アンダーカレント
歩を止めた馬の足下で枯れ枝が乾いた音を立てた。
まばらに立つ木々の葉にはもう夏の眩い鮮やかさはなく、日差し注ぐ地面の乾いた茶色に、所々に群れて生える下草の緑。早い速度で流れ過ぎる雲の影と木々の影。
その中に、倒れ伏す異質な赤を目にして政宗はひととき息を詰めた。
よく見知った赤備えの、力なく投げ出された脚には燃え盛る炎が描かれている。背には大きく六文の銭。そしてその上に乱れて散る、長い後ろ髪と朱の鉢巻。
「……おい」
呼びかけるでなくただ独り言に呟いて、政宗はいちど馬上から油断なく周囲を伺う。他に何者の気配もない事を確かめて慎重に地面に降り立った。
甲斐の端で小規模な戦あり。情報を持ち帰った忍の言葉に、躍り上がる心地で屋敷を飛び出したのは朝、半日ほど前のことだった。
戦の詳細は不明。
ただ、武田は真田幸村が忍隊を率いて出た様子、と。
忍が報告するその場に竜の右目、片倉小十郎がいれば、政宗が動くよりも何か言うよりも早く、即座に政宗に自重を促したはずだ。けれどその小十郎は、政宗の名代として遠方に遣いに出たばかり。領地の中でも西に近い屋敷に滞在していた政宗を止められる者はいなかった。
もっとも、目付け役に釘をさされずとも、詳細もわからぬ戦であれば無闇に乱入などできはしない。それでも、久しぶりに耳にする真田幸村の名前だった。最後にまみえたのはいつだったかと、探すのは更に遠い記憶だ。
戦う事はできずとも、遠目にでもあの戦振り、業火纏う華を見物できれば。その思いで、平服に刀ひとふりのみを携えて、政宗は甲斐の山中へと密かに足を踏み入れた。
それが。
(こんなに早く出くわすとはな……)
それも、こんな状況に。
報告された戦場からは随分と離れた場所だった。
地に伏した赤備え。手を離れて転がった二本の槍の穂先は血に塗れていた。
生きているか、死んでいるのか。
うつ伏せた様子からは見て取れない。
背に傷はない。
腹の側がどうなっているのかは、起こして確かめてみるまでわからない。
傍らに立ち、様子を伺って、政宗は視線を転じた。
やや離れた場所に、同じように倒れる塊がある。そちらは赤ではなく黒だった。
黒装束の一人の忍。
どこの家に仕える忍かは服装からは判らない。
仰向けに倒れるその忍の装束は大きく斬られ、そこからのぞく腹は深く裂かれて赤黒い。
絶命しているのは明らかだった。生きていれば化け物だ。近づいて生死を確認するまでもないと、政宗は赤備えの背に目を戻した。
状況から見るに、あの忍を単身追ってきたというところだろう。
戦場から離れて、こんな山の中まで。
馬鹿が、と、内心で吐き捨てた。
とんだ深追いだ。
この男はいつもそうだ。
戦いにのめり込むと周囲がまるで見えなくなる。刃を交える相手しか目に入らなくなる。
自分と対峙する時はそれでも良かった。むしろ、そうでなければ許さないとさえ思う。幸村のひたむきな槍は政宗を高ぶらせ、満たし、戦の熱に浮かされたような心地に引きずり込む。
だが、ひどく危うい戦い方であることもわかっていた。
その結果が、これだ。
(……死んでねえだろうな)
ゆっくりと、政宗は幸村の傍らに膝をついた。
状況としては相打ちの図だ。そう見える。だが、それはないと奇妙に確信めいて思う。
死ぬはずがない。
こんなところで。
忍などを相手に、この男が。
自分が参戦していない戦場で命を落とすはずがない。
倒れたまま動かない幸村の脈動を確かめるために、政宗は右手を首筋へと伸ばす。指先が髪を掠め、皮膚に触れる寸前。
「――ッ!?」
目の前で幸村が跳ね起きた。
跳ね起きたのだ、と気づいたのは一拍の後だった。
その一拍の隙、政宗の虚を突く素早さで、幸村は政宗の腕を掴み捻り上げた。同時に、肩を当てて体を傾がせ、もう一方の手が政宗の刀の柄を掴んで押さえ込む。
一瞬のことだった。
生きていたかと安堵する間もありはしない。
己の不覚に歯噛みする政宗に、幸村が小さく声をあげた。
「……素手……?」
胸を肩に押される体勢で、幸村の表情は政宗には伺えない。
呟いた幸村は、政宗の腕を捻り上げる手の力をわずかに緩めた。確かめるように、政宗の腕を握り直す。
戦場に出る者ならばその殆どが、腕には防具を着けている。それは忍でも同じことだ。だが、乱入するつもりなしと出てきた政宗は何の準備もありはしない。小袖に袴の平服だ。
そんなもん見りゃわかるだろうが。
考えて、政宗はふと眉をひそめた。
幸村はじっと動かずにいる。
ふいに違和感を覚えた。
動きを封じるにしては、随分中途半端な体勢だった。右腕と刀は押さえ込まれているが、左腕は自由なまま。当て身をされてとっさの動きで幸村の上着の肩を掴んでいる。
このままでは反撃可能だ。それは幸村もわかっているはずだ。腹ばいに押さえ込むなり背後に回るなりして、両腕を押さえてしまった方が良い。何故しない、と考える。
――おかしい。
そう思ったと同時、幸村が顔を上げた。
「そなた……何者だ?」
ゆっくりとした動きで、両の瞼を閉じたままで、そんな問いを政宗へと投げかけた。
(こいつ、目が)
見えてねえのか。
ひやりとした焦りに押されて問いかけた言葉を、政宗は寸でのところで飲み込んだ。
「武士であろう。名乗られよ」
低く言う幸村は、目の前にいるのが政宗だという事に気づいていない。ならばいっそ、そのままの方が面倒がなさそうだ。
今はただ正体の知れない相手への警戒を見せている幸村は、政宗が名乗れば毛を逆立てた獣のようになるだろう。そうなればまず揉める。下手をすれば手探りで槍を掴みかねない。政宗の知る限り、真田幸村とはそういう男だった。
いつだか、深手を負った幸村と出くわしたことがある。あの時は刀を納めようとした政宗に、怪我人と侮るかと吠えかかった。まともに戦えば確実に負ける、そんな状態でありながらも、手を抜けば一生許さぬと言い放った。
もっとも、さすがに両目をふさがれた状態では、あの時ほど意地を張ることはしないだろうが。
(面倒くせえな……)
首を落とせだの、敵の情けは受けぬだの、幸村が口走りそうな事は容易に想像がつく。宥めるには手間がかかるだろう。
「……言えぬか。それとも、口をきけぬのか」
名乗らず、適当に身分を偽るか。
それが一番楽ではあるが、幸村が政宗の声を覚えていなければという前提がつく。声を覚えていなくても、うっかり異国語が口を突けばその時点で間違いなくばれる。
「某は、甲斐武田が将、真田源二郎幸村と申す者。其の方も武士ならば正々堂々と名乗られよ!」
考えを巡らせている間に、じれた幸村が名乗りをあげた。政宗はひそかに溜め息を返す。目も見えず誰とも知れない相手に馬鹿正直に名乗る奴があるか。
(口がきけねえ、ってことにしとくか)
体の力を抜き、自由な左手を幸村の顔へと伸ばした。
幸村の瞼は閉じられたままだ。
その瞼に軽く指で触れれば、幸村は顔を背けて逃げた。
それを追って、今度は指先を下瞼へ。
(開かねえのか……?)
眼球の形はある。外傷もない。
頬をとらえて軽く上向かせれば、不快げに目元を歪ませたが、やはり瞼は閉じられたままだった。さすがにこじ開けて確かめる気にはなれない。白光によるめくらましは受けたことがあるが、あれではすぐに視力は戻る。煙でも、砂の類の目潰しでも、いつまでも瞼が開かないということはないはずだ。
戦っていたのが忍ならば、何か特殊な薬でも撒かれたか。
政宗に思いあたるものはないがその線が濃厚だ。
開かないのか、あるいは開けたくないのか。
(……ま、どっちでも構わねえが)
これが一時的なものでも、そうでなくても。
政宗からすれば最悪楽しみが一つ減ると、それだけのことだ。極上の楽しみであり焼けるような腹立たしさは伴うだろうが、この乱世ではままあること。
(――けど、何かできねえか?)
問いかけるかわりに触れた手を離し、視線を下へと移せば、幸村の赤備えの上着は派手に血で汚れていた。
それは剥き出しの腹にも散っていたが、幸村自身に目立つ傷はなく、おそらくすべてあの忍の返り血だ。試しに上着の襟元に手をかけてめくってみるが、その下にも傷はない。
あとは、頭。
思いついて、政宗は幸村の頭に手をやった。軽く髪を分けてみる。血に濡れた様子はないが、頭を強打した衝撃で一時的に視力を失うという事はありそうだ。ただ、それでは形だけでも目を開けない事の説明がつかないが。
ふいに深々とした溜め息を耳にして、政宗は幸村の顔を見た。
「手傷は負っておらぬ。目は、多分一時的なものだ」
されるがまま沈黙を保っていた幸村が、諦めを混じらせた声で言う。
「もう良い、行かれよ。其方に、邪心なくば」
眉間に皺を寄せたまま、政宗の腕と刀からゆっくりと手を離した。
「名乗れのぬなら甲斐の者ではないのだろう。ここに居れば、いずれ某の部下が来る。立ち去るならば今のうちだ」
部下と聞いて、政宗はひとりの忍を思い出す。名を何と言ったか、やたらと目立つ赤い髪の忍。幸村の危機には決まって現れ、一騎打ちをその度邪魔された。
腹立たしくはあるが、確かに鼻の利く忍ではある。
しかし。
(行け、って言われてもな)
揉めるのは面倒だと避けてみたものの、口をきかずにいるのもそれはそれで面倒だ。
試しに少し喋ってみるか。
政宗は考えながら首を掻き、ふと、思いついて幸村の手を取った。
「……何だ?」
引き寄せた幸村の指先を軽く自分の頭に触れさせて、いちど、首を横に振った。革の防具越しに伝わった動きに、幸村が怪訝そうに眉を寄せる。
(一時的なもんなら治るんだろ? 万が一にもそれまでに死なれちまったら、オレの楽しみが減るだろうが)
幸村が敵の忍を追って入り込んだ山ならば、真田の忍より先に敵が幸村を見つける可能性もある。
「去らぬと申すか? なにゆえ」
戸惑った様子の幸村に、政宗は無理もないと内心で苦笑した。幸村からすればわけのわからない行動だろう。敵か味方か測りかねている。
「ならば……其方、武田の陣の場所を知っているか」
横に一度、首を振る。
「馬がいるな。其方の馬か?」
縦に一度。
「武田の兵を探し、某の所在を知らせては貰えぬか。おそらく西の山向こうだ。馬の足ならばそうかからずに着く」
少し考えて、また首を横に振ってみせた。
幸村を一人にする方法はとれない。
(けど、連れてくってのは、まあアリだな)
幸村を馬に乗せ、武田の陣を探す。政宗の顔を知る者がいるかもしれないが、幸村を伴っていれば手出しはしてこないはずだ。幸村も、政宗だと判ったところで馬の背ではそう暴れないだろう。
さっさと置いて、去ればいい。
政宗は立ち上がる。
が、その計画はすぐに挫けた。
「い、……ッ!」
立て、と言葉の代わりに、掴んだ腕を引き起こそうとしてみれば、苦痛の声をあげた幸村が腹を押さえて身を折った。
それでか、と納得する。
陣へ連れて行けではなく、知らせてくれ。外傷はないが骨かどこかを痛めているのかもしれない。
痛みを堪えて詰めた息を、幾度かに分けて浅く吐き出す幸村に、よくぞ今まで隠したものだと政宗は呆れ混じりに感心する。この様子では、政宗に飛びかかったあの動きなどは相当の痛みを伴ったはずだ。
(馬の背は響くか)
政宗はあたりを見回した。
長距離の移動が無理ならば、せめて人目に付きにくい場所に移したかった。真田の忍がたどり着くまで、敵の目から隠せる場所。周囲は背の高い立ち木があるとはいえ、少々まばらで見晴らしが良すぎる。洞でもあれば最高だがと目を凝らすが、都合良くそんな場所があるはずもない。
比較的目に付きにくい場所といえばただ一つ。
切り立った山の斜面の近く、折れた大木の幹と、それを囲むように生えた灌木の茂みがあった。枝葉の密度が高く幸村を隠すのに使えそうだ。逆に中から外も見えなくなるが、音や気配を探れば良い。自分がいれば忍如きの接近は許さない。
(ちっと歩くが、ここに居るよりゃマシだ)
政宗は身を屈ませて、幸村の腕の下に肩を入れる。
訝しげな顔の幸村の腕を安堵させるように一度叩き、支えながら立ち上がらせた。
どうせ満足に振るえぬのならと、朱槍はそのままに置いてきた。
忍の死体。幸村の槍。そして、政宗の馬。目印としては十分だ。真田方の者が気づけば幸村を引き渡し、敵であれば始末する。といっても、政宗がそうと判るのはあの赤い髪の忍のみだ。どちらか判断がつかなければ、あの忍を連れて来いとでも言えば良い。
連れられたのが身を隠す場所だと理解した幸村は、世話をかける、かたじけないと、四角四面に礼を言った。
そして、頓着なく上着を足下へ脱ぎ捨てたのは、政宗の予想外の行動だ。驚いて声をあげかけた。
血の臭いが酷いのだと、確かにそれは政宗の鼻にも届いていた。身につけている幸村には噎せ返るほどに臭ったのだろうが、それにしても。未だ戦の最中だというのに無防備にもほどがある。
(っても、元々、鎧うべき場所を鎧ってねえんだから大差ねえか)
政宗は、隣で木の幹に背を預けて座る幸村を見る。上着を脱いだ上半身は、手の甲から肩まわりまでと胸を覆う、籠手と脇曳を繋げたような防具を着けているのみだ。
(……ん?)
ふと、その胸に違和感を覚えて政宗は目を瞬かせた。
何かが足りない。
正体にはすぐに思い至った。
(あァ、首の――)
まみえる度、幸村が必ず首に下げていた六文の銭。それが今はない。判ってしまえばあれほど目立つものをと、今まで気づかなかったことが不思議に思えた。
幸村が身を起こした時にはもうなかったはずだ。
戦っているうちに落としたか。
(Trademarkじゃねえか)
間抜け野郎、とは声にせず、見えないとわかりながらも政宗は辺りに光るものがないかと目を凝らす。
「行って、構わぬのだぞ」
その政宗の動きを誤解したらしい。
浅い息の下から、ひそめた声で幸村が言う。
「何か、用向きの途中だったのではないか?」
地面に投げ出された幸村の手、今は何も着けていない手のひらを、政宗は指先で二度叩いた。
肯定ならば一度、否定ならば二度手を打ってくれと、言い出したのは幸村だった。
確かに首の動きで伝えるよりもわかりやすい。
感心していちどは手を打ち合わせてみた政宗だったが、何やら間抜けで、音も気になり、幸村の手に直接振動を伝える方法に変えた。
「遠駆けでもしていたか」
こんな山中を? と、笑い含みの声に一度。
「……そうか」
はぐらかす意図だけでなく、結果的には遠駆けに来たようなものだった。幸村の戦ぶりを眺めに来たというのに、その当人が倒れていたのでは何をしに来たのだかわからない。
「助かるが……本当に、某の事ならば」
言い終える前に二度手のひらを叩いてやれば、幸村は言い差したままに口を閉じた。すぐに、
「かたじけない」
幾度目かに礼を言った。
余程痛みがあるのか、直に触れた幸村の手のひらは酷く熱く汗ばんでいた。
(腹なら喋んのも響くだろ)
肯定と否定のみの伝達方法で、辛ければあまり喋るなと伝える術はない。
横になれば少しは楽か。
幸村は警戒を解いている。表向きはそう見える。
それでも、さすがに素直に従うかどうかはわからないがと考えながら、政宗は、幸村の手を軽く引いて意識を自分へと向けさせた。
同じ手で、地面を二度叩いてみせる。
――横になれ。
意図は、幸村に伝わったようだった。
「……そうだな。その方が、楽かもしれぬ」
逡巡する間を置いた後、幸村は苦しげに息を震わせながら、ゆっくりと身を丸めて横たわった。
そうしたことで本当に少しは楽になったのか、幸村が安堵した時のように長く息を吐く。
それを複雑な思いで眺め、政宗は嘆息した。
幸村が息で笑う。
「横になれと言ったのは、其方であろう」
それはそうだが、こうもあっさりと横になられては複雑だ。
と同時に、名乗らずにいたのは正解だったかと改めて思う。
さすがに政宗の前では、促されても、どれほど辛くとも、横になるようには思えない。
「其方に害意はない。例え隠していたとて、それくらいはわかる」
どうだか。
政宗はこれみよがしに音を立てて刀の鯉口を切ってみせる。
からかいを正しく受け取り、幸村がまた吐息でおかしそうに笑う。
「やめてくれ。笑うと腹が痛むのだ」
覗かせた刀身を鞘へと戻し、幸村の手を一度叩いた。こんなやり取りでも冗談は伝わるものかと、そんなことに感心しながら。
「まこと、おかしな男だな」
苦笑の名残を混じらせて幸村が言う。
「いずれ、気が向けば上田に参られよ。たいしたもてなしも出来ぬが、酒と、飯くらいは馳走できる。この恩義には到底足りぬが」
政宗は目を丸くした。
少し考え、片頬に苦く笑みを浮かべて、一度だけ振動を伝えた。
そうするつもりはないし、出来もしない。
だが、考えたこともなかったそれは、面白い提案ではあった。
「そうか。ならば、山中での恩人だと言えば通じるようにしておこう。そうだな、今の季節なら、落ち鮎はそろそろ終わる頃か……」
小声で話すのを聞きながら、政宗は想像する。
忍んで上田に出向き、幸村と酒を酌み交わす。
伊達政宗として会えば、空気は硬いものになるだろう。苦い顔をするに違いない幸村を、からかいながら酒を呑む。
悪くはない。
「やはり、名は言えぬか」
とん、と一度。
幸村は「そうか」と答えたのみだった。
今は防具もなく投げ出された、体の一部のように槍を扱う手。意志の伝達のため、それに重ねた自分の手。
眺めて、政宗は苦く笑う。
まるでたちの悪い冗談のようだ。
視線を逸らし、空を見た。
酒を酌み交わすのもきっと悪くはない、けれど。
(こんな温い時間は一度で十分だ)
そうだろ? と、声にせずに語りかける。
本来、戦場で対峙する以外に出会う筈のない相手。
戦って、領地を広げ、奥州を平らげ、それでも戦ってなお足りないと政宗をせき立てる飢えを、炎纏う牙で満たした相手。
強い者ならば他にもいる。小十郎、軍神、甲斐の虎。西に行けば更に数多い。その中でただ一人、自分と似ているとそう感じた、戦に憑かれたにおいを持つ男だ。
幸村を相手に望むのは、熱だ。
空気が皮膚を刺すような。
魂が咆哮をあげるような。
触れた手がどれほど熱くてもそれではない。静けさや穏やかさ、そんなものの介在を許さない刃の熱さ。
幸村はまた静かに黙り込んでいた。目の不調は一時的なものだと言っていた、その言葉が偽りや強がりでなければ良いと願う。
陽はゆっくりと西へ傾いている。
空の様子と感覚から、政宗が幸村を見つけてから半刻近く、あるいはそれ以上経っているはずだった。
(遅えな……)
真田の忍は数が多い。それが総出で探してこのざまか。それとも、戦闘が落ち着かず捜索に人を割けずにいるものか。
(さんざ人の邪魔しやがって、こんな時には来やがらねえ)
姿を見せない赤い髪の忍に毒づいて、幸村へと目を戻す。
「……あ?」
思わず漏れた声に政宗は慌てて口を噤むが、そんな事をする必要もない。
いつの間にか幸村は眠っていた。
嘘だろ、と声にせずに呟くが、口はだらしなく半開きで、呼吸にゆったりと上下する胸の様子はやはり眠りに落ちた者のそれだ。
(おい……寝るか? この状況で)
いくら負傷しているとはいえ。
敵意がなくとも、誰とも知れない、刀を差した男を脇に。
政宗は信じがたい思いで幸村を見る。自分ならば絶対にない。あるとすれば、寝たと見せかけて相手の出方を伺うくらいか。
試しにそっと幸村の手を叩いてみれば、指先が僅かにひくりと動いた。その反応の自然な様に、本当に寝ているのだと確信する。
嘆息して、政宗は木の幹に背を預けた。
肝が据わっているのか、ガキなのか。
指先で刀の柄の装飾を辿り、掴む。深く息を吸って目を閉じ、皮膚と耳との感覚を澄ます。
「……ま、アンタんとこの忍が来るまでは居てやるさ」
囁く声でそう告げた。
日が落ちて、また風が吹き始めた。
梢が揺れてがわがわと葉を鳴らす。
耳にするのは鳥の羽音と、兎か何か体の小さい獣の音。時折、政宗の馬が所在なさげに歩く音も。
そうして全身を澄まし少しの時間が経った頃、政宗はゆっくりと背を起こした。
(来たか)
目を開ければ、西の山際が仄かに赤い。
頭上は夜の始まりの薄い青に染まり、その空に、ほう、と一声ふくろうが鳴いた。
合図だ。
そう取って、政宗は音を立てずに立ち上がる。刀の柄に手をかけたまま、灌木の影から踏み出して足を止める。
目を凝らせば、政宗の馬の近く、黒く濁った空気が一瞬にして人の姿を形作った。その、遠目にも判る赤い髪。
「遅え」
鷹揚に歩み寄り、政宗は不機嫌に鼻を鳴らしてみせた。同じようにゆっくりと慎重に距離を詰める忍が、嫌なものを見たと言わんばかりの視線を政宗へと向ける。
「うわ、マジで独眼竜の旦那だよ。あんた、何でこんなとこにいるわけ?」
「んなこたどうでもいいだろうが」
「いいわけねえだろ。ここ、どこだと思ってんだよ。散歩して迷い込みましたじゃ通らないぜ」
それには構わず、政宗は立てた親指で後ろの茂みを指し示した。
「寝てる」
「……は?」
「テメエんとこじゃ、耳が遠くても忍が勤まるのか?」
「え、って、真田の旦那? 寝てんの?」
目を剥いた忍にいささか同情しながらも、政宗はその疑問符も黙殺する。
「腹をやられてる。それと、目が見えてねえ。一時的なもんだっつってたが」
「目? ああ、はいはい」
忍の軽い口振りから、一時的なものだという言葉はどうやら嘘や強がりではなかったようだ。表には出さずに安堵した政宗に、忍が聡く口の端を上げ、含みを持たせた笑みを向ける。
「薬あるからすぐに治るよ。そう心配しなさんなって」
「心配なんざしてねえ」
「へえ? 執着の割に随分薄情じゃないの」
「軽口よりも、テメエの仕事をしたらどうだ、真田の忍」
うるさそうに片手を振って、政宗は顎で背後を示す。
「一つ貸し――なんて細かい事は言わねえでおいてやる。早く連れて帰れ」
「そりゃどうも、っと」
答えただけで、忍はその場を動かない。政宗は目を細めて先に足を踏み出した。忍とすれ違い、躊躇いもせずに背を見せて歩き去る。
手綱を木に繋ぐ事もしていなかったが、他に類を見ない、目に豊かな知性の光を持つ愛馬は、政宗が降りた場所からさして動かず主人の戻りを待っていた。
待たせたな、と頬を緩めて歩み寄る。来る途中にも立ち寄った川で、水を飲ませようと考える。それと何か、口に入れるものを。そう距離はないはずだ。
「……ん?」
考えながら歩く草鞋の足の裏が、何か硬い感触を踏みつけて政宗は身を屈める。
足下を見れば、銭貨が一つ落ちていた。
薄闇の中、拾い上げたそれは矯めつ眇めつするまでもなく、間違いなく幸村が首に下げていたものだろう。もう一度足下を視線で探すが、他の五文は見あたらない。
振り向けば、忍は同じ位置から動かずに政宗の様子を伺っていた。
政宗の指先が摘むものを見て、あ、と小さく声をあげる。
「それ、もしかして真田の旦那の」
渡すかという考えを、瞬きひとつの後で政宗は打ち消した。
「貰っとくぜ」
「はい?」
銭貨を指で弾き、高く跳ね上げる。
「子守の駄賃にゃ、安いくらいだろ」
落ちて来たそれを手のひらに握り、政宗は、不敵な笑みと共に背を向けた。
政宗を乗せた馬が地を蹴って駆け出す。
それを見送って、佐助は首の後ろを手で掻いた。
「ま、旦那の判断を仰ぎますかねえ……」
返せ返さないのやり取りをするには時間がかかりそうだった。それよりも今は幸村だ。政宗の様子から深手を負っているわけではなさそうだが、腹をやられているとも言っていた。
政宗の背が遠ざかるのを確かめ、佐助は示された灌木の茂みをのぞき込む。そこには、言われた通りに幸村が地面に横たわっていて、
「あれ、起きてるじゃない」
声をかければ、幸村がうむと小さく頷いた。
「なんだ。狸寝入り?」
「いや、話し声で目が覚めた」
辛そうな様子を見せながらも幸村は起き上がり、木の幹に背を凭れさせて、目だけは閉じたまま後ろの方へと顔を向ける。
「……政宗殿か」
「うん。って、旦那、気づいてなかった? 子守したって言ってたけど」
「子守……は、ともかく、世話にはなった。だが、何を聞いても一言も喋らぬ相手では、誰かなどわからぬだろう」
幸村の言葉に、佐助は盛大に顔をしかめる。
「で、喋らない相手と一緒に居たってわけ?」
「ああ」
「しかも寝こけて」
「……うむ」
はあ、と佐助はこれみよがしの、絶望的な溜め息を吐く。
「俺様、旦那の首が繋がってるのが奇跡に思えるよ」
「そう言うな。少しでも敵意があれば、俺とてそう易々と寝たりはせぬ」
「どうだかねえ。まあ、独眼竜が現れたんじゃ、真田の旦那騒ぎそうだもんね。名乗らなかったのは賢明だわ」
指摘に、幸村がむっとする。
「俺とて、そう見境なく挑みかかりは」
「どうだか」
佐助は膝をついて、懐から細い竹筒と、幅の広い包帯、木を削った棒を幾つか取り出して地面に置いく。
「……夢を、見ていたな」
「夢?」
それ以上喋らずに幸村は口を閉じた。
それを寝起きの脈絡のなさと処理した佐助は、竹筒から、同じく竹で拵えた栓を抜く。
「例の目潰しだよね?」
「うむ。本当に、いつまでも開かぬので肝を冷やした」
「だから言ったじゃないの、気をつけろってさ」
傾けた竹筒から、薬の滴が幸村の瞼へと落ちる。睫を濡らし、すぐに広がった鈍い痛みに幸村は強く目を閉じた。痛みに誘われた涙と共に、瞼の裏まで染み渡った水滴を瞬きで流しきる。
ようやく感覚を取り戻した瞼を開けて、幸村は目をしかめた。
「……よく見えぬぞ」
「そんなすぐには治りません、って。ちょいとごめんね、押すよ」
言って、佐助は幸村の腹部へと手を当てる。
「痛……っ!」
「あ、良かった内臓に刺さったりはしてねえや。でもこれじゃお馬さんに乗るのは無理かねえ」
「佐助、おぬし、加減というものを」
「大袈裟」
待ってて、と言い置いて、佐助が高く指笛を鳴らす。
その音を聞きながら、ぼやけた視界を瞼で閉ざし、幸村は深く息を吐いた。
翌日は行きに無理をさせた馬を休ませながらの道のりになり、政宗が城に辿り着いたのは日暮れも近い時刻だった。
待っていたのは使いから戻った小十郎と、整えられた湯殿と、夕餉の膳。
「……何も言わねえのかよ」
出迎えた無表情を拝んだ瞬間に小言を覚悟した政宗は、調子が狂うとばかりに小十郎を睨め付ける。
「さて、その年でまだ叱られ足りないとでも?」
仏頂面の小十郎は、改められて久しいかつての傅役の顔で政宗をからかう。むっとして唇を尖らせた政宗に、薄い笑みを浮かべてみせた。
「ご自分の命の価値を承知で駆けたのでしょう。であれば、この小十郎からは何も申し上げる事はありませぬ」
「……ん」
「まずは湯殿へ。報告は夕餉の傍で致します」
「わかった」
確かに、小言は言われない方がじわりと響く事もある。心配も迷惑もかけた。小十郎が言うほど覚悟しての行動でもなかった。それでも、駆けただけの意味はあった。
遠く灯りのもれる湯殿へと歩きながら、政宗は、着物の袷へと手を入れる。
無造作におさめてあった一文を取り出し、目の高さにへと掲げた。
「……らしくねえな」
軽はずみに重いものを増やしたと、口元を苦く歪ませる。
幸村が首から下げていた六文銭、そのひとつ。決意や、覚悟や、何か目に見えないそんなものが染み着いているに違いないそれは政宗が嫌う類のものだ。
それなのに、拾い上げた手から離す気になれなかったのは何の作用か。馬の背で幾度も同じ問いを繰り返し、その度掴めずに放棄した。
あんな温い時間は一度で十分だと、それは今も同じ思いだ。
では何だ。
感傷か。
何に対しての。
「……くだらねえ」
吐き捨てるように呟いて、政宗は一文を袷の内へと投げ入れた。
幸村の首を落とした時にでも返してやればいい。政宗が持ってきた分の一文は他から足すだろうが、渡し賃が多くて困ることはないだろう。
湯殿を使い、食事を取り、小十郎の報告を聞きながら少し酒でも用意させようと考える。
考えながら空を見上げ、何の気なしに探した月は雲の中にあった。薄い雲を透かして淡く滲んだ光からは、その形は伺うことができなかった。
上田へと運ばれながら再び意識を失った幸村は、翌日昼近くになって目を覚ました。
自室の布団の中で、衣服は清潔な寝巻きに改められて、額には濡れた手拭いが乗せられていた。
「佐助、戦は」
目覚めを待っていたのだろう、意識が戻るなり部屋の障子を開けた佐助に開口一番そう聞けば、佐助はひょいと肩を竦めた。
「とっくに。ま、あの規模の小競り合いだし。旦那を運んでる時に、あちらさんも撤退の真っ最中ってとこ」
「……そうか」
はあ、と幸村は肩を落とす。
「俺一人、弁えなく敵を深追いしてこの有様など、まことお館様に申し訳が立たぬ……!」
「あーそりゃあねえ、怒ってましたけど、大将も。お叱りは治ってからキツーくするんで、ともかく今は務めと思って養生せよ、だそうです」
己のふがいなさと、寛大な信玄の言葉とに、幸村は布団の中で低く呻く。佐助は幸村の枕元に膝を付き、目の上にひらりと手をかざした。
「で、具合どう?」
幸村は幾度か瞬きして、次に腹のあたりへと意識を向ける。視界ははっきりと鮮明だ。
「問題ない。腹は痛むが……減ってもいるな」
「だろうね。さっき、支度頼んどいたからもうちょい待って」
「うむ」
「寝てる間に見立てて貰ったけど、折れちゃいないってさ。でも当分の間は安静に。ま、今日明日は布団で大人しくしててくださいな。その後も、鍛錬は痛みが引くまで禁止」
途端、不服そうに目を瞠った幸村を、半眼になって佐助は見返す。
「何。悪化させたいわけ?」
「……いや、そうではないが」
「お館様のお言いつけでもあることだし? 無理に鍛錬なんかしやがったら最悪腹殴ってでも止めろって言われてるけど、俺様もさすがにやりたくないしね」
「う。……それは、うむ、わかった」
「あと、これ」
言いながら佐助は、忍装束の懐に手を入れた。
取り出した懐紙を幸村の枕元に置き、広げてみせる。
「拾って来たけどね、これで全部」
五枚の永楽通宝は、敵方の忍と戦ううち、紐を切られて地に撒いたものだった。初陣の時から戦の際には必ず首に下げている六文銭だが、落としたのはこれが初めてだ。
「すまぬ。よく見つけ出してくれた」
「あと一つは独眼竜の旦那のとこ。ってのは、聞こえてた?」
貰っとくぜ。
その声は、目を覚ました幸村の耳にも届いていた。からかうような声は子守の駄賃だと言っていた。
「まあ、政宗殿の言うとおり、あれでは安いくらいではあるな」
戦場で会えば首を狙い合う関係にありながら、佐助の到着まで、視界を奪われ負傷した幸村の守りについてくれた。その礼としては安すぎる額ではある。
「でもあれ、絶対ただの嫌がらせでしょ。ご命令があれば、ちゃちゃっと忍び込んで取り返して来るよ。他の銭と混ぜられちまったらわかんないけど、まあ、それはしないと思うし」
「政宗殿の城だぞ? そう簡単には忍び込めぬだろう」
「そこはほら、特別恩賞でも出れば張りきるかも? なーんて」
「それは、まあ、考えるが」
「え、ほんとに?」
幸村はぼんやりと天井を見上げ、目を細めた。
初陣の時から今まで、長く身につけていた六文銭だ。思い入れはある。が、替えのきかない物ではない。
「……政宗殿を倒せば、戻って来るな」
「まあねえ。そんとき独眼竜の旦那が持ってればの話だけど」
幸村は思案する様子で黙り込んだ。
佐助は首を傾げて主の結論を待ち、ややあって、せつなげに出された吐息を聞く。
「佐助」
「はい?」
「……腹が減って考えが纏まらぬ」
唐突かつ間の抜けた訴えに佐助は目を丸くして、苦笑と共に立ち上がった。
「ま、そろそろ出来る頃合いかね。見てきますよ、っと」
「頼む」
佐助の消えた部屋で、幸村は天井の木目を見るともなく眺める。やがて、ぎこちない動きで、左の手を目の前にかざした。
山中、眠りに落ちて夢を見た。
聞いていない声を聞いた。
『――寝てな。その方が、ちったあマシかもしれねえぜ』
あの手の主を、何とはなしに政宗かもしれないと思っていた、その心が見せた夢だ。
幻の声を交えた現実の再現。
横になれと地面を叩いた音に、逡巡の後に従えば、呆れた様子で嘆息された。
それは現。
『……そう素直に従われんのもな』
「横になれと言ったのは、其方であろう」
『そりゃ、そうだが』
北条が伝説と呼ばれる忍を雇ったと、そんな話を佐助から聞かされたのは最近のことだ。おそろしく腕が立つが、決して人に声を聞かせない。初めはその忍かとも考えた。
だが、纏う香の匂いはおよそ忍にはふさわしくないものだった。幸村の知る限り、忍は任務に差し支えるといって匂いがつくのを極力避ける。
何かしらの事情を持つ甲斐の者か。その可能性は捨てきれなかったが、信玄の家臣、あるいはその子息に、声を出せぬ者がいるという話は幸村は聞いたことがない。
刀を差して馬を駆り、甲斐の地に足を踏み入れた、甲斐の武将でない人物。
幸村の前で声を出せず、名も明かせず、そのくせ敵意を見せずに手負いの幸村を気にかける人物。
思い当たるのは他にない。
だとすれば、と、己の不覚を強く悔やんだ。
骨の痛みがなければ。でなくともせめて目が見えれば、久方ぶりに、政宗と戦う機会が得られたものをと。
『おい……寝るか? この状況で』
痛む腹から全身へと広がった熱は、しきりに幸村を眠りへと誘っていた。紛らわすためにふとした思いつきなどを口にしていたが、続ける言葉が途切れた途端に意識が掠れ、抗いきれずに引きずり込まれた。
指先が幸村の手のひらを叩いても、熱く重く纏いつく眠りに反応もできず。ただ、重ねられたままの手に何故だか幼い子供のように安堵した。
骨ばって、指の長い武人の手。
幸村よりもずいぶんと低いその温度。
長く深く呼吸する音。
『……ま、アンタんとこの忍が来るまで、居てやるさ』
呆れたような、諦めたような、声は幻。
そうだ、と、思い出して幸村は目を瞬かせた。
「門番に言っておかねばならぬな……」
もし、山中での恩人だと名乗る人物が現れたら通すように。
布団から出る許可がおりたらすることはまずそれだと、考えながら、おそらく無駄に終わるだろうとも思っていた。幸村が話したような形で、政宗がこの城に来ることはないだろう。
かざした手を握って、下ろす。
重ねられていた感触を思い出す。
妙に意識に残るのは、初めて敵方の人間の体温に触れたせいか。信玄がことあるごとに幸村に言い聞かせる、敵も人だという言葉。それを温度と感触で実感した。
落ち着かない心地をそう理由づけて、幸村は障子へと目をやった。かすかに近づく足音は佐助だ。城で働く者に混じる時は、気配も足音も消さずに歩くのでわかりやすい。
城への潜入はひとまずは不要で良いだろう。
特別恩賞を逃したと、佐助には恨み言を言われるかもしれない。取り返したい思いも持っている。
けれど、欠けた一文が政宗のもとにある。そのことは、不思議と悪い気はしなかった。
サイト再録用に修正:2022.05.07