泣きたくなったら僕を呼んでね
大きないくさがあった。
まだ幸村が元服も済ませていない頃の事だ。丈にあわせて拵えた二槍がようやく手に馴染み、けれど初陣の話は遠く、紅蓮の鬼のその片鱗すら伺えなかった頃。
苛烈ないくさだった。名のある武将が数人討ち取られ、武田は一時的に戦力を大きく欠いた。
次々にもたらされる討ち死にの報せ。その中に、幸村の慕っていた武将の名を聞いて、本陣の守りについていた佐助はひくりと頬をひきつらせた。
信玄が殊のほか目にかけていたということを除いても、幸村は年かさの武将たちから好かれていた。
呆れるほどに裏表がなく真っ正直で、年齢以上に子供じみて見える無防備な様、誰とでも臆することなく接する生来の気性が好まれたのかもしれない。
その中でも一際幸村を可愛がり幸村もまたなついていた武将は、年の頃は四十近く。目尻に皺の刻まれる歳でありながら眼光は鷹のように鋭く、笑み崩れれば深い色を湛えて、思えば、どこが似ているというわけでもないのだが、幸村の父であり信玄の両目の如きと称された、亡き真田昌幸公を思い起こさせた。
意図的に足音を消さず、佐助は上田の城の庭を歩く。
探すまでもなく幸村は、自室近くの濡れ縁に腰をかけて、春先の、やわらかな緑を宿す庭の木々を眺めていた。
芽吹きの季節だというのに人は散る。
砂利を踏む足音に気づいた幸村が首を曲げて、丸い硝子細工のような目がまっすぐに佐助を見上げた。感情の色は伺えない。背にかかるまでに伸びてひとつに括られた後ろ髪が、動きに連れて肩を滑る。
「聞いたか」
何を、とは言わずに問われた言葉に、佐助は首を僅かに傾げる仕草で肯定の意を示す。
「はあ、まあ」
「立派な最期だったそうだな。刃を受けても崩れず、敵将と兵とを数名道連れにしたと聞いた」
「……そうですね」
再び庭へと視線を戻した幸村は、庭をはねていた小鳥が飛び立つのに気を引かれて、顔を仰向かせると高くへと舞い上がる鳥を追って空を仰いだ。
「俺もいずれ散る時には、あの方のような最期を迎えたいと思う」
隣に並んで腰を下ろし、佐助はあちらこちらに跳ねる癖のある幸村の髪を見下ろした。幸村の背丈は佐助の肩をわずかに超えたばかりで、並んで座ればつむじの位置すら確認できる。
「初陣もまだのくせに、何生意気言ってんの、旦那」
軽口を叩いてみせたが常のように打てば響くような反応はなく、空を見上げた幸村の視線は動かない。
散られちゃ困るんです。そのために俺みたいなのがいるんです、と、それは口に出さずに、佐助は幸村の頭を指先で軽く弾いた。
「……何をする」
唇を尖らせて振り向いた幸村の額を弾く。
「おい、佐助」
鼻を摘んで弾く。
「佐助、やめよ」
頬を掌で軽く叩く。
振り払おうと上げられた幸村の手をかわして、佐助は幸村の前髪の生え際へと指を差し入れた。髪を緩く掴んで後ろへと引き、力を緩めて頭を撫でる。年端の行かない子供にするように、髪を梳いて撫でつける。
目を眇めた幸村が、鋭く佐助を睨み付けた。
「俺は、もう子供ではないぞ」
「まあ、そうですね」
「何を勘違いしているのか知らんが、子供扱いはするな」
「ねえ旦那、頭、痛くない?」
唐突な問いかけに幸村の目が丸く開かれ、忙しく瞬いたかと思うと驚きを乗せて佐助を見上げる。
「……何故、わかるのだ」
「涙出さずに泣くとね、頭痛くなるんです」
丸い目は佐助からひたと視線を外さない。きゅ、と幸村の口元が引き結ばれた。
縁につかれていた腕に力が込められたのを、間近にある肩の動きで知る。
「俺は、泣かぬ。そう決めてある」
父親が討ち死にした時に、泣いて泣いて信玄を罵って、甘えるなと一喝されたのだと、その話は佐助も何度も聞いていた。幸村が信玄に傾倒するきっかけとなった出来事だ。
お館様のお役に立てるよう強くなるのだと、けれどどうすれば良いかわからないから泣かないことから始めるのだと、そう決めた幸村はその日から槍の鍛錬の時間を倍ほどにも増やしててのひらをまめで潰して、そうしてその日から佐助は、幸村の涙を見たことがない。
「涙が全部、甘えってわけじゃないと思うけどね」
「それでもだ」
決めたのだ、と呟く幸村の視線は揺るがずに強い。
我慢しているのだろうから泣かせてやろうという目論見を破られて佐助は苦笑し、それにつられたように、幸村の目がふと緩んだ。
「泣かぬ、が、佐助」
「はい?」
「少し肩を貸してくれ」
言うなり、幸村が佐助の肩へと額を預けてきた。
佐助の手は幸村の頭を撫でたままで、自然、腕に抱え込むような姿勢になる。
泣かないと言った言葉通り、触れた部分に涙の湿度は感じられず、ただ、時折ふるえるまぶたの動きだけが佐助の肩へと伝わってきた。
降り注ぐ日射しは柔らかく、淡い色の空には綿を千切って伸ばしたような雲が、誰かがふと漏らした溜息のように薄く儚げに浮かんでいる。
「お前が、」
ややあって、幸村がぽつりと呟いた。
「お前が泣きたくなったときは俺を呼べ」
幸村の手が、佐助の着物の腰のあたりを掴んだ。
首を傾げて幸村の顔を見ようとしたが、俯かれているせいでかなわない。
「……そりゃ、命令ですか?」
「そうだ」
命ずる声音で言ったかと思えば、密かに笑う気配がして、その態度が先ほどの言葉を否定する。
「ってもねえ……。俺様も、そう簡単には泣きませんけど」
「簡単に泣けとは言っておらぬ。佐助とて、泣きたくなることくらいあるだろう」
「旦那やお館様に無理難題言われた時とか?」
「そういう時に呼ばれるのは困る」
息だけで笑った幸村は、佐助の肩に甘えの仕草で頭を擦りつけた。
「佐助が泣きたくなったら、俺がお前を撫でてやる。だから呼べ」
「あーあ、嫌な主君についちゃったもんだ。泣く場所まで指定されるなんてさ」
茶化すように混ぜ返してやれば、命令とでも言わなければ佐助は俺を頼ったりしないだろう? と、どこか楽しげに幸村が答えた。
地に伏した顎を刀の背に掬い上げられ上向かされて、鋭く研がれた切っ先が喉元の柔らかな皮膚をぷつりと破った。見下ろしてくる隻眼を怨嗟の念を込めて睨み上げれば、ふいと興味を失ったかのように刃が退かれた。身を返す動きにつれて蒼い陣羽織が翻り、鮮やかな残像を残す。
見逃した。見逃された。せいぜい頑張って生き延びろと、その言葉の通りにしたものだろうか。
何の気まぐれかは知らないが、それがいずれ命取りになる。
雑木の林へと身を隠し、祈るように念じるようにそう考えながら、止血をして包帯を巻き薬を塗り、けれど腰を下ろしてしまえばもう立ちあがることもできなかった。独眼竜の猛攻を受けて襤褸布のようになった体は言うことをきかず、痛みを感じにくくする丸薬を噛み砕いて飲み干して、途切れがちになる意識を気付けの薬で覚まし、無理にも立てるようになったのはしばらくの時間が経ってからのこと。
鉛のような体を引きずって、佐助はいくさ場へと足を踏み出した。
そこは既に戦場跡と言った方が相応しい様子で、軍馬の蹄の音も具足の足音もなく、退却を報せる法螺貝の響きも聞こえない。瀕死の兵が低く呻く声が時折耳に届くのみ。
勝ったのか、負けたのか。幸村の率いる別働隊はどうなったのか。
動けずにいる間に、焦りばかりが泥のように心に重く積もっている。
敷き詰められた枯葉を踏む音を消すこともできないまま、辺りに気を配りながら歩を進めて、武田本陣の門が見えたところで佐助は一度足を止めた。
周囲は闇に沈んで、頼りは月明かりばかりの視界に、落ち葉を敷物にして倒れる赤と、白と浅葱の色彩。
唇が乾いて貼りつく。喉が渇いて、大将、と呟いた言葉は声にならない。
酷く嫌な予感――確信と言って良いそれに身震いしながら更に奥を目指し、佐助の全身の血が凍った。
盛り上げられた土と、その上に突き立てられた三叉の槍。
よろけるように歩み寄って、槍の前に膝を付く。
一度掘って埋め直したことが明らかな、真新しい土の表面へと、両手を這わせて撫でた。手当をした時に邪魔な手甲は外してしまっていた。素手の掌に、やわらかな土をじかに感じる。
誰が、とは考えるまでもないことだ。興味を失ったと言いたげに逸らされた隻眼が、求めていたのはただ一人。理解し難い執着で、武田と上杉との戦に乱入し、双方の総大将すら道すがらの邪魔な石のように排除して首も獲らずに放置して。
血の気を失った指先はひどく冷えている。
木槌で殴られてでもいるかのように頭が痛む。
「……嘘だろ、旦那」
泣きたくなったときは自分を呼べと。
そんな事を言っておいて。
「呼んでも、来られないじゃん、あんた」
呟けば、笑いがこみ上げてきた。発作のように笑って、佐助は土を掻いて手を握りしめる。
消えてしまった。守るべきもの守りたいもの、全部、失くなってしまった。
すまねえ、と、嗄れた喉の奥から絞り出した声が秋口の空気に攫われて消える。
地面を掻いた指が痛む。爪と皮膚の僅かな隙間に容赦なく入り込む土のざらついた感触。
縋れるものはもう土しかない。
2006.09.03