秘めて隠して、押し殺して
ぐい、と目の前に赤い布を突き出されて、佐助の思考はひととき停止した。
正面に立つ年若い主の眉間には深く深く皺が寄っていて、そこから眉は吊り上がり口元は曲げて引き結ばれ、顔は怒りをのせて紅潮している。その顔に、何かが足りないと思えば鉢巻だ。赤備えを着けた時には必ず巻き結ばれている赤い鉢巻は、今は幸村の手の中にあって佐助へと差し出されている。
掌の幅ほどの長さに折りたたまれたそれは、見れば水に濡れているようだった。指先でつまんで目の高さに持ち上げて、佐助は器用に片方の眉尻を下げてみせる。
「……洗えばいいんですか、それとも繕えばいいんですか」
「違う! 冷やせと言っておるのだ!」
びりびりと鼓膜に突き刺さる主の声を顔を背けてやり過ごし、ああなるほど、と漏らして佐助は、熱を持って痛みを訴える左の頬を手で撫でた。
前田家の風来坊――前田慶次が、唐突に上田の城に現れて、脈絡もなく喧嘩を仕掛けてきたのはつい一刻ほど前のこと。
戦ではなく喧嘩。そんな事態は幸村が城を預かるようになってから初めてのことで、幸村だけでなくその主君である武田信玄でも経験したことがないだろう。
目的は掴めず殺気も感じられず、本当にただ喧嘩がしたいだけのようだったが、六尺を超えるかという体格とそれに見合った怪力で、鞘から抜かれることのなかった得物は軽々と振り回せるのが信じられないほどの長物だ。
詰めていた兵が慌てて取り押さえようとしたが到底叶わず、上田城の兵力ほぼ総動員、挙げ句に佐助まで駆り出されて、首尾良く得物を弾き飛ばしたまでは良かったのだが、その直後に素手で殴られた。主君とその主のおかげで殴り合いは見慣れている佐助だが、刃物で斬り付けられるのでなく素手で殴られるなど久し振りのこと。まさかそう来るとは思わず、不意を突かれてろくに受け身を取る余裕もなく、無様に拳を受ける羽目となった。
慶次はといえば佐助を相手にしてようやく暴れ足りたらしく、怯える店主に頓着せずにそこらの蕎麦屋に腰を下ろし、見張りについた佐助を話し相手にしながら五、六人前の蕎麦を平らげるや、稀に見る剣幕で城から飛び出してきた幸村を軽くいなして去っていった。
城下はまさに嵐が過ぎたような有様で、水路脇の欄干は壊されるわ門扉は裂けるわ、負傷した兵がそこここで手当を受けていたり、気絶して道ばたに伸びていたりする。
そして、同じく負傷をした佐助へと主直々に与えられたのは、軟膏でも水嚢でもなく濡れ鉢巻である。
「あのー、旦那、手拭いとかなかったんですか」
「なかったのだから仕方がないだろう。いいから冷やせ!」
「はあ、ありがたく……」
濡れた鉢巻を左頬にあてて、佐助は慌ただしく立ち働く町人を堀の向こうに眺めながら石段へと座り込んだ。
騒ぎから逃れようと一時的に畳まれていた店は再び開けられ、軒先に商品を並べている。どこぞに避難していた行商人が戻ってきて、大きな風呂敷包みを広げて売り声を上げはじめた。作事の男たちは呼びに遣っているから、壊れた橋やら門やらの修理も間もなくして始まるはずだ。
「あの男……今度現れたらただでは済まさぬ」
怒気を含んだ声を苛々と吐き出して、幸村が佐助の傍らへと腰を下ろした。
「そんな怒ることないんじゃない? 兵はやられたけどせいぜいが打撲だし、蕎麦屋の代金も払って行ったし」
「何を言っておるのだ! おぬし、殴られて悔しくはないのかッ!?」
「ちょっと旦那、唾とばさないでよ」
「これが怒らずにいられるか! 佐助を殴って行ったのだぞ、佐助を……!」
行き場を失った怒りを発散しようとしてか、立てた槍の柄をがつがつと石段に叩き付け、顔を俯かせて幸村は唸る。
目を僅かに見開いて、佐助は鉢巻をおさえている手の指で、耳の下を軽く掻いた。
「まあ、抑えて抑えて。気晴らしに蕎麦でも食います?」
「いらぬ」
「んじゃ甘味でも」
「……いらぬ!」
「じゃあ、これ」
言って、佐助は忍装束の下に手を潜らせると小さな紙の包みを取り出して、幸村の膝へと放り投げた。小石ほどの大きさの何かを包んで依られたそれを開けば、出てきたのは数粒の金平糖で、幸村は目を丸くする。
「どうした、珍しいものを持っているな」
「さっき貰ったの。前田の風来坊に。殴ったお詫びだとか言ってたけど」
広げた薄紙の中央に鎮座している淡い桃色の菓子を眺め、片頬をおさえたままの佐助を眺め、幸村は口元を曲げて紙を依り直すと佐助の膝へと押しつけた。
「……詫びるくらいならば、殴らなければ良いのだ」
「まあごもっとも。って、いらないの?」
「佐助が食べてやらねば詫びにならん」
相変わらず唇を尖らせたままの幸村は、それでも怒りがおさまってきた様子で、ひとつ息を漏らすと肩に立てかけた槍の位置を直して佐助を振り向いた。
「それにしても知らなかったぞ。佐助に思い人がおったとは」
唐突に向けられた言葉の内容に佐助は思わず頬から手を浮かせ、鉢巻を落としかけて慌ててそれを押さえ直した。
「はい? いきなり何言ってんの、旦那」
「さっき話していただろう、前田の、慶次殿と」
蕎麦屋でのことだ。もの凄い勢いで蕎麦を平らげていく大男を呆れ混じりに監視しながら、叔父がどうの恋がどうのと呑気に話す慶次に佐助が言われたのだった。
―― 忍は恋の一つもできなくて大変だろ。
―― そうでもないぜ?
その直後に大変な剣幕の幸村が飛び込んで来たため、二人の会話はそこで強制的に終了となり、逃げる慶次を追いかけようとする幸村を止めるための騒ぎがあって、当の佐助も今の今まで忘れていた。
「旦那も人が悪いなあ。盗み聞きは行儀悪いよ?」
「どのような女人だ?」
混ぜ返しを気にも留めず、佐助を覗き込む幸村はすっかり主の表情だ。佐助はいちど天を仰いで、改めて幸村へと向き直ると諦めを混じらせたしかつめ顔で切り出した。
「知りたいの?」
「うむ。めおとになるのならば祝い金を出すぞ」
「ああ、そう……。んじゃ教えるから、想像してくださいね」
「わかった。佐助の見初めた相手ならば、素晴らしい女人なのであろうな」
期待に満ちた視線で言葉を待つ幸村へと、佐助は指をひとつ立てた。
「まず、色が白い」
幸村が頷く。佐助は更にひとつ指を立てる。
「乳がでかくて」
「ち……!」
「具体的にはこれくらいね」
「手振りまでつけずとも良い! 破廉恥な……!」
「あーはいはい。それより教えてるんだから、ちゃんと想像してくださいよ?」
「う……うむ」
顔を赤らめて、幸村は律儀に頷く。
「それから腰が細くて」
「…………」
「尻がでかくて」
徐々に赤みを増して耳まで赤い幸村を眺めて、佐助の口元がちらと笑う。
「うなじが綺麗で、目元が涼しげで声が良くて器量のいい女――――なら、是非とも嫁に欲しいとこですがね」
苦いものを噛んだような表情で、幸村が押し黙った。
佐助は目を細めて涼しい顔で幸村を眺めている。
「佐助」
「はい?」
「主をからかうなッ!」
腰を浮かせた幸村に、佐助は軽い跳躍で後ろへと逃げると人の悪い笑みを浮かべた。
「俺様“そうでもない”って言っただけで、別にいるとは言ってないし」
「ならばそう言えば良いではないか!」
「それじゃつまらないでしょー? 俺様はね、旦那と大将のお世話だけで手一杯ですよ、っと」
言葉が出ない様子の幸村にひとつ笑うと佐助は城へ向かって歩き出し、後ろ手に幸村の鉢巻を振ってみせる。
「帰りましょ。これ、洗って返しますから」
「……わかった」
槍を二本まとめて片手に持つと、幸村は佐助の背中を睨み付けながら立ちあがる。
数歩歩いたところで佐助が何かを思いだした様子で立ち止まり、振り向きざまに幸村めがけて、先程の金平糖の包みを高く放り投げた。
「からかったお詫び」
幸村は不満そうにしながらも最早突き返す理由もなく、金平糖をひとつぶ取り出すと口の中に放り入れ、歯の下で噛み砕いた。
信玄からの使いが文を携えて現れたのは、西の空が茜色に染まり始めた時刻のことだった。
急遽信玄のもとへと登城することになった幸村は、馬の支度を命じて、一度脱いだ赤備えを着け直し、鉢巻を探そうとしたところで佐助に預けてあったのだと思い出した。
忍隊は城下に長屋を与えられ町人に紛れて暮らしているが、佐助だけは主に幸村の都合で、城の片隅にある小屋を与えられてそこに住んでいる。忍隊が頻繁に出入りし、幸村もよく転がり込む場所だ。夕刻であれば佐助は用事がない限りそこで武器の手入れをしているか、薬でも作っているはずで、例え佐助がいなくとも鉢巻はその小屋で干している筈だ。人を遣るよりは自分で行った方が気安く早い。
幸村は急ぎ足で佐助の住む小屋へと向かい、目隠しの竹垣の隙間から部屋の障子が見えたところで、丁度佐助が室内から顔を出した。軒に下げてあった鉢巻を取り込みに出たものらしく、水気が飛んでいることを確認するとするりと手に納める。
佐助、と名を呼ぼうとして、幸村は思いとどまった。
この距離で、佐助が人の気配に気づかないのは珍しいことだった。いつもならば聡く幸村を見つける佐助は、今は手に提げた鉢巻を眺め、考え事でもしている様子だ。
ちょっとした悪戯心がわいて、幸村は足音を忍ばせると先ほどまでとはうってかわって慎重に歩を進めた。
足音を消す方法も、気配を隠すすべも、幼い時分に真田の家に仕える忍達から、遊びの延長のように学んだものだ。修練を積んだ忍のようにはいかないものの、佐助にも、余程聡い相手でなければ勘づかれないだろうとのお墨付きを貰っている。
突然声をかけて驚かせてやろうと抜き足差し足で垣根へと近づき、白い横顔の表情が伺えるまでに距離が縮まったところで、幸村の足が止まった。意図的に止めたのでなく、その場に縫い止められたかのように動けなくなった。
悪戯を仕掛ける子供のような顔から、すうと表情が抜け落ちる。
西日が視界をほの朱く染めて、元から赤みがかった佐助の髪はまるで金糸のように一日の終わりの光を弾いていた。その下で、細い赤い布を眺める佐助の、どこか痛みを堪えるかのようにじっと動かない目の色がひどく昏く、重い。
初めて見る顔だった。
見知らぬ人物のようだった。
わけもわからず後退りしたいような居たたまれなさが、幸村の腹の底から湧いて指の先までを駆けて支配する。病のように心臓がひとつ跳ねた。
ふ、と息を落として佐助の足が室内へと返される。
それを見届けて、気づかれないよう祈りながら、幸村は足音を忍ばせたまま逃げるようにその場を離れた。
見てはいけないものを見てしまったのだと、そんな気がしていた。隠されていた何かを覗いた。
小屋からじゅうぶんに離れたところで、堪えられずに走り出した幸村の影が掃き清められた地面に長く伸び、それに追われるようにして駆けながら。
―― 知りたいの?
なぜだか昼間に聞いた、呆れ混じりの佐助の声が耳の奥に蘇った。
2006.09.07