傍にいるだけで満足できたら

「旦那、すまねえ」
 片膝を地に付き佐助は深く頭を垂れた。
 伊達軍が撤退したばかりの城の庭だ。撤退といってもまだ敷地の外に出たというだけのことで、少し離れた場所に留まり出立に備えて人や物資の確認やらを行なっている。移動が始まるまでにはいましばらく時間がかかるだろう。
 突然の忍の行動に、幸村が驚いて目を瞠った。
「さ、佐助? なぜ謝るのだ」
「賊の侵入に気づかなかった。本当にすまねえ」
 佐助の背後には数人の忍が従い、佐助と同じように膝を付いて頭を垂れる。皆、戦忍に出ることなく城の警備にあたっていた者たちだ。
「そのことか……。ならば、俺は無事だったのだからもう良い。佐助も、皆も顔を上げよ」
「いいわけねえだろ。あれは忍隊の責任で、俺様の責任だ」
「だが」
「示しつけてくれって言ってんだよ、旦那」
 佐助の背後に居並ぶのは、まだ年若く戦に出すには早い者、逆に年嵩で一線を退いた者。前者は目も耳も鋭く、後者は経験からあらゆる可能性を弾き出し、そうして奇襲や乱入などの可能性に備え目を光らせていた。
 その忍たちの目を掻い潜り、幸村と伊達政宗の一騎打ちの隙をついた賊。
 その凶刃が、狙っていたのは幸村ではなく政宗だった。
 けれどそれは今になって言えることで、だから問題がないというのは結果論だ。
 その刃が幸村に向けられていたとしても何の不思議もなく、もしそうであれば、幸村はおそらく無事では済まなかった。そんな事態を招いたのは忍隊の落ち度だ。そしてこれほどの手落ちであれば長である佐助が責を負うのは当然のこと。
 ――などと、しかつめらしい理由を並べ立てるまでもなく、佐助自身がはらわたが焦れるほどに悔いていた。
 賊を事前に察知することができず幸村へと近づけた。血の気のひいた指先がまだ冷たい。謝らなければならなかったし、叱責のひとつ処分のひとつでも貰わなければ気が済まない。
 考えながら頭を下げ続ける佐助の前で、黙り込んだ幸村の、具足が僅かに土を摺った。
 そして。
「――――!?」
 がつ、と、佐助の脳天に衝撃が来た。
 逆手に持ち直し振り下ろされた槍の柄が、佐助の頭蓋とぶつかって重い音を立てた。勢い、額を地に擦りつけんばかりになっていた佐助は額当てごと頭を地面に打ち付けた。
 低頭する忍たちは驚いて長の様子を盗み見る。
 よし、と満足げにひとつ頷いて、幸村が槍を退いた。
「いっ……てえ……!」
「痛いか? 痛いのだな。ならばこれで始末と致す!」
「……は?」
 佐助は涙目になりながら顔を上げて幸村を見る。
「俺の不注意でもあるのだ、瘤一つ分が妥当だろう」
「妥当って……あのなあ旦那」
「減俸だの処分だの、俺にはまだ加減がわからぬ。小難しいことはいずれ覚える。今回は今ので帳消しだ。それとも」
 言葉を切って、幸村は頭を垂れる忍たちを眺め見た。
「処分がなくば、真田忍隊は俺を侮るか?」
 あり得ない、と言外に、響きに乗せて幸村は言う。
「……ま、そりゃないけどさ」
 佐助や一部の例外はあるが、真田忍はその名の通り真田に使える忍たちだ。子を成しては忍に育て、真田家代々の当主に仕える。もっとも、それを除いても真田忍は皆幸村に心酔していた。この忍にも心安い、末を思えば心躍るような若い主に。
「だろう? だからもう良い。顔を上げよ。下がって、家族に無事を報せて参れ」
 佐助は困った様子で首の後ろを掻くと、背後の部下へと二言三言指示を出す。忍たちはそれぞれ短く深く幸村に詫びて、指示のとおりに四散した。
「っあー……ほんと痛えよ旦那ぁ」
「示しをつけろと言ったのはおぬしだぞ」
「そりゃそうですけど、俺様が言ってたのはこういうのじゃなくて、あーもう」
 後頭部をさすりながらその場に立ち上がって体を伸ばし、佐助は幸村の全身をざっと視線で確かめる。
「怪我、ないよな?」
「ああ。佐助はどうだ?」
「俺様は平気」
「まことか?」
「ちょ、ほんとですって、なに服めくってんの!」
「佐助は信用がならぬのだ!」
「ええっ、主に信用されてない忍頭ってどうよ!?」
 騒ぎながら幸村は佐助の体をひとしきり検分して、されるがままに額当てを外されたり襟を引っ張られたりしながら、佐助は何気なさを装って口を開いた。
「なあ、やっぱ俺様も旦那の後ろ、守ってた方がいいんじゃない?」
 言えば、篭手を外そうとしていた幸村が佐助を見て目を丸くした。
 つい最近まで、佐助の持ち場は幸村の傍らだった。まだ戦慣れしていない年若い主を危険から守り、傍らに離れず付き従って補佐するのが佐助の役目だった。
 だというのに、信玄の策の中で、幸村と佐助とは別個の戦力として数えられるようになった。幸村が他国の兵から、畏れをもって虎の若子と称されるようになる、ほんの少し前のことだ。
「何だ、おぬしまだ納得していなかったのか」
「だーって、ねえ?」
 それは幸村の槍働きと統率力とが認められた証であり、喜ばしいことではあるのだが、本心では信玄に直接異議を申し立てたいほどに不満だった。幸村が信玄に倣い、自分と佐助を切り離した戦力と考えるようになったことも。
 信玄を覆すことなど出来はしないが、せめて幸村が采配を振るう時くらいは側に在りたい。
 本音を言うならばいくさ場にあるときは常に。
 幸村の腕を侮るつもりは微塵もない。戦闘能力では幸村は既に佐助を超えている。ともすれば過信しそうになるほどに佐助は幸村の力を認めているが、それでも今回のように、自分がいればと後悔するようなそんな思いはしたくなかった。
「ほら、あの独眼竜だって厳ついの連れてることだし、釣り合い取れないでしょ」
「駄目だ」
 けれど幸村の返事は簡潔で、佐助は落胆を、それが本心からのものとは伺わせないよう呆れへとすり替えて肩を竦める。
「全く、旦那も頑固だねえ」
「すまぬ。だが俺は強くないのだ」
「何それ。理由になってないじゃない」
「なっておるぞ。俺は未熟ゆえ、今日のように一人で居ても視野狭窄になる。後ろに佐助がいると思えば余計に甘えが生じるだろう。だから、駄目だ」
 佐助は目を瞬かせて、篭手の取り外しに躍起になっている幸村を見た。
「そういうことね……」
 本当に頑固なことで、とぼやく佐助に幸村が笑う。そうしてふと、遠くに複数の馬のいななきを聞いて二人揃って門の外へと視線を向けた。
 伊達軍の撤退だ。その姿は見えないが、大勢による声がどうと空気を揺るがした。
 片倉はあの傷で馬の振動に耐えられるのだろうか。考えながら、佐助は幸村の顔を盗み見る。音のする方へとひたと視線を向けている。ひとつの名前のつけられない、これまでに見たことがないような、複雑に感情の入り混じった横顔。
『あんた、真田の旦那にこだわりすぎだよ』
 揶揄を装って伊達に向けた言葉は、そのまま幸村にも当て嵌まる。ただ一度戦場でまみえただけの相手に向ける執着とも思えない。佐助の理解の及ばない部分で二人は互いにこだわりを抱き、理解出来ないが故に佐助の心に焦りと闇とを生じさせる。
 酷く嫌な予感がする。
 幸村を奪われるようなそんな予感。
 奪われると言ったところで自分は血の一滴や髪の一筋に至るまで幸村のものだが、幸村は佐助のものではありはしない、それでも、これまで幸村にとって全てであった信玄に向けるものとも異なる、あの激しい執着を思えば目の前が赤く染まるような心地がする。
 だからその執着が変質する前に、早く。不安に思うような最悪の形でないうちに。
 佐助は遠くを眺める幸村の腕を、指先で軽くつついて気を引いた。
「これは、こう」
 言うと同時、幸村が苦戦していた篭手をあっさりと外して落としてみせる。
「何!? どうやったのだ!?」
「こつがあるんだよ。こっちのここ、そう、そこ押さえて」
「取れた! 良くできておるのだな!」
 もう片腕の篭手を幸村の手で外させてみれば、幸村は大袈裟なまでに驚いて喜んだ。
 その未だ幼さを残す顔へと、佐助は目を細めて笑いかける。
「ま、ごたごたなんか早いとこ片付けて貰ってさ、決着がつけられるといいよねえ」
 そうして。
 信玄のためにとただそれだけを考えて進んできた幸村の心に踏み入り波風を立てる。側にいるだけで満足だと、騙した心を嘲笑うかのように乱していくあの男など。
 炎に焼かれて無様にのたうち跡形もなく消えてしまえば良い。
「……うむ」
 幸村は佐助と目を合わせ、頬を緩めてひとつ深く頷いた。

2012.07.20