あんな表情、知らない

「政宗殿!」
 気が付いた時には呼び止めていた。考えるより先に零れた言葉に、それが自分のものだと気が付いたのは一拍の後だった。
 しまった、と思った時には、門扉で足を止めた政宗が体半分で振り向いていた。鷹揚に傾げた首の動きだけで言葉の続きを促される。その政宗に肩を貸された姿勢で、政宗を庇って負傷した男が、同じように幸村を振り向いた。その刃のような視線に、幸村の体に緊張が走る。
 こじゅうろう、と、呼んでいたか。小十郎。片倉、小十郎景綱。
 その名は耳にしたことがあった。政宗の近侍。政宗の信頼厚く、伊達軍きっての軍師でありながら、剣の腕もたち生半可な武将には劣らないと、知識としては頭に入っているが姿を見たのはこれが初めてだ。
 幸村と政宗の一騎打ちの、不意を突いた刺客の剣は鋭く、速かった。互いの動きばかりに集中して他への警戒を疎かにしていたことは恥じるべき不覚だ。狙われたのが幸村ならば、あの一撃で命を落としていた可能性も高い。考えれば冷たい汗が背筋を伝う。
 あの間合いに奇跡的に割って入り、体を賭して主君を庇った男は、受け身を取る余裕のあるはずもなく無防備に剣を受けて、しばらくの間立てずにいた。肋が数本イカれているかもしれない、とは政宗の見立てだ。
 そう呟いた政宗の声の、これまで耳にしたことのない響き。
 苦渋を乗せた、酷く胸の痛む声。
「Hey, 呼び止めておいてだんまりか? 真田幸村」
 呆れを含んだ声をかけられ、幸村ははたと我に返った。茫と考え込んでいたことへの恥ずかしさに、顔に血がのぼる。
「その、……先ほどの、言葉」
 何を言うつもりだったのか。
 呼び止めて、自分が彼に、何を言えるというのか。
 わからないが正気に返れば言いたいことは一つで、口にできる言葉は限られている。
「――違えられるな」
 考えた末にそう告げた。
 無事で、などと言える筈もない間柄だが、必ずや無事で、そして自分との決着を。
 いちど口元をひき結んで、幸村は視線と腹とに力を込めた。
「決して違えられるな! この勝負、そう長くは預からぬ!」
 強く発せられた声に、政宗が兜の下の目に驚きを浮かべる。
 次の瞬間、幸村は思わず息を詰めた。
 幸村の言葉の意味を正確に読みとったのだろう。政宗が、笑った。何の含みもない笑い方で破顔した。それだけのことで、幸村の胸の奥にじわりと温かさが広がる。
「上等だ。……待ってろ、すぐに戻る」
 自信に満ちた言葉に幸村は口の端を上げて頷き、政宗は、支えた手で片倉の背中を促すように優しく叩くと、伊達の主従はゆっくりと門前の階を降りて行った。伝令兵を使って、休戦の報せは既に両軍に通達してある。遠くから政宗の部下が数人、まろぶようにして、負傷した片倉へと駆け寄って来る。片倉に手を貸そうとするのを、政宗が腕の一振りで拒んだ。
 幸村の口元からゆっくりと笑みが消える。温かなものに満たされた胸の奥が、急激に冷えた。もう一度呼び止めたい衝動に駆られたが、今度は耐えることができた。
 そうして気づく。
 我知らず名を呼んだ、得体の知れない衝動。ただ政宗の注意を、自分へと引き戻したかった。剣を交えている時のように、自分だけを見て欲しかった。
 これは何だと、口の中で呟いた。
 弾き飛ばされ倒れた片倉の傍らに、膝をついた政宗の、世界の終わりの淵を覗いたかのように色を失った顔。
 あんな表情は見たことがなかった。
 これまでに政宗の部下を斬りつけた時も、政宗自身に槍を叩き込み膝を付かせた時でさえ。
「政宗、殿……」
 鼓動が速い。落ち着かない。眼球の奥が熱い。腹の底に火種が落ちて、胃の腑が焼けてでもいるかのようだ。
 握った拳に食い込んだ爪が、手甲ごしに鈍い痛みを訴える。
 ひどく、心がざわついた。

2006.08.23