喪失

 汚れた布を桶の水に浸し、些細な衣擦れの音にも気を配りながら幸村は静かに立ち上がった。
 燭台の火を吹き消せばひととき視界が利かなくなるが、すぐに闇に慣れた目が障子に濾過された月明かりを拾う。 薄闇の僅かな濃淡でかろうじて室内の様子が見て取れる。纏い付く夏の終わりの空気は湿り気を帯びて暑く、全身は生乾きの汗で濡れて、水を使っていた両の手だけが今は程良く冷えていた。
 表では虫たちが鳴いている。
 そのことに気付いたのはつい先刻だ。
 高く涼やかなその音はまるで室内で鳴いているかのようで、だというのに長いあいだ幸村の耳には届かなかった。聞こえなかったのだと、自覚した時には愕然とした。
 それほど余裕なく過ごしていた。
 耳に届いていたのはただ一人の声だけだった。
 熱に浮かされたかの心地で時間は過ぎ、今はまるですべてが夢だったかのように室内には静けさが訪れている。けれどそこに満ちる空気には未だ、忙しなく弾ませた吐息の温度、その名残が、濃く漂っているように感じられて幸村はふいに目を細めた。
 初めて、触れた。
 体を繋げた。
 虫の音の合間、室内には微かな寝息がひとつある。奥州筆頭。独眼竜。そのどちらの呼称も、いま無防備に薄布一枚で横たわる姿にはそぐわない。
 その体を組み敷いていた。幸村の上で乱れもした。
 幾度目かに達した後、呼吸を整えている間にも怠いと呟いていた政宗は、汚した体をせめてもと布で拭うあいだに寝入ってしまった。そのまま構わず汗と汚れとを拭い続けたが、幾度か身じろぎはしたものの目を覚ますには至らなかった。眠りは深いようだった。
 幸村の閨事の知識はごく乏しい。経験などありはしない。それでも、政宗が感じていたのが快楽ばかりではないことは見て取れた。一方的に負担をかけた。疲労に負けて眠りに落ちた姿を思えばひたすらに申し訳なさを覚え、その反面、自分の前で意識を手放した無防備な様が嬉しくもある。また嬉しくもありながら、胸の奥に、奇妙な心地の悪さが在るのも感じていた。
 落ち着かない。
 いたたまれない。
 心がざわついて不安定だった。
 それらを振り切るようにひとつ頭を振って、幸村は桶を手に天井を仰いだ。次いで、月明かりに白く照らされた障子を見遣る。
「佐助」
 潜めた声で呼べば、すぐにその向こうに影がひとつ、薄墨の染みのように現れた。
 影は縁側に片膝をついた姿勢で頭を下げる。
 幸村は政宗を気にして一度振り向いた。
 寝返りもしない輪郭は滅多なことでは起きないように思えたが、足音を立てぬよう慎重に歩を進める。膝をついて障子を引けば古びた木枠は抵抗しながら桟を滑り、途端に吹き込んできた風の清冽さに幸村は思わず息を吐いた。
 そうして外へと身を乗り出せば、姿勢を低くしたまま視線だけを上げた忍と目が合った。閨の警護を頼んでいた佐助には当然すべて聞かれていたのだと、今更ながらに考えて、幸村は自然ばつの悪い顔になる。
「……その」
 言い淀んだ幸村の傍らに置かれた桶を見て、佐助は目を細めると片手を主へと差し出した。
「はいはい、っと。片づけますよ」
「すまん」
 渡された桶を地面へ置くと佐助は縁側に胡座をかき、指先で縁板を軽く叩いて隣を示す。少しの躊躇のあとに幸村は寝間から這い出して、障子を閉めると佐助の隣に腰をかけた。
 房事の首尾について言及されるのだろうかと身構えたがそれは思い過ごしだったようで、佐助は幸村の眉間を指先で軽く二度叩いた。
「寄ってる」
 笑い含みに言って、佐助は軽く首を傾げた。
「浮かない顔じゃないの。何かあった?」
「いや……何も。何故だ」
「そう? 本懐遂げた男の顔には見えないから、俺様てっきり失敗でもしたもんだとばっかり」
「……そういうことを口に出すな」
 思い過ごしというのは早計だったらしい。弱い月明かりで表情を見て取ることはできないが、にやついた笑みを浮かべる佐助の顔は想像に易い。
「図星? うっわ旦那恥ずかしー」
「だから口に出すなと」
「一度女か小姓で練習しとけばって、俺様があれだけ言ったじゃないの」
「うるさい! 失敗などしておらぬ!」
 ひそめた声で言い放った後、たぶん、と付け足された言葉に佐助は息のみで笑いを漏らす。それへと不機嫌に唇を尖らせて、幸村は縁側から垂らしていた足を胡座に抱えた。
「どうせ、聞いていたのではないのか」
 羞恥心が手伝って、そんな筋合いはないとわかっているのに言葉は責める調子になった。渋る佐助に、お前しかおらぬのだと頼み込んだのは幸村だ。
 しかし佐助はそんな棘など気にした様子もなく、常通りの飄々とした声で言う。
「護衛なら、ね。してましたよ。俺様そりゃあもう勤勉な忍ですから」
「……それなら……その」
「あ、失敗がどうの言っておいて何だけど、上手くできたかどうかなんて俺様に聞かないでよ。忍の耳は遠くの音を聞くこともできるけど、近くの音を聞かないこともできる。ってさ、知ってるでしょ」
「……うむ」
 幸村は短く頷いた。聞かなかった事にしてくれるのならばそれで良かった。
 ざわざわと風が庵を取り巻く竹を揺らす。
 見上げれば黒い竹林の上、空の高くにあるのは、政宗の兜の前立てに似た細い月だ。星を従えて天に在る。
 ふいに、腹の底に熱が点った。
 体の中に埋み火があるかのようだと、幸村は鳩尾のあたりに手で触れた。政宗を思えば途端に灼熱に変わる火だ。
 なにひとつ纏うもののない他人の素肌を、あれほど近く、あれほど長く感じていたのは初めてのことだった。触れ続けていた肌の感触を失ったせいか、今も体の表面に奇妙な違和感があるような気さえする。大抵の人がそうであるように政宗の体温もまた幸村のものより低く、けれど体の中は眩暈がするほどに温かかった。思い出せば自然、顔が熱くなる。
 もっと甘やかなものだと思っていた。そうではないのだと知った。いや、甘くもあったのだが、それよりも熱い。交わるというより奪い合う、貪り合うと表現した方が幸村の印象に近い。
 濡れて、掠れて、熱を孕んで、ゆきむら、と名を呼ぶ声。
 全てを晒して体を重ねた。欲しいという感情に、溺れるままに抱き合った。
 それは、政宗への想いを自覚して以来絶えず心を蝕んでいた欲望、確かに自分が渇望したものであったのだけれど。
「佐助。……俺は」
 また、胸の中が波立った。揺れる竹林に呼応するようにざわざわと騒ぐ。手で触れたあたりの胸が、きつく締め付けられるような落ち着かなさ。
「俺は、何か、間違えたような気がしてならぬのだ」
 絞り出した言葉に、佐助が驚く気配があった。
「何それ」
 短い声には咎める響きが乗せられている。それもそうだ。個人的な文の遣り取りで甲斐と奥州とを往復させられ、こうして逢い引きの護衛にまで駆り出されている佐助は、幸村の恋情の最大の被害者とも言える。ねえそれって忍の仕事なの? とのぼやきは、ここ最近で最もよく耳にするようになった言葉だ。
「いや、政宗殿への想いは変わってはおらぬ。体を許して貰えた事も、俺には過ぎた夢のようだ。……ただ」
 言葉を切って、幸村は痛みを堪えるときのように目を細めた。
 何かを失くした。そう感じていた。何を失くしたわけでもないのに、それでも何かを失ったのだと、そんな気がしてならなかった。
 自覚してしまえば耐え難いほどの喪失感が胸の中央に居座って、意味もなく駆け出し、童のように地を踏み鳴らして叫んで喚きたい、そんな衝動が体中を駆け巡った。
「俺は……もう、以前のように、政宗殿に刃を向けることが出来ぬのかも知れぬ」
 心の中を探りながら言えば、間髪おかずに佐助が小さく吹き出した。
「何がおかしい」
「だって、そりゃねえよ真田の旦那」
 あんた自分を誰だと思ってんの? と、続けられた言葉に幸村は目を瞠り、苦く笑ってそうだなと呟いた。
「そうだな。違うな……」
 自分が息をする場所は戦場だ。自分の居るべきところだと感じられる場所だ。
 どれほど愛しくともそこで会えばきっと、躊躇うことなく槍を向けることが出来る。まして相手は独眼竜。対峙して血が沸き立たないわけがない。
 ――では、この喪失感は何だ。
 思案に沈む幸村の横顔を眺めていた佐助は手持ち無沙汰に耳の後ろを指で掻いて、ふと思い出して腰のあたりを探ると細い竹の水筒を幸村へと差し出した。促すように振られた竹筒の中で、水の跳ねる涼やかな音がする。受け取って口を付けて、幸村は喉の渇きに気付かされた。甘露が舌を湿し、喉を滑り落ちて全身へと染み渡る。
「何が怖いの、真田の旦那」
 唐突に言われて、幸村はぎこちなく首を巡らせて佐助を見た。
「独眼竜の旦那が、変わっちまいそうで怖い?」
 はっきりとは見えない佐助の表情を、読み取ろうと幸村は薄闇に目を凝らす。
「いや。あれくらいのことで政宗殿が変わるとは思えぬ」
「じゃあ竜の旦那を見る目が変わるのが怖いとか、そんなとこ?」
 言って、佐助が口元に笑みを浮かべたのが見て取れた。嫌な笑い方ではない。幸村を気遣う穏やかな笑みだった。半月を描いた目の色が深い。
 ああ、と幸村は小さく声をこぼした。
 佐助の言葉は自分の気持ちとはまだずれがあったが、それに導かれて胸に答えが落ちる音を心のどこかで聞いた。そういうことかと理解して、こみあげた可笑しさにくしゃりと顔を歪ませる。
「そうだな。……それが、多分、近い」
「そう?」
「ああ。佐助はまこと頭が良いな」
「旦那は馬鹿だよね」
 そう言って浮かべられた悪戯な笑みに、幸村は少しの後で頷いた。
「そうかもしれぬ」
 目の前の竹林がまた風に揺れて騒ぐ。それへと気を引かれて視線を移し、
「……そうなのだろうな」
 呟いて瞼を閉じた。竹が揺れる。ざわざわと笹が鳴る。思い出す。耳の奥で、空気を震わす鬨の声を聞いた。


 物見がその報を運んで来た時には、既に戦場の一角に伊達の旗印が雪崩れ込んでいた。
 そこからの攻撃はないだろう。そう踏んで警戒もしていなかった急斜面を、騎馬で下っての急襲だった。
 信玄の指示を受けて手綱を握り、混乱の中を兵たちに檄を飛ばしながら前線へと駆けた。
 渇いた大地。土煙。先陣を切って刀を振るう人物がまさか総大将だなどとは思わなかった。人馬の足音、鎧の鳴る音。雄叫び、馬の嘶き、響く剣戟。何千何万の人間が入り乱れる戦場で、強烈に目を引きつけただ一人のひと。
 目にした刹那、音が消えた。
 世界にその人しか居なくなった。見えなくなった。
 全身の皮膚が粟立った。
 陽を受けて輝く細い細い下弦の月。その下で自信を湛えて細められたひとつ目の、双眼の光を一所に集めたかのようなつよさ。
 体の一部であるかのように自在に操られる六本の刀が、まるで長い爪のようだった。
 人でない生き物のようだと感じた。
 体から青い燐光が立ちのぼるのすら見えたような気がした。
 右の瞼を覆う眼帯に、あれが噂に聞く独眼竜かと理解した。なるほど竜とはよく言ったものだと感嘆した。

 初めて抱く感情に突き動かされ、焦燥に駆り立てられるようにして執着し、執着され、距離を詰めたのはまるでぶつかり合うようにして、さほどの時間はかからなかった。
 触れてみれば人だった。
 そのことに安堵した。
 肌は滑らかで温かく、その体に余すところなく口づけた。
 人目に晒されることのない、陽を浴びない衣の下の肌に吸い付いて幾つも跡を残した。貫いて揺さぶれば腕の中で跳ねた。掠れた声が甘やかに濡れて自分の名を呼ぶのを聞いた。
 手に入れた、とは思わない。
 脚を開いて雄を受け入れ、体液でしとどに汚れても、戦場に立てばあの竜は再び燐光を放つのだろう。そうして抑えようもなく、自分を闘争へと駆り立てるのだろう。
 けれど。
 もうきっとあの時のように、人でない生き物のように、得体の知れない強大なもののように、そんな風に政宗を見ることはできない。
 欲しい、愛しいと思う気持ちは偽りなく真実で、体を重ねても未だ募るばかりで足りなくて、それでもそんなことが苛立つほどに悲しいのだと、理解して、幸村は唇の内側をきつく噛んだ。
 酷い話だ。そう思った。
 馬鹿と罵られるのも仕方がない。
「とりあえずそれ、竜の旦那には言わない方がいいと思うぜ。ヤった挙句に言うことかって、刀抜かれて首落とされたりして」
 おどけた風を装った佐助の言い様に、幸村は目を細め、そうだなと同意していびつな笑みを浮かべてみせた。眉根を寄せて無理に浮かべたそれはどこか、泣き出す前の表情に似ていた。




 欲した人を手に入れた。

 ――畏れた敵を失った。

2006.01.29発行/サイト再録用に修正:2012.11.30