線に吸い込まれるようにして消えていく。その姿が見えなくなるまで眺め、煙を吐き出したところに、ふと幸村が吐息のような声を漏らした。
「……ま」
不明瞭な声。寝言だ。
ま、の後に続く言葉はと体を傾け耳をそばだてて、政宗は幾許かの期待と共に幸村の寝顔を眺める。
余程良い夢を見ているものか、もそりと身動いだ幸村の口元が笑みを形作る。唇が動く。
聞き取った寝言に、政宗の周囲の空気が凍った。
「おやかた……さま……」
「――――人が殊勝な考えに浸ってるってのにテメエはお館様かァァァ!!」
その直後。
幸村は突如襲いかかった冷気と落雷と衝撃に飛び起き、痛む脳天を押さえてわけもわからず目を白黒させ。
政宗は不機嫌ここに極まれりといった様子でぴりぴりと尖った空気を身に纏い、しばらくの間幸村に一言も口をきかなかった。
初:2006.12.13/改:2007.11.01