昨日と今日と夢の続き
狭い玄関に招き入れるなり、背後で無遠慮に吹き出す声が聞こえた。
「っと、悪ぃ」
振り向きざま睨みつける政宗に、背後で派手な銀髪の男がとっさに片手で口を覆う。閉じたドアの向こうからは夕刻の商店街の賑わいがかすかに届く。
木造アパートの三階の、東の角だ。
短い廊下には左右に浴室とトイレのドア、キッチンに二人がけのダイニングテーブル。洋室には収納を兼ねた大きめのテレビボードと、ローテーブル。窓際にベッド。
とりたてて珍しくもない一人暮らしの1DKだが、政宗の部屋には訪問者の目を引く点があった。
「笑うんじゃねえ」
「だから悪かったって」
言って、元親は靴箱の上の可愛らしい花に指を伸ばした。白と黄緑の丸い花。部屋の主に到底似合わない可憐な花は、ストライプのリボンを従えて形よくカゴにおさまっている。
それだけではない。
靴箱の上には小ぶりのアレンジメントがもうひとつ。そちらはオレンジとピンクで纏められている。そしてダイニングテーブルにひとつ。洋室にもひとつ。玄関に立てば目に入るそれらの花が、元親の笑いを誘ったのだった。
「本当に、オレの趣味じゃねえからな」
不機嫌に政宗は釘を刺す。笑いたくなる気持ちはわからないでもないが、ここに来るまでに事情を話して、笑うなと釘を刺しておいたこともある。
それら全て政宗が買い求めたわけではなく、顔見知りの花屋の店員がくれて寄こす「売れ残り」の花だった。
「わーかってるって」
キッチンに向かった政宗は、持っていたビニール袋をシンクに置いた。その蛇口の脇にも一輪挿しに赤い花が一つ。
邪魔するぜと律儀に断って室内に入った元親は、「はー」だの「ほーう」だのと咳きながら花をひとつひとつ検分している。
「おい、花じゃなくて見るのは魚だろうが。捌いてくれるんじゃねえのかよ、魚屋」
何のために来たんだよと小さくぼやいて、政宗は袋からプラの容器を取り出した。小さな豆アジがおよそ二十匹。ざっと洗ってまな板の脇に置く。包丁を用意する。
「……ったく」
相変わらず花を眺めている元親の様子に溜息をつき、もう一度催促しようとしたところへ。
「あなたは美しい」
「──はァ?」
唐突な言葉に、気でもふれたかと目を剥いて元親を振り向くが、元親の横顔はまだ花を眺めていた。ひらひらとした蝶のような花弁。思案顔でひとつ唸ると、元親は次のアレンジへと目を向ける。
「変わらない心。深い尊敬。……っと、こりゃ何だったかな。ああ《告白》か?」
「何言ってんだテメェ」
淡々と並べられる言葉に政宗は二、三度瞬きし、
「……花言葉、か?」
思い至った。
「おう。で、そっちのは《あなたを愛しています》だな。はっは、随分熱烈じゃねえか」
振り向いた元親はシンク脇の一輪挿しを指差し軽快に笑う。
しかし政宗は笑うどころではない。
「アンタ、なんでそんなモン知ってるんだ?」
花言葉の内容にも驚いたが、それよりも、そんなことを知っている元親への驚きが勝る。驚くというよりいっそ不気味だ。
「へ? 何でって」
「詳しすぎねえか、花言葉」
「あー……」
元親は少し考えた後で
「趣味?」
どんな。
突っ込んで聞きたいような聞きたくないような、総じて何となく嫌な気持ちになりながら、政宗はそれには触れないことにする。
「HA, 偶然だろ、そんなモン。花言葉なんてみんな愛だの恋だの言ってんじゃねえのか」
「いやーそうでもねえぞ。苦しむだの悲しいだのイメージ悪いのも多いし。第一花屋がくれるんだろ? ぜってえ狙って選んでるって」
にやにやと笑う元親は上着を脱いで手近な椅子の背に放り、片手を口元にあてて内緒話よろしく声をひそめる。
「で、どこの花屋の店員よ? 可愛い子か?」
「No comment」
「何だよつれねえなあ。同じ片目のよしみじゃねえか」
「片目のよしみって、アンタなあ」
初めて会った時も、元親は同じ台詞を口にした。
政宗の右目には白い医療用眼帯。
元親は左目だけを隠す紫の面布。
魚屋の前を通り過ぎる政宗を、片目のよしみだ安くすると言って呼び止め、ブリの切り身を示してきたのが元親だった。片目は事実だしお互い様とはいえ、片目片目と呼ばれるのは少しばかり癪に障った。だからそれ以上は無理だ本当に無理だと言われるまでしつこく値切り倒してやったらなぜか気に入られた。以来、何となく交流が続いている。
「教えてくれねえなら別にいいぜえ? けど、もう魚割引してやんねえからな」
大げさに拗ねた口調に、政宗もこれみよがしの溜息で返す。
値引きなぞ別段痛くもないが、この先ことある毎に詮索されるのは面倒だ。勿体つけているわけでもない。花屋に似合いの可愛い店員から貢がれたならば自慢もするが──いや、まあ、顔は可愛い部類だ。そう言えなくもないのだが。
「後悔すんなよ」
「後悔? 何で」
政宗は指先で窓の外を指し示す。
「……そこの、先の、角んとこの」
「あ? 武田んとこの花屋か?」
元親は思わず窓の外へ視線を投げるが、三階の窓から商店街の様子は伺えない。
「……あそこ、今、女の店員いたか?」
「いねえな」
沈黙が流れた。
政宗がダイニングキッチンの小窓を開けると、またかすかに商店街の音が耳に届く。どこかの店がタイムセールの開始を告げている。威勢のいい呼び声は多分八百屋だ。若い夫婦とその甥の、三人で切り盛りしている八百屋。
「あー。たまたま、かもしれねえな?」
「だろ」
「おう。はは。アジ、捌くか」
「頼む」
キッチンに立った元親は包丁の刃を確認してひとつうなずくと、刃先を小アジの尾の根元に当てる。
「アジはここんとこが固えんだ。だからこっから刃を入れて、こう、動かしながら腹の方に」
わかりやすいようゆっくりと鱗を削ぎ取る元親に、政宗は頷く。
「で、次は腹な。ここ開いて、中のとこを掴んで、……あのよ、余計なことかもしれねえけど」
「ん?」
「一応、ケツには気をつけろよ」
「……Thanks」
元親の手付きを観察しながら、政宗はまた、一輪挿しの花へと目を向けた。
何という花かなど知りはしない。円を描いて密集した黒い雄しべと雌しべ、数枚の赤い花弁。
《あなたを愛しています》
それをよこしてきた相手の顔を思い出して、あいつは馬鹿かと胸の内で毒づいた。強引なくらいの勢いで近づいてきたくせに、変なところで遠回しだ。
花言葉になど気づくわけがない。
元親が来なければ、きっとずっと知らないままだった。
次会った時にはこれをネタにして少し苛めてやろうと考える。
「で、持ち上げながら下に引っ張る。ちぎらねえよう、ゆっくりな」
「おう」
鮮やかな手捌きで小アジが綺麗に処理される。一、二匹手本を見せて貰えばすぐにできそうだ。頷きながら政宗は、ふと密かにため息を吐いた。
ケツには気をつけろ、なんて。
言われたところでもう手遅れだ。
*
武田花店の店主は、花屋に不釣り合いな厳めしい見た目の大男だ。
信玄、という見た目に相応しい厳つい名を持つその店主は、剃髪に口髭を蓄え深い藍色の作務衣姿、その背丈は二メートルに近い。人柄も愛想も近所の評判も良いのだが、店先の花に誘われて入ってきた一見の客はまず怯む。花屋などよりどこぞの道場主でも務めていた方がよほど似つかわしく思える外見だが、実際に店の裏手に道場も構えていて、夜になると週の半分を近所の子供から大人までを相手に古武道を教えていたりもする。
そしてここ数年、武田花店の店番に若い男が加わった。オレンジに近い色の髪と、愛嬌のある細い目をした色白で痩身の店員。更に夕方になると頭の後ろに長い尻尾を垂らした少年が加わって、店の前の通りに箒をかけていたりもする。
店主も相変わらずの作務衣姿で奥に居て、必要に応じて表に出てくるのだが、主に接客するのが若くて愛想の良い男というだけで店の雰囲気はがらりと変わる。少しではあるが売り上げも伸びた。
置いている花は変わらないのに客足が変わるのだから不思議なものよと、主は店に続く板間で配送用の花を包みながら店内へと声をかけた。
「幸村、佐助! そろそろ閉めぬか」
「わかりましたお館様ぁ!」
「はいよ大将、ちょっと待ってねー」
答える二人は、年季の入った木製の作業台を挟んで向かい合っていた。
佐助は腕組みをして首を傾げながら目を細め、幸村は作業台に手をついて、上目遣いに佐助をじっと伺っている。
「……どうだ?」
二人の間に置かれているのは、小ぶりのアレンジメント。
岩を模した発泡スチロールの鉢に、白いはなみずきをメインに数種類の花が植えられている和風のアレンジだ。
接客や掃除や夕飯の合間に幸村が作ったそのアレンジに、佐助は腕組みをとくと頷いて見せた。
「うん、いいんじゃない? 旦那にしては上出来」
「そうか!」
ぱっと表情を明るくした幸村は、拳を突き上げて大げさなガッツポーズを作る。
「どうする? 売る? これなら店にも出せるけど」
「いや、これは政宗殿に差し上げる」
いそいそとセロファンを引き出し鉢を包む幸村に、佐助はああそうと雑に返し、表の花を店内へと運び入れる作業に取り掛かった。その背に、
「そうだ、佐助。輪ゴムを少し貰っても良いか?」
「いいけど。何に使うの?」
何気なく理由を聞いてしまったのは佐助の痛恨のミスだった。
「いや、政宗殿にな、ゴムを持って来るよう頼まれたのだ」
がこん、と音を立てて、佐助の手から滑り落ちた君子蘭の鉢が固い石畳風の舗装に落ちた。まだ持ち上げたばかりだったこと、プラスチック製の鉢だったことが幸いして、少し土を直せば済みそうだ。
しかし君子欄は軽傷でも、佐助の精神は大ダメージを負った。待て待て落ち着けと、胸の中で自分に言い聞かせる。
落ち着け俺様、旦那だって十七歳の高校生だ。盗んだバイクで走り出す……のは十五だからそれじゃなくて、そうだ、しゃがれたブルースを聞きながらセンチなため息をつく年だ。旦那はブルースなんか聞かないけど、とにかくそういう年頃だ。
動揺のあまりわけのわからないことを考えながら、佐助は表向き冷静に、君子蘭とゴールドクレストの鉢を今度は落とさないよう、慎重に店内の床に置く。
早いようなそうでもないような年齢だが、あの旦那がもうそんな事を、と、考えれば頭が何やらぐらぐらとする。
「うむ……いや、やはりひと箱持って行った方が」
「旦那、ちょっと」
「何だ? 幾らかわからぬが、金なら払うぞ?」
「そうじゃなくて」
店の隅へと手招きする佐助に、首を傾げながら幸村が近づけば、佐助は一度板間を気にする様子を見せた後で幸村の肩を掴んだ。声をひそめる。
「旦那、もしかしてあの大学生と寝た? 寝てないなら、してもいいとか言われたりした?」
確信を持って聞けば、一拍の間を置いて、幸村が顔を耳まで真っ赤にした。
うわマジか。
「な、な、なんで」
「あーはい、んじゃ肯定ってことで話進めるけどね? その場合ゴムって言ったら輪ゴムじゃなくてコンドームじゃないの? 旦那たちの年だとそういう言い方しない?」
「…………あっ!?」
幸村があげた大声は、板間にまで届いた。どころか数件先まで響いただろう。顔を出した信玄が、隅で固まっている幸村と佐助を見て眉を顰める。
「何事じゃ」
「な! なな、何っ、でもっ、ございませぬ!!」
「……何でもないという様子ではないが、まあいいわ」
信玄が背を向けたことを確認して、幸村は佐助へと向き直る。
「いや、しかし! 政宗殿とであれば避妊の必要も」
「男同士だって性病とか怖いでしょ。それに、尻に出すと後で腹下すらしいよ?」
「まことか!?」
「聞いた話だけどね」
しまったああとか何とか呻いて頭を抱えた幸村に、佐助は思わず天井を仰ぐ。
つまり真田の旦那が入れる側で、中で出して始末もしなかったわけだ。知らなかったにしても、それはあの大学生にとっては災難だったろう。
いつからか店の前を通るようになった人物に、一目惚れをしたのだと、幸村から聞かされたのは確か半年ほど前のことだ。とうとう幸村も色気づいたかと話を聞けば、相手は女ではなく男だと言う。
訪れた春はとんだ茨道だった。
佐助としては応援できるわけもなく、しかし諦めろと言って聞く幸村ではない。そのうち玉砕するだろうと放っておいたのだが、まさか成就してしまうとは。予想外にも程がある。
疎いと思っていたらいつの間に、という驚きと。
疎いと思っていたがそこまでとは、という驚きと。
恋人にゴムを用意しろと言われて、輪ゴムを持っていこうとする高校生など世界広しと言えども幸村以外にいないだろう。
「ま、別に輪ゴム持って行ってもいいけどね。えっちなことするなら、そっちのゴムも用意しときなさいよ」
「……うむ、わかった」
項垂れながら幸村は、ラッピングしたアレンジを大切に抱えると板間の上り口の隅に置く。そうして思案げな表情で閉店の作業を済ませ、夕食を片付けまで終えると、いそいそと件の大学生の部屋へと出かけて行った。
「何だい何だい、しけたツラしちゃって。悩み事かい?」
佐助はその後もしばらく複雑な気持ちを抱え、それを偶々現れた、飲み友達である前田青果の居候に指摘された。
「悩んじゃいねえけどさ。何か、息子を育て終えた親の気持ち」
「え? 幸村、何かあった?」
結婚もしていなければ子供もいないが、将来のシミュレーションだけは確実に積まれているのは間違いない。
よくわからないけどとりあえず飲もうぜ、と、佐助は引きずられるようにして酒屋に連行され、慶次と、ザルの店主を交えて朝まで酒を飲まされる羽目になった。
密かに好意を抱いている、佐助にはそっけない態度ばかりを取る金髪の若い住み込み店員の、手作りのつまみにありつけた事だけがその日のささやかな救いだった。
*
窓の外から立て続けに聞こえていた、店先のシャッターが下りる音が消えてだいぶ経つ。ベッドを背凭れに雑誌のページを捲り、政宗はふと、ローテーブルの上の花籠に目を遣った。
最後に花屋の前を通ってから三日が経っている。枯れた物を処分して、室内の花は半分ほどに減っていた。
『あのっ……!』
呼び止められたのは、大学からの帰り道だった。
『迷惑とは思うのだが、貰っては頂けぬだろうか』
花屋の店先だった。突然小ぶりの花籠を差し出されて面食らった。見れば男にしては可愛らしい顔の店員で、明るい髪の色で、似合いのバイトを見つけたものだとそんなことに感心した。
反応に困る政宗に、売れ残ったのだとか、捨てるのもしのびないのだとか、果ては決して怪しい者ではござらぬだとか、言い募るその店員の必死な様子がおかしくて苦笑と共に受け取った。
Thanks, 貰っとくぜ。
そんな返事をしたはずだ。
政宗より年下に見えるその店員の、名前を訊ね、自分の名を教えたのは、二度目に花を受け取った時のことだ。
真田幸村。
復唱した名前が思いがけず舌に馴染んで驚いた。まるでずっと前からその名前を知っていたかのような、奇妙な感覚。
以来雑談なども交わすようになり、幸村が読みたいと言っていた本を政宗が部屋に招いて貸したのがひと月ほど経った頃。気が付けば、時折政宗の部屋で雑誌を見せたり映画を見たりと、何となくそんな間柄になっていた。
店先で花を渡してくることはなくなったが、部屋に来れば、幸村はやはり『売れ残り』の花を持ってくる。さすがに気が引けて断れば、迷惑だっただろうかと、目に見えて気を落とした。その、耳を垂らした犬のような風情に折れたのは政宗だ。
幸村の可愛らしい顔はくるくるとよく表情を変える。
時代がかった言葉遣いを指摘すれば、昔からの癖でどうしても抜けないのだと困った様子で頭を掻いた。
持ってきても構わないが気は遣うなとそれだけ言って、結局、政宗の部屋には花が絶えることがない。
友人と言うより、尻尾を振って懐いてくる犬のようなもの。
そう思っていた。
政宗はふと唇に指をやる。数日前、そこに触れた感触を思い出す。一足飛びに体の関係になってしまったきっかけはというと、その場の流れでとしか言いようがない。
幸村を部屋に上げて、バイクのカタログを広げ、買うならこれだとかいやあっちの方がとかそんな話をしていた時だ。
顔を上げれば、思いがけず距離が近くなっていた。目が合って、言葉が途切れた。
魔が差した。
あの時の空気を言い表すならそれだ。
される、と妙な確信を抱いて、実際その通りになった。
触れるだけの口づけのあと、我に返った幸村は、自分から仕掛けたくせに勢い良く飛びのいてすまぬと勢い良く頭を下げた。
『あァ、……まあ、別に』
謝らなくていい、と、思った通りに口にした。
『……え』
『嫌じゃねえもんだな。意外と。男相手でも』
男同士でキスなどと、想像すれば眉間に皺が寄るが、不思議と抵抗感はなかった。
アンタだからかもしれねえな、と薄く笑えば幸村が目を丸くした。
『その、ならば』
『ん?』
『その、──もう一度、しても』
遠慮がちな幸村の頬に政宗は指を伸ばした。肌が白い。柔らかな皮膚を軽くつまんで引っ張った。
『ガキが。調子のってんじゃねえぞ』
幼子にするようなそれに幸村は少しむっとして、すぐに政宗と距離を詰めた。唇が触れては離れる。濡れた舌が政宗の唇を舐める。それを軽く含んで食んだ。
体重をかけられ、組み敷かれてまさぐられ、背中が痛いとベッドに誘った時に、気の迷いだったと言い訳する逃げ道を失った。もっとも、そんな言い訳の必要もなく、触れてみればそうすることがごく自然な流れであるとそんな気さえして、それは今も変わらない。
自分の名前を幾度も囁く幸村の声の、余裕のない響きに脳髄が痺れた。そこを使ったセックスなど、知識はあっても可能性すら考えた事のない場所に幸村の欲情を受け入れた。
終えてしまえば、幸村はどんな顔をすれば良いかわからない様子で、だから、次はゴムを持ってこいと告げた。
ベッドの下を探れば未開封の箱の一つくらいは出てくるだろうが、構わない、またやろうぜと言ってやるのは何やら腹立たしかったのだ。
不思議そうな顔をして頷いた幸村は、もしかしたら意味を理解していないのかもしれない。
時計を見れば二十時を過ぎている。
夜に本を返しに行っても良いかと、連絡があったのは昼過ぎだ。
政宗は緩慢な動きで起き上がり、洗濯機の上に干してあったバスタオルを手に取った。
*
「おう、真田」
家を出てすぐ、幸村は知った顔と鉢合わせた。
「家康殿。これからでござるか?」
街灯の下で家康は頷いて、肩に担いだ棒袋を持ち上げてみせる。
信玄の道場では幾つかの古武道を教えている。剣術、棒術、柔術、居合。居合の指導は酒屋の店主だ。
幸村は棒術を学んでいて、家康も同じ棒の使い手である。年も近く腕も近く、互いに良い鍛錬の相手となっていた。
といっても、棒を二本使う幸村は多分に我流ではあるのだが。
「おめぇはこんな時間に配達か?」
家康が、幸村の持つアレンジメントに目をとめて言う。
「いや、配達というわけではないのだが……友人の家へ」
幸村は紙袋に入れたアレンジを軽く持ち上げた。バックパックには政宗に借りた本が入っている。
「何だ。じゃあ道場には来ねえのか」
「うむ、すまぬ」
「ま、仕方ねぇ。久々に信玄公に本気で挑んでみるか」
「泣かされぬよう気を付けられよ」
「言ったな」
笑いながら片手を振って歩き出した家康は、すぐに足を止めて振り向いた。
「そうだ。今、ワシが考えた新作のコロッケ並べてんだ。食わせてやるから、おめぇ今度店に来い」
「家康殿が?」
家康の家は肉屋である。肉の小売のほかに総菜なども売っており、コロッケは、注文すればすぐに目の前で揚げるのが売りだ。
「おう。うめぇぞ」
歯を見せて笑う家康に、必ず参ると頷いて、幸村は夜道を急いだ。そうしてふと、今度政宗を道場に誘ってみようかと考える。少し竹刀を握っていたことがあると政宗から聞いた。道場に通ったわけではなく、腕の立つ知人がいて、その人物に教えられたのだとも。
強いかと問えば、その人物としか打ち合ったことがないからわからないという。そしてすぐに、右目の眼帯の脇を叩いて、まあ察しろ、と苦笑した。政宗の右目が一時の怪我ではないと知ったのはその時だ。
確かに、片目が見えなければ不利になる。
けれど信玄の道場は上を目指す人物ばかりでなく、気楽に体を動かしに来る者も多いのだ。それに、と考えて、幸村は片手で口元をおさえた。
道着姿の政宗。
うっかり想像して心臓が跳ねた。それはとても見てみたい。白でも紺でも、政宗にはどちらもきっと似合う。
「うむ。……いや、それは、別として」
誰にともなく言い訳する幸村は、誘うだけ誘ってみようと決意した。
そうして、半ば引きずられるようにして信玄の道場に顔を出した政宗が、酒屋の店主──居合の師範である謙信と、互角に近い打ち合いを演じて幸村を含むその場に居合わせた者たちの度肝を抜くのも。
幸村と政宗が棒と竹刀とで冗談半分に打ち合いをして、奇妙な既視感にとらわれるのも。
もう少し先の話になる。
*
商店街の中ほどに薬局がある。
信玄に負けず劣らず厳めしい顔の店主と、美人の奥さんと、減らず口ばかり叩く生意気な子供、派手な見た目と妙なテンションの薬剤師がいる薬局だ。
幸村はアレンジメントを小脇に抱え、まだ灯りのついている薬局の前を素通りすると、商店街を離れて歩いて滅多に利用しないコンビニエンスストアへと足を向けた。
今回ばかりは物が物だ。さすがに顔見知りの店で購入するのは躊躇われる。
レジにも店内にも知った顔がないことを確認して、幸村は衛生用品の並ぶ一角に目当ての品物を見つけ出した。少し迷った末に、そのうちの一つを手に取った。気恥ずかしくて正視できず、違いも良くわからないので、適当にパッケージの見た目で決めた。
これを買ってこい、と政宗は言う。
つまり、これを使うようなことをしても良いという許可だ。
言われてすぐに気が付けなかったのは不覚だった。いや、言われたときに気付いていたら、あの場でまた抱きしめてしまったかもしれない。
気まぐれにただ一度応えてくれたのかもと思っていたものが。
また、抱かれてくれるのだ。それを思うと、頭に血がのぼる心地がして、幸村は慌てて思考を他へと散らす。
清算を済ませて早く政宗の所に行こう。そう思って、レジに近付いたところで氷菓のケースに目がとまった。ついでにこれも、と一つ二つ手に取って、政宗殿はどれがお好きだろうと考える。上がらせて貰った時に、アイスを出してくれた事があったはずだ。あれは確か。
「おい、赤いの」
記憶を探るのに集中していた幸村は、背後からかけられた声にぎくりとして振り向いた。
「……蘭丸殿!?」
「馬ー鹿、何びびってんだよ」
腰に手をあてて鼻を鳴らすのは、織田の薬局の一人息子だ。正確には養子らしいのだが、詳しい事情は幸村も知らない。
「何だそれ?」
「え? ……あ!」
動揺する幸村の手から、蘭丸が素早くパッケージを奪い取った。
「いや、待たれよ蘭丸殿! それは」
「うっわ、こんなもん買うのかよ! 赤いののくせになっまいき!」
常日頃から、赤を好んで身に着ける幸村を「赤いの」と呼び、さらには「赤いののくせに背が高い」というよくわからない理不尽な理由で目の敵にしている蘭丸である。
その蘭丸に、避妊具の購入現場を目撃された。最悪の状況と言って良い。
蘭丸から商品を取り返し、幸村は目を泳がせる。
「蘭丸殿。過ぎた心配とは思うが、その、この事はどうか内密に……」
蘭丸は丸い目を意地悪く細め、唇の端を吊り上げた。
「まあ、蘭丸も男だし? 別に言いふらす気はないけどさあー」
歌うように言って、蘭丸は頭の後ろで両手を組む。にっこりと笑ってみせた。
「心配なら、お菓子でも口に入れておけば、話したくても話せないんじゃないかな?」
蘭丸は、織田薬局自慢の理髪な息子だ。
五千円をせびられたと言うのと、五百円の菓子を十回奢らされたと言うのとでは、受ける印象が大きく異なるということを理解しているくらには。
食べたかった新商品があるのだと、蘭丸は軽い足取りで別の棚へと歩いていく。
ひきつった笑みを浮かべた幸村は、対照的な重い足取りで、蘭丸の後を追って菓子類の棚へと移動した。
*
風呂で汗を流し、髪を乾かして一息ついたところに、政宗の部屋の呼び鈴が鳴った。
「政宗殿!」
「……おう」
ドアを開けた途端差し出されたビニール袋を受け取れば、中にはコンビニアイスが幾つか入っていた。袋に入った物と、カップのものと。何がお好きがわからなかったので色々買ってきてしまったのだと幸村が笑う。
数日前、花屋の前で出くわした時の耳まで真っ赤にした顔を思い出して、政宗は少し可笑しくなる。あれから三日。寝た日から数えれば六日。今日はさすがに落ち着いている。
玄関に立って幸村は、手提げから取り出したアレンジメントを勝手知ったるとばかりに靴箱の上に飾った。
「それは?」
聞きながら政宗は、キッチンに戻ってアイスを一旦冷凍庫に入れる。アイスキャンディーのソーダ味とみかん味、カップのバニラとチョコミント、かき氷。
「はなみずきでござる。佐助に教わった和風のアレンジで」
「そうじゃねえ」
冷凍室の扉を締めて、政宗は意味ありげに幸村と目を合わせる。
「それの、花言葉は?」
幸村が目を瞠った。すぐに、ばつが悪そうに顔に朱を上らせる。
「気づいていたとは、人が悪うござる」
「今日、偶然な。詳しいダチがいて教えてくれた。──で?」
促されて、幸村は眉根を寄せる。確かに店の在庫から花言葉を調べて選んだ花だが、改めて口に出すのは気恥ずかしい。
俯いて政宗の視線から逃れ、小さく呟いた。
「《私の想いを受けてください》」
「Ha, 文字通り受けてやったじゃねえか。まだ足りねえか?」
鼻を鳴らして、政宗は意地悪く笑う。口の片端を吊り上げた。
「……足りねえなら入って来な」
幸村が息を呑んだ。
少しの躊躇いの後に靴を脱いだ。
歩きながら、背負っていたバックパックを床に放る。
まっすぐに政宗に近づいた幸村は、その勢いのまま政宗の体を抱き締めた。
初めて政宗を見かけたのは、半年前。店先の掃除に出た時だ。
姿を見た瞬間、見つけた、と感じた。
名も知らない。
人となりも、何ひとつ知りはしない。
けれど理由もなくこの人だと、その直感は揺るがずに、彼のことばかりが頭を占めた。じれるような心地が自分の中を焼いて暴れまわり、どうにも手がつけられなかった。これは恋かと、自覚を胸の中で言葉にすれば何故だか泣きたいような思いさえした。男相手にと戸惑う余裕すらなかった。
叶わぬことは承知の上、想いを告げるつもりなどなく、せめて言葉を交わすことができればと、再び政宗が通りかかるのを待ち強引に花を渡した。
名を知って、自分の名も覚えてもらった。だけでなく、部屋に招かれて雑談などできるようになって、それで十分だと思っていたのに。
「……足りぬ」
政宗が喉で笑うのが、抱きしめた体の振動で伝わる。
「呆れた強欲と笑ってくだされ」
「強欲? 上等じゃねえか。足りねえならテメエの口で言え。こんな花じゃなく、な」
背を辿った政宗の手が、幸村の長い後ろ髪を引くように梳いた。
促されて、幸村は回した腕に力を込める。
「政宗殿が好きだ」
訴えるように口にした。
「政宗殿が、好きだ。本当に」
そんな言葉では気持ちに足りない。足りないが、そんな言葉しかないことがもどかしい。
「もうずっと、ずっと長い間、想っていたような気がするのだ。……自分でも、おかしいと思うのだが」
部屋に上がったばかりで、こんなに性急に求めるつもりはなかったのに、欲する想いが堰を切った。
呼気を奪い尽くすようにして夢中で唇を合わせ、肌を辿りながら互いの服を脱がし合う。さなか、あ、と政宗が声をあげた。
「ちっと待て。アンタ、アレ持ってきたか?」
「アレ?」
聞き返してから、「アレ」の示す物に思い至った幸村は、慌ててバックパックから箱を取り出した。すっかり失念していた。佐助の言うことが本当ならば、中に出すのはまずいのだ。
「Good boy. 泊まりは平気だよな」
少し前に、シリーズ物の海外ドラマを二人徹夜で見た事があった。
「あ、──しかし、明日はゴミの当番が」
「ゴミ?」
このあたりは明日が燃えるゴミの回収日だ。家でゴミを集積場に持っていくのは幸村の役目の一つである。
それなら、と政宗は幸村から体を離し、洋室の小物入れを漁ると何かを幸村へと無造作に放った。広げた手の中へ着地したそれは、銀色の鍵だ。
「ついでだ。それ、頼んだぜ」
政宗が指差したダイニングキッチンの隅には、口を縛ったゴミ袋がひとつ置かれている。魚捌いたから出しそびれたくねえんだ、と政宗が言う。
「承知した。鍵は、次に来た時に必ずお返し致す」
「構わねえさ。スペアだ。やるから持ってろ」
「え」
「どうせ、また使うだろ」
そっけなく言って政宗は、窓際のベッドに腰かけた。カーテンは閉じている。上半身はは幸村がすべて脱がせてしまった。緩めたジーンズのあわせから紺色の下着が覗いている。幸村は手の中の鍵と政宗とを見比べる。
ゆったりと笑う政宗が艶かしく見えて、幸村は生唾を飲み込んだ。
「来いよ。足りるまで喰っていいぜ?」
挑発した政宗は、幸村に抱きつかれ、その勢いで縺れるようにして背中から布団に倒れ込んだ。
瞼を閉じて、ふと思い出す。
幸村と寝た朝に夢を見た。
印象的で、妙に鮮明な夢だった。
けれど、目が覚めた時には全て覚えていた筈のそれは、瞬き一つの間に薄れて消えた。ただ、駆け出したいような、たまらなく高揚した気分で誰かを待っていたのだと、そのことをぼんやりと思い出した。
歓喜に叫び出したかった。
自分を目がけて向かって来い。
真っすぐに心臓を狙ってこい、と。
そんなことを考えていたはずだと、掴みかけたところで体が跳ねた。
「あ……ッ……!」
抜き差しする幸村に感じる場所を刺激され、鼻にかかった喘ぎが漏れた。
ゴムは政宗が着けてやった。もたつく幸村を見かねての事だったのだが、ゆっくりと根元まで下ろした後に悪戯心で先端に口づけてやれば幸村は面白いほどに狼狽えた。そんな様子を可愛らしく思っていたが、政宗を組み敷き、体を繋げる頃には立派な雄の顔だった。
「政宗殿の、声は」
動きを止めた幸村の掠れた声が囁いた。
照明の逆光の中で、困ったような笑みを浮かべている。
「心臓に悪い。……血が、沸騰するようで」
抑えが効かなくなりそうだ、という幸村の顔に手を伸ばし、政宗はその頬を平手で軽く叩いてやる。
「抑える必要もねえだろ。それに、アンタの声も大概だ」
「……そうだろうか?」
「オレには、な」
幸村が何かを言う前に、政宗は腕を伸ばして幸村を引き寄せ、唇を唇で塞いだ。
結合が深くなる。夢中で舌を絡める合間に、幸村の手が政宗の股間を包んで先端を刺激した。離れた唇が胸を含む。熱い舌が乳首を転がし、吸い上げて舐る。
「は、ア……ッ」
ずっと前から想っていたような気がすると、幸村は言う。
ずっと前から知っていたような気がすると、政宗は名を聞いてそう思った。
もしかしたらもう記憶にない、幼い頃にでも会ったことがあるのかもしれない。そう考えてもみたが、忘れているのだからどうでも良い事だ。
「……ッ」
幸村の肩を押して体を離した。ずるりと引き抜かれる感覚が悦くて、こぼれそうになる声を堪える。
「ちっと、……寝てろ。動いてやる」
主導権を握られっぱなしは性に合わない。仰向けにさせて跨がれば、横たわった幸村の目が情欲に濡れている様がよく見えた。握った雄を後ろへと宛てがってゆっくりと腰を落とす。動画の類の見よう見まねだが、先程までの結合で馴染んだ場所は容易く雄を呑み込んだ。
「ん、……」
幸村の反応を見ながら腰を上下させる。濡れた目元を赤く染めて、幸村が声を堪えながら政宗を見上げている。政宗は片手で体を支え腰を動かしながら、もう片方の手で、その視線に見せつけるように自分の胸を指で弄った。喉で笑う。
「すげ、イイ……真田」
「……っ!!」
幸村が政宗の腰を両手で掴んだ。
「あ、……ッ」
ふいに下から激しく突き上げられて、政宗は声を上げる。
「テメ……待てって…!」
待てぬ、と吐息のような掠れ声が言った。
ベッドがぎしぎしと軋む。皮膚のぶつかる乾いた音。
「あ、あ、……ッ、く……!」
突き上げられて、快楽を引きずり出されて、いつしか夢の事も忘れ記憶の奥底に沈んで、それきり思い出すこともなくなった。
*
魚屋の朝は早い。
夜も明けないうちから魚河岸まで車を出して、最初の仕入れから戻ってきた元親は、商店街にほど近い交差点の信号で停止しながらふと目にとまった人影におやと目を見開いた。
幸村だ。
数年前から花屋に住み始めた高校生。後ろ髪をひと房だけ長く伸ばした特徴的な髪形は、遠目にも見間違えるはずがない。
普段の気の抜けるような笑顔からはあまり想像できないが、幸村はあれでなかなかの棒術の使い手だった。得物を持たせると顔つきが変わる。信玄の道場に遊びに行ったときに手合わせをしたことがあるが、腕の鈍っていた元親はものの見事に負けた。
その幸村は、平日だと言うのに私服姿でアパートの階段を下りて来ると、抱えていた半透明のゴミ袋を電柱脇の集積場に置いた。信号を渡って花屋の裏手へと駆けて行く。
友達でも住んでいるのかと見上げたアパートは、考えるまでもなく、つい先日訪れたばかりの。
「何をしている」
助手席から声をかけられ、見ればいつの間にか信号は青に変わっていた。元親は慌てて、それでも慎重にアクセルを踏む。このあたりは信号どころか車も気にせず、歩道の植え込みの陰から飛び出して無理な横断をする歩行者が多いのだ。早朝とはいえ、油断はできない。
「運転中に呆けるな」
厳しい声音はいつものことだが、悪い、と謝って元親は助手席を盗み見た。
涼しげな顔で座っている幼馴染みの茶屋の店主は、潮の匂いに呼ばれるのだと言って、時折魚の仕入れに付いてくる。
買うわけでなく、手伝うわけでもなく、ただ付いて来ては元親が仕入れを済ませるまでの間、あたりをふらりと歩いている。
潮の匂いに懐かしさを感じるのだと、それは元親にも理解できるような気がした。海にはそう思わせる何かがある。
それならばと幾度か磯釣りに誘ってみたのだが、不思議とそれには乗ってこない。市場などよりよほど潮風と波の音とを堪能できるというのに、つれない話だ。
政宗の住むアパートが、元親の横顔の向こう、助手席の窓の外を流れていく。
政宗の部屋にいたとは限らない。
けれど村と政宗は年も近い。自分がそうだったように、何かの拍子に知り合って意気投合したとしても何の不思議もないのだが。
政宗の部屋に飾られた、熱烈な花言葉の贈り物。
幸村の朝帰り。
武田の花屋。
考えて、元親は片手で顎をさする。
別に男同士だろうと、元親に偏見はない。それどころか同じ穴の貉なのだが、あの二人が、と思えば何とも言い難い気持ちになった。特に幸村は、中学に上がるか上がらないかという頃から見かけて構っているのだ。
その幸村が、あの政宗に。
やはり武田の花屋に勤める、気の合う男を思い出す。
佐助は知っているのだろうか。知っているとしたらあれも色々複雑だろう。信玄と揃って幸村の親代わり・兄代わりのようなものなのだ。探りを入れて、場合によっては愚痴でも聞いてやったほうがいいのかもしれない。
それから。
「なあ、元就」
呼びかけるが元就からの返事はない。
「糸垂らす気がねえなら暇かもしれねえけど。まな板と、包丁と、醤油とワサビ持ってさ。釣った魚、その場で捌いて食わせてやっから」
それでも狭い車内だ。聞こえていないはずはないのだと、元親は構わず続ける。
「今度、ほんとに釣りに付き合わねえか?」
つれない魚も、根気よく糸を垂らし続ければかかる時が来るかもしれない。
返事を待ちながらふいに喉元に上がってきたあくびをひとつ噛み殺して、確認したバックミラーの中に、今度は花屋のゴミを抱えて出てきた幸村が映る。集積場にゴミの袋を積み上げて、視線が上を──政宗の部屋の、今はカーテンの閉ざされた窓を見上げた。
元親は苦笑する。
片想いか、両想いか。今度政宗にも探りを入れてみようと考える。
交差点を曲がり、元親の店の裏口が視界に入ったところで。
「……考えておこう」
「マジかよ?」
「考えておく、と言っただけだ」
元就の、常通り感情の伺えない冷めた横顔。
抑揚なく呟かれた、それでもこれまでで一番の色よい返事に、元親は小さく快哉を叫んだ。
サイト再録用に修正:2020.09.18