四月馬鹿

《伊達主従の三月の終わり》

「よう小十郎、ちっと提案があるんだけどよ」
 調べ物の手を止め、顔を上げた小十郎の目の前に、一枚の紙が差し出された。
 床の上に広げた何枚もの地図と、紐で綴じられた資料の束。文机に向かって座る政宗から、それらの距離を身を乗り出して越えて示された書状。まだ墨も乾いていない、今さっきまで政宗が、難しい顔で筆を走らせしたためたばかりの書状だ。
 書き終えて念のために確認をと言うのならばわかるのだが、提案を出されるような案件があっただろうか。首を傾げながら文面に目を走らせて、やがて小十郎は眉根を寄せると、すうと目を細めて政宗を見た。
「……政宗様」
「おう」
 真っ直ぐに見た政宗の目に、いっそ小十郎をからかってやろうという意図が見えればまだましだったのかもしれない。何の悪気もない政宗の表情に、小十郎は手にした書状を握りつぶしたい衝動を手首のあたりでどうにか殺す。
「この小十郎、政宗様が、真面目に、政務を、こなしておられるものとばかり」
「あァ? こなしてただろ。見えねえとでも言うつもりか? この紙の山がこんだけこっちに」
「では、この書状は」
「そんなもんちょっとした息抜きじゃねえか。その程度で青筋立ててると禿げるぜ、小十郎」
 うるさそうに手を振った政宗は、で、どうよ? とごく真面目な表情で小十郎の様子を伺ってくる。
「…………どう、と申されましても」
 それが正直な感想だった。書状は読んだ。内容も理解した。だが他に言葉が見つからない。
「あァ、だから」
「それよりも政宗様、提案というのは?」
「だから、つまり、賭けねえか? って話だ」
 政宗の指先が、書状の端を弾いて紙のたわむ音を立てる。伺う視線が小十郎と書状とを交互に見て、悪戯を仕掛ける子どもの顔で口元が笑んだ。
「それ読んで、真田の野郎が来るかどうか」
 小十郎は視線を彷徨わせ、もう一度改めて文面に目を通し、心の底から疲れ切って深く深く溜息を落とした。

 世にも稀なと評される、小十郎の主独特の流れるような美しい筆跡。
 その達筆にそぐわないごく砕けた文体で書かれているのは、異国の行事、『えいぷりるふうる』についての解説だ。
 四月の一日には人をからかう目的で、他愛のない嘘をついても良いという異国の風習。おかげで城内では、四月の一日には政宗の言動に細心の注意を払わなければならなくなったという、家臣にとっては迷惑極まりない悪習でもある。
 政宗がこの風習を取り入れてすぐの頃は、皆揃ってものの見事に騙された。慣れてくれば、その日に政宗が口にする全ての言葉を疑うようになった。片っ端から疑われてめんどくせえ、との政宗の愚痴は、まるきり自業自得というものである。
 それはさておき、文には『えいぷりるふうる』についての基本的な説明のほか、伝え聞いた起源、政宗の解釈が書かれており、そして最後に追伸のように付け足された一言。

『先達て子が生まれた。一度見に来い。アンタに似てると言えなくもねえ』

「……どこに、賭の要素が?」
「どこって、真田が来るかどうかっつっただろうが」
「全く賭けになりませんな」
 抑揚なく言って、小十郎は、ようやく墨が乾きかけた文を室の隅へと滑らせた。
 確かに、『えいぷりるふうる』の説明は文の大半を占めている。一般的な感性の持ち主ならば、『えいぷりるふうる』の嘘だと受け取り笑って文を畳むだろう。
 それでも、真田幸村ならば来る。それはもう間違いない。真田幸村をよく知る者であれば、十人中十人が同意する筈だ。
「ノリ悪ぃぞ、小十郎」
「乗りたくなるような賭けであれば喜んで」
 息抜きの相手はこれで終わりだとばかりに、小十郎は紐綴じの書を捲り、調べ物を再開する。
 つまんねえ、と不満げに舌打ちした政宗は、唇を尖らせると胡座の脚の上に目を移した。
 政宗の紺の袴の脚の間には、柔らかな布が数枚重ねて敷かれている。その皺の寄った布の中には、政宗の言う「生まれた子」がおさまっていた。
 短い眠りから覚めて手探りでもぞもぞと身動ぐ小さな犬の仔が一匹。家人の気付かぬ間に、縁の下で産み落とされていた小犬だった。母犬と兄弟犬も数匹居るが、政宗がその一匹を部屋に上げて構っている間に庭のどこかに見えなくなった。ここ数日の様子からすると、夕刻になればまた揃って戻って来るのだろう。
 政宗が気に入ったその仔犬は、確かに、他の兄弟犬よりもやや色の濃い焦茶の毛並が真田幸村に似ていなくもない。
「人も犬も、ガキのうちは可愛いもんだな」
 小犬の顎と肩の間に指を差し入れて毛並みを擽り、腹を撫でて、政宗は隻眼を優しく細める。小十郎は気もそぞろな主を余所に、頭の八割で調べ物をしながら、残りの二割で雑談の相手を務める。
「そうですな。梵天丸様もそれはお可愛らしゅうございました」
「Ha, 当然だろ。真田のガキの頃もそれなりに可愛かったみてえだが、出所が忍の無駄口ってあたり信憑性は薄いな。ま、野郎は今でも可愛いのうちに入るけどよ。背丈と顔と、あと黙ってる時って条件が付くな。やかましいのはありゃ多分昔っからの」
「政宗様」
「ん? ああ、悪ィ。息抜きが過ぎたか。おい、お前どうすんだ? 寝飽きただろ、外出るか?」
 後の言葉は膝の上の犬に向けられたものだ。
 小犬を抱き上げて構う政宗の手を、視界の端に見るともなく映しながら、小十郎は古びた紙の束を丁寧に捲る。滅多にないほど柔らかな主の目は、仔犬を見ながらそこに何を見ているものか。お前、と今は呼びかけているが、このまま居付けば誰ぞにちなんだ名をつけられるのは時間の問題だと思われた。首に下げる六文もどきでも作りかねない。
「来い、と文を送っては如何ですか」
 茶の毛並みを、撫でる政宗の手が止まった。
「行事にかこつけて回りくどい事をなさらずとも、偶に素直な様など見せれば真田も喜ぶかと」
 ふいに風が吹いてぱらぱらと浮き上がった書の端を、小十郎は手で押さえて、そこらに転がっていた文鎮を拾って上に置いた。
 政宗からの返事はなく、妙な空気を連れて室内に沈黙が満ちる。
「犬」
 言うと同時に、政宗が立ちあがった。
「外に出してくる」
「は」
 磨かれた床板を軋ませて、妙な所に羞恥心がある小十郎の主は、縁に出る間際の敷居のあるかないかの段差に動揺のあまり足を取られて躓いた。


《真田主従の四月一日》

「いや、あのさ、旦那これ絶対嘘だって」
 伊達政宗からの文を受け取って読み終えるなり、馬を引け、いや鳥だ、凧の方が早いなら凧にせよ飛ばせ今すぐ飛ばせと騒ぎ出した幸村を、宥めてすかして縁側に押さえつけて口に饅頭を突っ込んで、表面張力で湯飲みの口から盛り上がる熱い茶を手に持たせて飲ませて落ち着かせて、佐助はようやくその焦りの理由を知ることができた。
 曰く、『子が生まれたから顔を見に来い』。
 あり得ない。
 知らぬ間に政宗が女を娶っていたというのならばともかく、そういった情報は佐助の耳には入っていない。
 しかもそのこどもは幸村似だという。
 誰が聞いても嘘である。
 そんな妄言を信じる者は日本全国尋ね歩いたところで一人を除いていないだろうに、その一人がよりにもよって自分の主だということは佐助の負った不運だった。
 嘘だと断定された幸村は、饅頭を咀嚼して飲み込みながらじろりと佐助を睨み付けた。
「何を根拠にそう決めつける」
 そう言う幸村が何を根拠に信じかけているのかまずそっちを聞きたいなあとか考えながら、佐助は曖昧な笑みを浮かべて後ろ髪を掻きむしる。
「えーつまり、男と女の役割とか体の仕組みとか、そこから始めないとだめ?」
「それは知っておる」
「うん良かった俺様安心。それなら」
「知っているが、前に、お前が、俺を騙した後に」
 歯切れ悪く言う幸村に、佐助は目を丸くする。
 常日頃主を主とも思わない態度を取っている佐助だが、だからといって幸村を軽んじているわけではない。例えば信玄の密命や、忍びの里絡み等のやむを得ない事情で口にできない事はあっても、騙すようなことはしていない。そのはずだ。
「え? 何それ。いつ」
 訊けば、
「俺が病にかかった時だ」
 即座に答えを返されて、ああ、と佐助は手を打ち合わせた。
 昨年の冬のことだ。幸村が高熱を出し、それでも自分は病でないと言い張った時の話だ。発熱にも構わず鍛錬などを始めようとする幸村をどうにか大人しく床に寝かせようと口をついた出まかせだった。子を孕んだからあまり動くな。その乱暴なでたらめをなぜだか幸村は受け入れた。政宗との子が出来たのだと信じて、大人しく床に就かせることには成功した。
 けれど、一度信じ込んだせいで嘘だと判ってからもしばらくは、もの凄く頑張ったら男でも子を産めるのではないかといつまでもしつこく食い下がられて苦労した。
 そんな事が確かにあった。
「あの後……その、俺は」
 佐助が回想していた間に幸村は何を思い出していたものか、歯切れは益々悪く、顔には血が上って耳まで赤い。
「頑張ってみたのだ。俺なりに」
 何を、とは聞くまでもないことだ。藪をつつけば蛇が出る。突っ込みは心の中に留めて、佐助は視線を泳がせた。
「確か、桜が葉を広げた頃だ。政宗殿と会った時に」
 そういえばそんな事もあった。どちらの城でもない場所で二人きりになりたいのだと言う幸村に、場所を用意したのも逢瀬の手引きをしたのも護衛をしたのも佐助だった。
 それからおよそ一年。
 季節はひと回りして今は城の敷地に植えられた桜がようやく花開き始めたところで、あと半月もしないうちに信玄の屋敷で花見の宴が開かれる。佐助も警護に駆り出される。主に、宴の終盤に必ずと言って良いほど勃発する信玄と幸村の殴り合いから、他の列席者を避難させるための誘導と護衛だったりするのだが。
「数えてみろ、ちょうど一年近くになるのだから時期も合うではないか! あれだけ昼も夜も熱く励んだのだ! 奇跡が起きたとしても何の不思議もないと! ここまで言わせるとは何事だ佐助えええ!!」
「いや起きねえし! ほんと絶っ対に無理だから! っていうか旦那が勝手にべらべら喋ったくせに何で俺様が怒鳴られてるの!」
 びりびりと空気を震わせる幸村の大声に、佐助は軽く耳を塞ぐ。
 何より逃げたい現実は、幸村の抱く無謀な望みは佐助自身が蒔いた種だということだ。
 薄茶の最後の一口を飲み干した幸村は、縁側に勢い良く湯飲みを置くと毅然として立ちあがる。
「例えこれが政宗殿のじょーく……ではないな、え……えいぷにるふうるでも構わぬ! 政宗殿が招いてくれたことに変わりはない!」
 そう主張して、嘘でも何でも幸村が行くと言うのならば佐助に止める事などできはしない。
 考えて、一拍送れて、佐助はぱちりと瞬きした。
「何だ、要はお招きだって事は理解してんの」
 政宗からの文は、全てではないが、佐助も時折幸村の惚気話に読まされる。会いたいだの何だのと、直接的に書いて来ることはない。回りくどすぎて幸村が気付かない事もあるほどで、こんな異国の行事などは良い口実だ。
「当たり前だ」
 心外だとばかりに幸村は言う。
「っとに、素直じゃないよね、独眼竜の旦那」
「それもまた好ましいではないか」
「……ああ、そう」
 幸いこの先数日は身動きできないような予定もなく、おそらくそのあたりは政宗も調査の上で文を寄こしている。
 空を仰いで、佐助はようやく観念した。
「……馬でいい?」
「うむ。そうだ、あちらでは桜はまだ咲かぬ時期だな?」
「あー、そうね」
「ならば咲いた枝を少し切って行こう。それと何か手土産を用意せねばならぬな!」
 言うが早いか庭を走り出した幸村の背を、佐助は疲労の吐息と共に暫し見送る。
「桜、切っとくよ、旦那ー」
 間延びした声で言えば、頼む、と幸村の背中から返事があった。

初:2008.04.01/改:2013.04.03
[ リク内容:甘々 ]
書き終わって気付いたんですが、伊達と真田、顔、合わせてませんでした。自分的には甘々のつもりで書きましたということでご容赦を。