眠るための呪文

 政宗の耳は良い。
 片目を失って以来、それを補うように鋭くなった。
 器官のひとつを失えば他がそれを補おうとする、意識して磨くのが良いだろうと、幼い政宗に言ったのは家臣のうちの誰だったか。覚えてはいないけれど、失ったという言葉に政宗は激高し、反発した。自分の右目がもう二度とものを映すことはないのだと、事実として認めはしても心に受け入れる事は容易くなかった。
 けれど落ち着くに連れ、時折そのことを思い出しては、残されたひとつ目を閉じて耳を澄ますようになった。
 意識して訓練すれば、聴覚は一層鋭くなった。
 他の誰もが聞き逃す些細な物音を拾うことができた。
 家人の足音を判別することは勿論、町に出れば、幾重にも重なる雑多な物音や話し声のひとつひとつを聞き分けることができるようになった。忍にも優ると称されたその聴覚は、政宗がいくさ場に立つようになってからは、生来の直感に並んで身を助ける力となった。
 けれど今は、その耳に何の音も届かない。
 寝所に横たわり、目を閉じたまま政宗は耳を澄ましていた。昨夜からの熱がまだ引かず、重く怠いばかりの体を持て余す。全身が焼かれたように熱く、同時に酷い寒気があった。
 瞼の向こうはほの明るく、目を閉じていても日が高いと判るほどで、ならば立ち働く家人がいる筈だったが不思議と何の物音もない。気配もない。熱で耳が鈍っているにしてもあまりにも静かで不自然だった。
 は、と政宗は熱い呼気を吐く。渇いた舌がひりつくようだ。
 息が熱い。
 水が欲しい。
 渇きに耐えかねて起きあがろうとしたが、体は言うことを聞かなかった。瞼を開けることすらできはしない。近くを人が通るのを待つが誰も来ない。
 おかしい、と、幾度目かに考えた。
 自分が床に伏せていれば誰かが傍らにいるはずだ。乳母か、近侍か、必ず誰かが。
 風のない日は珍しくもないが、鳥の鳴き声も羽音もないのはどういうことだ。池の鯉や蛙が跳ねて水を鳴らすこともない。
 生き物の気配がない。
 誰もいない。
 命あるもの皆死に絶えて、ただ一人取り残されたかのようだ。
 そんな錯覚に陥って、急に不安に襲われた。
 手探りで布団の外へと手を伸ばしても、冷えた畳の目を掠るばかり。
 誰か、と声にせずに助けを求めたが答えのあるはずもない。
 体が熱い。そして寒い。関節はしきりに痛んで自分のものではないようだ。骨から肉が浮いたようだ。水が欲しい。声が出ない。……何故、誰もいないのだろう。
 呻きながらどうにか寝返りをうって息を吐き、政宗はふと、遠くに微かな足音を聞いた。朦朧と霞む意識の中でそれを捉え、こちらに来いと念じながら耳を澄ます。
 足音はひとつきり。静かに回廊を渡り、政宗の居室へと近づいて来る。確かに覚えのあるその足音は、けれど咄嗟に誰のものとも判らない。
 男のものではなかった。軽い音だ。女の体重だ。衣擦れを伴って優雅に歩く。
 ……懐かしい足音。
 気付いたと同時、胸に、締め付けるような痛みを感じた。
 足音は政宗の部屋の前で止まる。するりと障子の木枠が擦れる。緩く吹き込んだ風に乗って、いつか嗅いだことのある香の匂い。
 来てくれたのか。
 案じてくれたのか。
 瞼を開けようとしたが、貼り付けられでもしたかのように動かない。名を呼ぼうとしたが、喉は渇いて声にならない。
 足音は戸口で止まったきり、そこから一歩も動かずにいる。
 政宗を見ている。
 視線が皮膚を刺す。
 冷たい針のようだ。
 そう感じて、全身の血が引いた。背筋を震えが駆け上る。
 耳元でうるさく鼓動が鳴る。
 ――お前など。
 覚えのある声が言う。
 聞きたくない。耳を塞ぎたい。願うが、手も足も動かない。
 吐き出された声の、温度の低さ。
 ――そのまま……でしまえば良いものを。



「――――ッ!」
 飛び起きざま、小刀を抜き放って突きつけた。布団の下に忍ばせてある護身用の小刀だ。手探りで掴み、飛び起きた拍子、あれほど重かった左の瞼が容易く開いた。
 視界に鋭利な光が閃く。
 傍らに座した人影が咄嗟に身をひく。
 強い力が、空を切った政宗の腕を捕らえて掴んだ。
「政宗殿!?」
 その、驚きを乗せた声。政宗は我に返り、刃を向けた人物へと焦点を合わせる。
 振り上げた腕を片手で受け止め、焦げ茶の目を瞠っているのは鮮やかな紅を纏った人物。
「あ……?」
 目を見開き、次いで幾度も瞬きした。
 視界にいるのは幸村だった。真田幸村。視線だけで恐る恐る周囲を見回すが他に誰の姿もない。あの時嗅いだ香の匂いもない。
 引きずっていた夢から今度こそ覚めて、現状との差異に政宗は混乱し、ただまっすぐに幸村を凝視して言葉を失った。
「大丈夫でござるか、政宗殿」
 驚いた様子の幸村は、けれど気遣わしげな表情で政宗の様子を伺って来る。
「……真田」
 確かめるように名を呼べば、幸村がふわと笑んだ。
「左様、幸村でござる」
 その笑みと、柔らかな声に、政宗は詰めていた息をゆっくりと吐いた。力を抜く。そうしたことで、全身がひどく緊張していたのに気付く。
 未だ速い気のする鼓動を整えながら、ひたと注がれる幸村の視線から政宗は気まずく目を逸らした。
「……悪ィ。間違えた」
 半ば意味の通じない謝罪だが、幸村は追求もせずに、掴んでいた政宗の手をそっと離した。
「いや、某こそ、声もかけずに申し訳ござらぬ。無礼かもと思ったのだが、眠っておられたので起きるのを待たせていただいたのだ」
 自由になった手を下ろし、小刀を布団の脇に放り投げて、政宗は背中から布団に倒れ込んだ。急激に動いたせいで頭の芯が割れそうに痛む。
 幸村の手が伸びて政宗の上掛けを直し、胸の上へと引き上げる。そのまま汗で濡れる額に触れた。困った様子で首を傾げる。
「下がりませぬな」
 常ならば自分より高い体温を伝えてくるその手が、今日ばかりは冷たく感じられる。そのことに、熱の高さを実感させられて政宗はうんざりと顔を歪ませた。
 こんな風に寝込むのは久し振りのことだった。ここ数年はなかったことだ。
 原因はわかっていた。
 つい先日、先の戦の論功行賞を終えたのだ。数ヶ月を費やした作業だった。戦は好きだがその後の始末は頭が痛く面倒なばかりで、ようやく一段落着いた、と、気を抜いた途端に熱を出した。
 無理をしたつもりはなかったが、気疲れが積もっていたのかもしれない。
 あの糞面倒な作業のせいだと小十郎に愚痴れば、それではこれは知恵熱ということですかなと混ぜ返された。その小十郎は、昨日から政宗の代理で外に出てあと数日は戻らない。
 傍らに付き添おうとした家人は下がらせた。
 子供ではないのだから側に居られても息が詰まる、時々様子を見に来れば良いと言って人を払った。
 しかし目が覚めて幸村が側にいるとは予想外にも程があった。夢から覚めて、まだ夢を見ているのかと思ったほどだ。
「いつ、来た」
 障子から射し込む光は淡く弱い。朝か、それとも空が曇っているのか。考えながら政宗は、幸村の手が額から離れるのを少しばかり名残惜しく見送る。
「ほんの半刻ほど前でござる。政宗殿が寝込んでおられると言うので、頼んで看病に付かせて頂いたのだ」
 ということは後者、光の具合からおそらく夕刻に近いだろう。朝には食事と薬を摂らされたので、半日ほど眠っていたことになる。
「へえ。許可出した馬鹿は誰だ?」
「成実殿でござる」
「It'ss fine. あの野郎あとでシメてやる」
 調子の良い従兄弟の顔を思い浮かべて政宗は舌打ちする。
 そうして口から漏れる息の熱さに辟易しながら、額に滲む不快な汗を手の甲で拭った。
「けど、居たのがアンタで助かった」
 深く息を吐いて瞼を上げれば、不思議そうな幸村と目が合って、
「怪我、ねえか。腕とか」
 夢うつつの事とはいえ、本当に斬りつけるつもりは政宗にはなかった。なかったはずだ。だが、熱で手元が狂う可能性はあり、小刀を突きつけた先に居たのが武術を不得手とする者であれば傷を負わせることになっていたかもしれなかった。
 訊けば、その言葉で腑に落ちたようだった。寝起きざまに政宗の攻撃を受け止めた手を持ち上げて示し、幸村は大きく頷いてみせる。
「ご覧のとおり、心配ご無用にござる。しかし、まこと心臓には悪うござった。何か物騒な夢でも見ておられたのだろうか」
「……まあ、そんなとこだ」
 夢。
 考えて、頭が痛んだ。
 夢だ。ただの夢だった。現実にはなかったことだ。記憶の再生などでありはしない。
 ふいに近くで水音がして目を遣れば、いつの間にか幸村が、水を満たした桶に手拭いを浸して絞っているところだった。
「失礼致す」
 律儀に断ったかと思うと額から頬へと手拭いが這わされて、政宗は目を閉じた。そうすれば、閉じた瞼にも布が触れる。不快に汗ばんでいた感触が拭われる。顔を拭い終えて、首へ。ひやりとした布の温度が心地良い。
 首から、見える部分の胸までを拭って幸村はまた手拭いを桶へと浸す。水音に、政宗は喉の渇きを思い出した。
「そうだ、政宗殿。腹など減ってはおりませぬか? 粥でも果物でも甘味でも、食べられそうなものがあればなんなりと言って下され」
 幸村の声はなぜだか少し楽しげだ。
「……いらねえ」
「ならば水はいかがでござろう? 湯冷ましを用意してあるのだが」
「それよりも、誰か呼べ。誰でもいい。で、アンタは下がれ」
 手を止めた幸村が、大きな目を丸くして政宗を見る。
「嫌でござる」
「あ?」
 きっぱりと言い切られた。
「誰でも良いのであれば、某で我慢して下され」
「アンタは駄目だ」
「何故でござるか」
 食い下がられて、政宗は舌打った。
 病がうつる、と小声で言えば、幸村はなぜだか満面の笑みを浮かべてみせる。
「ならば、むしろ適任でござる。某、生まれてこの方病を患ったことがないのだ」
「は……、Really?」
「まことでござる。城じゅうの者が咳をしているような時でも某ひとり平気でござった。それに、うつったとて一両日ほど熱が出て過ぎる病だと重実殿からお聞きしている」
 なるほど馬鹿と何とかというやつかと、政宗は内心で呆れるが悪態を突くほどの気力もない。
 幸村は傍らで、指折り理由を数え始める。
「熱の様子を見なけばならぬし、汗を拭いて差し上げねばならぬし、夕刻には薬湯が届くのだ。某が飲ませて差し上げたい。それに、病を患ったときは不安になるものでござろう? 政宗殿が目を覚ました時すぐ側に居たいのだ」
「アンタ、病に罹ったことねえんだろうが。何知ったような口利いてやがる」
「病はないが、怪我で床に伏せったことならばある。痛くて、体が熱くて、心細うござった」
 再び水音がして、幸村が絞った手拭いを軽く広げる。上掛けの上に出していた腕を取って、袖を捲くって、丁寧に腕を拭っていく。それを黙って眺めながら、政宗は目を細めて言う。
「……また、寝惚けて切りつけるかもしれねえぞ」
「構わぬ。病人に斬られるほど府抜けてはおりませぬ」
「Ha, 言うじゃねえか」
「うむ、……しかし」
 頑として譲らなかった幸村の口調が、少しばかり弱気なものになった。
「本当に迷惑ならば、戻りまする」
 言いながら、幸村はもう片腕の袖をまくり上げて同じようにそちらも拭う。
 手指までを拭い終えるのを待って、政宗は口を開いた。
「……白湯」
「え?」
「湯冷ましだ。あるっつったろ? ねえなら持って来い。喉が渇いた」
「あ。こ、ここに」
 肘をついて背を起こせば、途端にぐらりと頭が揺れた。幸村の手が添えられて政宗の上体を支え起こす。
 口元に湯のみを宛てがわれて、慎重に傾けられる器から白湯を飲んだ。
 夢の中でまで乾きを覚えるほど欲した水分が舌に甘く、喉を慣らして飲み干して、離れようとした湯のみをつい唇で追いかけた。もうありませぬ、と、幸村が言う。
「お待ちくだされ。すぐに次を用意して参る」
「あー……いや、いい。眠ィ」
 言えば、幸村の手がゆっくりと政宗の体を横たえる。
 政宗は力を抜いて目を閉じた。
 外は静かな、夢の中と同じ風のない日だ。
 幸村が口を閉じてしまえば他に音もなく、それでも耳を澄ませば時折遠くで何かの物音がある。何より、すぐ近くに人の気配がある。
 皮膚を刺すような冷えた視線ではない。政宗を見守る目だ。
 だが、その温かな視線に徐々に居心地の悪さを感じて、政宗は布団の中で身じろいだ。これが乳母や小十郎であればそんな風には感じない。横になってろくに動けずにいる姿を、他でもない幸村に眺められているのが気恥ずかしいのかもしれない。
 寝返りを打って背を向けてしまおうか。そんなことを考え初めたところに、
「……政宗殿」
 ふいに、片手に幸村の指が絡んだ。緩く手を繋がれる。
「もし、また、政宗殿の夢に何か悪いものが現れたらその時は、きっと某が助けに参る」
 物騒な夢でも見たのかと問われて頷いた、その事を言っているのかと、考えて呆れ混じりに政宗は笑った。
 どうやって夢に出てくるつもりかは知らないが、幸村の声は真面目なものだ。目を開ければきっと顔も真面目くさっているのだろうが、それはせずに、政宗は僅かに顎を上げる。
「来んな、っつっても来るんだろ?」
「うむ」
「なら、勝手にしろ」
「そういたす。必ず参るゆえ、安心して眠ってくだされ」
 答えた幸村の声は弾んで、遠慮がちに握った手に、今度はしっかりと力を込められる。
 わかったから離せ、と、言おうとしてやめた。
 少し悩んで、政宗は手を握り返した。見守られるのは居心地が悪くて仕方がないが、ずっと会いたいと思っていたこともまた確かなのだ。
 幸村が僅かに緊張したのを繋いだ手から感じ取って、自分から握って来たくせにと政宗は少し可笑しくなる。
 熱が引いたら気が済むまで相手をしてやろうと苦笑交じりに考える。
 本当に、夢に駆けつけたら笑ってやろうと考える。
 現れなければ起きた時に責めれば良い。
 だがそれ以前に、この眠りで悪い夢は見ないだろうと、根拠もなくそう思った。
 眠りは、すぐに訪れた



 政宗が寝息をたてはじめた。
 苦痛の色のない、穏やかな寝顔に幸村は安堵する。
 繋いだ手は政宗のものとは思えないほど熱く、本当に今日明日で下がる熱なのだろうかと不安になるが、幸村にできることは何もない。梵天にはそう珍しいことでもねえ、眠らせるのが一番だ。そう言っていた政宗の従兄弟を信じて様子を見る他はない。
 額や、首や、汗をかく場所を冷やした方が良いだろうか。考えるが、今はまだ繋いだ手を離したくはなかった。
 目覚める前、政宗は長く夢にうなされていた。
 額には汗が浮き、眉根をきつく寄せ、時折小さく呻いていた。
 幾度も起こそうかと考えた。
 だが、夢見は悪くとも眠りに違いはないのかと、判じかねて迷っているうちに、うなされる政宗の唇が音にせずに綴った言葉。
“ははうえ”。
 唇を読む術は、忍たちによって幼い頃に叩きこまれた。目にしたと同時に読み取っていた。
 心臓が跳ねた。
 隠されているものを覗き見たような、酷い罪悪感に支配された。

 日頃、政宗の口から肉親の話が出ることはない。
 存在を意識させることがない。
 それでも、先代は既にこの世に亡いのだとは知っていた。軍議の席で耳にした。母親については聞いたことがない。姿を見たこともない。城にいるという話も聞かない。何か事情があるのだろうと考えたことは幾度もあったが敢えて調べず、訊ねもせずに、
『何だ。旦那、知らねえの?』
 いつだかそう言って、伊達の家の事情を話そうとした佐助の言葉は制止した。
『あれ、知りたくない?』
 知りたくないはずがない。けれど政宗の口から語られるのを待つのだと言えば、何年待つつもりなのかと笑われた。それだけ政宗の口を重くする事柄ならば尚のこと、政宗から聞く、聞かされるまで知らずにいるのだと言い張れば、肩をすくめた佐助はまあ旦那らしいかと引き下がり、それきりそのことは口にしなくなった。
 だから幸村には、母を呼んで顔を歪める政宗の胸中はわからない。
 ただ、苦しげな様子だけは確かなことで、そっと政宗の髪に手を伸ばし、触れる直前に政宗が突然目を覚ましたのだった。まるで幸村の手を拒むかのように飛び起きたのにも驚いたが、切り付けられたのには更に驚いた。
「政宗殿」
 いつか、聞ける時が来るのだろうか。
 眠る政宗には届かない言葉を、それでも口にしたくて声にする。
 繋いだ手に緩く力を込めた。
 きっと気休めにもなりはしない。刹那的だ。それでもせめて、少なくとも今は。この先、時の流れの許す限りは。
「……側に、居りまする」
 舌に乗せたその言葉は、僅かに苦い味がした。

2006.01.29発行/サイト再録用に修正:2012.09.03