惚れた腫れたと傍の迷惑について

 襖ごしに声をかける間際、主の室から溜息の音を拾って片倉小十郎は引き手に伸ばした手を止めた。
 政宗らしからぬことだった。
 視界に不利のある分、意識して磨かれた聴覚の鋭さは並のものではない。隣の間を歩く足音に気付かない主ではない。そして近くに人の気配があれば、例えそれが小十郎であれ、ひとまずは疲れた様など押し隠すのが政宗だ。気を緩ませ甘える言動を見せるのは側近くに居る時に限られる。
 足音に気付かないほど疲れているのか、それとも、政務に頭を悩ませているのか。
 何にせよ、様子を見に来たのは良い頃合いだったようだ。
 小十郎は盆に乗せた茶の碗と、甘露を纏って艶やかに光る栗を見る。柔らかく煮た栗、よく染みた甘さは、政宗の疲れを和らげるはずだ。
「失礼致します」
 おう、とすぐに声が返り、小十郎は静かに襖を引く。途端に涼やかな風が通り抜けた。
 秋晴れの庭に面した障子は開け放たれていて、風が緩く吹き込んで来る。板間に置かれた地図の端と、胡座の膝に頬杖をつく政宗の髪先とを揺らしている。
「お疲れのご様子ですな」
「そう見えるか?」
「ええ。少し、休まれては如何かと」
 不本意そうに目を上げた政宗は、小十郎の持つ盆を見ると頬杖を解いて背を伸ばした。
「半日そこらで疲れるほどヤワじゃねえ。……が、美味そうだ。Tea timeにするか」
「お疲れでない方が、隣室まで届く溜息をつきますかな」
「……オレが?」
 無自覚のものだったらしい。
 頷く小十郎に政宗は渋面を作り、きまり悪そうに片手の指で襟足を掻く。
「Uh, ……言っておくが、本当に疲れてるわけじゃねえぞ。ただ、ちっとな……」
 言い訳めいた呟きに苦笑して、小十郎は広げられた地図を覗き込んだ。
「ああ、なるほど。治水の件でしたか」
 中央に書かれているのは蛇行する川。
 ここ数年、雨季に氾濫するようになった河川の地図だ。春に普請したもののさほどの効果が得られず、次の雨季までには解決しなければと、政宗から相談を受けて小十郎も頭を悩ませていた。
「いや、これも頭が痛えは痛えんだが」
「歯切れが悪いですな」
「まあ……ちっと、言い辛え」
「小十郎にもですか?」
「愚痴だぞ? ただの」
 こころもち唇を尖らせる政宗に目元を緩ませて答えに変え、小十郎は主の言葉を待つ。
「あのな」
 政宗はいちど躊躇い、深く長く息をついた。
 余程言葉にし辛いのだろうか。考えながら盆を政宗の前に移動させようとしたところに、
「……真田の野郎、何で手ぇ出してこねえと思う?」
 がたがしゃん、と、小十郎が取り落とした盆の上で、皿と菓子楊枝とが騒々しい音を立て黄金色の栗が転がった。



 どちらが先に自覚したのかはわからない。
 けれど、先に言葉にしたのは幸村だった。

 いくさ場で出会い、初めて抱いた腹の底が灼けるほどの執着。
 攻め込み、攻め込まれ、偶然に出会って対峙して、幾度刃を交えても決着はつかず。
 そうしているうちに、つまりあれが欲しいのだ、と、政宗は驚きと共に自覚した。
 幸村が想いを告げてきたのはそれからいくらも経たないうちだ。互いの立場やそんなものは、伸ばされた手をはね除ける理由には足りなかった。
 
 以来幸村は、会えば好きだの惚れたのと飽きもせずに繰り返す。
 そのくせ、それ以上の事はしようとしない。
 惚れるより惚れさせろの心意気でそれとなく誘いをかけるにとどめ、幸村がその気になるのを根気良く待っていた政宗だが、清いお付き合いも間もなく一年。
 さすがにそろそろ限界だった。
 まさか自分にそうさせるだけの魅力がないのかと、らしくない不安さえ抱いてしまう。
「で、野郎それで何つったと思うよ? 『手ェ握りたい』だぜ? さんざん期待させておいて言うことがそれだぜ? あり得ねえだろうが……!」
 どん、と政宗が拳を畳に叩きつける。
 溜め込んでいた分が一気に吹き出したかのように切々と語られるそんな愚痴を、聞かされることになった小十郎はと言えば一刻も早く立ち去りたい気持ちで一杯である。
「……そうですな」
 てっきり治水に頭を悩ませているものと思えば、飛び出してきたのはあまりにも予想外の内容だ。しかも政宗としては愚痴なのだろうが、聞く分には惚気に思えなくもない。
 というかそれは地図を前にしかつめらしい顔で悩むようなことだろうか。
 それともこの河川に何か真田に結びつくようなものがあるのだろうか。例えば一緒に河原に行っただとか。
 考えて、地図を穴が空きそうなほど凝視してみるが小十郎にわかるはずもない。
「そんくらい許可とるんじゃねえ好きにしろっつったら、なんかとんでもねえ大事なもんでも触るみてえに手ェ握りやがるし。そこまで喜ぶかってくらい嬉しそうな顔しやがってよ。……で、なんか、それ見てるうちに、オレもまあいいかとか思っちまって」
「……そうですか」
 あからさまな惚気まで混じり始めた。
 唇を尖らせて目を伏せた政宗の顔が心なしか赤い。何というか、居たたまれなさ満載である。
「Uh, それはともかくだ。試しに顔近づけてみりゃ真っ赤になるし、口の端についた団子のタレ拭ってやっただけでも真っ赤になるし、っても別に舐め取ったわけじゃねえぞ? 指だぞ、指。それで赤くなるなんざどれだけうぶだって話だろ」
 政宗は深刻な溜息をつくが、話題は何とも微妙である。
 奥手上等、小十郎としては、関係が進まないのであればそれに越したことはない。
 そのことで政宗が悩む様はそれはそれで心が痛むのだが、せめて真田が自ら伊達に下るなりすれば多少は態度も変えられるのだが、あれは武田についたまま政宗に近付いて来る。
 敵対関係が変わらないのであれば、深入りしてはいずれ政宗の心が血を流す。
 主がそれで構わないと言ったところで、歓迎できるはずがない。
 けれど。
「この間なんざ、抱きしめただけで天にも昇る心地がいたすとか言いやがるんだぜ? 野郎が覚悟ひとつ決めりゃ昇る心地どころか一息にheavenに連れてってやるってのにあのcherryが!」
 そんな憂慮も、するだけ無駄に思えてきた小十郎である。
 政宗が幸村を想っていることは承知していたが、まさかここまでべた惚れの純愛だとは。
「――ったく、武田、の」
 言い差して、政宗が苛立たしげに息をついた。
 白湯の残りを一息に飲み干して、乱暴な動作で碗を置く。
「……政宗様?」
「あァ、だから武田の……つまり、テメエんとこの性教育はどうなってんだって話だ!!」
 叫んだと同時、政宗は素早い動きで護身用の小刀を天井へと投げつけた。
 刃物が天井板に突き刺さる重い音。
 弾かれたように動いた小十郎は政宗を背に庇うよう移動して、鋭く天井を振り仰ぐ。
 何が、と、身を屈めて睨む視線の先、小刀の突き立った天井板がするりと外され、その隙間から派手な橙色の髪が逆さに覗いた。
「テメェ、真田の……!」
「ちょっと独眼竜の旦那、いきなりそういうことすんのやめてくんない? こんなの刺さったら痛いじゃないの」
 天井裏に忍び込んだ自分の立場を棚上げし、殺気立つ政宗と小十郎にもお構いなしで、真田の忍は至極迷惑そうに眉を顰める。
「Shut up! そんなとこに潜り込んだ鼠には相応の扱いだ。真田からの言伝なら庭から来いっつったはずだぞ。テメエのその鳥頭にゃ難しい注文だったか?」
「だってどっちにしろアンタ気付くんだし、同じでしょ。それになんつーの、忍の性っていうか? こっちの道の方が落ち着くんだよねえ」
「へえ、いつ雑用から忍に昇格したんだ? 天井裏は道じゃねえ。わかったら降りて来い」
「へいへい……っと」
 低く言うと政宗は座り直し、佐助はするりと室内に降り立つ。
「政宗様。真田ならばともかく、忍如きを城に上げるなど」
「構やしねえ、丁度聞きてえ話もある。気になるなら後で塩でも撒いとけ」
 小十郎はちらと政宗を見、悪びれる様子のない忍に一睨みをくれて、政宗の傍らに腰を下ろした。



「だって、何も教えてないし」
 佐助は事も無げにそう答えた。
 政宗は勿論、小十郎までもが目を丸くして佐助を凝視する。
「教えてねえ、だと?」
 胡座の足首を両手で掴み、竜とその右目を前にしてあり得ないほどくつろぎまくった姿勢で、佐助はひとつ頷いてみせる。
「そ。嫁を取る時まで、真田の旦那にはそういった知識は一切与えるな、って大将からの厳命」
「信玄公が? 何だってそんな」
「大事な家臣の忘れ形見だから清く育てたいんだってさ。あはは笑えるよねえ、自分はあれだけ側室抱えてるってのに。ま、そんなわけで、誰も旦那にそういう話しないし、酒宴やなんかで話題がそっちに行きかけたら適当に理由作って外させるから、あの人何も知らないよ」
「本気か……?」
 信じられない、というよりは信じたくない思いで、政宗は疑いの眼差しを佐助へと向ける。
「ほんとほんと。何しろ旦那、夫婦が枕並べて寝たら子供出来るって思ってるくらいで」
「My god...」
 考えられない話だ。小なりとはいえ武家の者が、あの年で女を知らないどころか何の知識も与えられていないなどと。
 けれど、そう考えれば、これまでの幸村の幼い反応の数々に納得がいく。そもそもの知識がないのであれば、遠回しな誘いをかけたところで手応えがないのも当然だ。
 それにしても。
 幸村の出方次第では抱かれてやっても良いとまで考えていたというのに。
 嘆くべきか、それとも新雪に足跡をつける喜びと取るべきか。
「なーんて、信じちゃった?」
「あァ!?」
 笑い含みの言葉に、政宗は殺気立って佐助を睨む。
「いや嘘」
「テメエ、」
「ってのが嘘」
 薄い笑みを浮かべた佐助は、目を細めて首を傾げる。
「そんなこと、直接真田の旦那に聞けばいいじゃない。俺様に言われても困るっていうか」
「――なら最初っからそう言いやがれ!!」
 険しい目で佐助を睨み付けた政宗は、からの碗を掴むと佐助めがけて投げつける。
「小十郎、オレの刀持って来い! この野郎いっぺんブッ殺す!」
「承知」
「うわ、気ぃ短けえ。血の気余ってんなら旦那に……あ?」
 狂いなく眉間目がけて飛んできた陶器の碗を、佐助は片手で受け止めると、ふいに短く声をあげると困った様子でへらりと笑う。
「いやー、そういえば俺様、急ぎの報せ持ってきたんだよねえ。独眼竜の旦那がいきなり変な事聞くからさ、すっかり忘れてた。ごめんね?」
 全く悪いと思っていない口調でそう言うと、佐助は姿勢を正して膝をつき、両手を脚に置いて頭を下げた。
「主からの言伝です。紅葉が美しいのでお見せしたい、時間を作って頂けるだろうか、と」
「紅葉だ? オレにアイツんとこまで行けってことか?」
「いや、枝持って門の近くで尻尾振って待ってます」
「――ッ!! 先に言え!」
「だから忘れてたんだって」
「そこまで来てんなら門番に言やいいだろうが! いやそうじゃねえ来る前に言え! 何でテメエら主従は当たり前の手順を踏めねえんだ!」
「そりゃ、俺様遣わした方が速いからじゃない? まあ結果的には遅くなったけど。後半の文句は旦那に言ってね」
「You suck!!」
 鋭く言い捨てた政宗は、羽織を翻しながら早足で室を飛び出す。
 その背を見送り、廊下を渡っていく乱暴な足音を聞きながら無言になった小十郎と佐助は、ややあって乾いた視線を見交わした。
「……テメェ、死ぬか?」
「いやあ、せっかくだけど遠慮します、っと」
 さんざんに主をからかわれた小十郎の、底冷えのしそうな眼差しに笑顔で返して、佐助は影に溶けて姿を消した。



 亜羅棲斗流をひっつかみ、勢い余って自ら門前まで出向いてしまった政宗は、紅葉の枝を抱えて大手門付近をうろついていた幸村と、ひとまず全力の打ち合いとなった。最早出会い頭の挨拶のようなものだ。
 しかし、突然の訪問ではすぐに充分な時間を割けるはずもない。日によってはそうできる日もあるのだが、今日は運悪くその後に来客の予定が入っていた。それでも、不在でなかっただけ運が良いと言うべきだ。奥州筆頭は忙しい。
 そうして政宗の体が空いたのは陽も沈みきった時刻だった。
 幸村を待たせている室へと急げば、既に夜風が身を震わせる季節だというのに、幸村は障子を開け放ち濡れ縁に出て、月明かりと僅かな灯火に照らされた夜の庭を眺めていた。
「何だ、面白えもんでも見えるか?」
 体半分で振り向いた幸村は、視線だけで空を指した。
「面白いかはわからぬが、月を眺めていたのだ」
 縁に出た政宗は、幸村の隣に腰を下ろして濃紺色に塗られた空を見上げる。
 冷えて澄んだ空気に凍てつく星の光と、満ちて丸い、白い月。その近くを薄い雲が光を受けてゆっくりと、けれど月の形を損なうことなく流れて行く。
「なるほど、いい月だ」
 口にした政宗に、短く同意した幸村はすぐにけれどと言葉を継いだ。
「今宵の月も見事でござるが、以前それがしが見た月にはかなわぬ」
「Han...? どんな月だ」
「蜜色の弧月でござる。以前、いくさ場で見た」
 いくさ場、との言葉に、政宗はぱちりと瞬いた。
 ふと額に意識を遣る。今は、そこに月はない。
「政宗殿が来るまで、それを思い出していたのでござる」
 空を見上げる幸村の横顔を眺めれば、月であって月でないものを、大きな目がひたと眺めている。
 その口元が緩く笑う。
「……あの月の、胸を突くような美しさには到底及ばぬ」
 政宗は片頬に笑みを掃いた。
 それは、自分が火を見る時に抱く想いと同じ類のものだろう。
 小さな火は勿論のこと、天高くへと火の粉を上げながら燃え盛る炎を見ても違うと感じる。いくさ場で地を這って舞う鮮烈な業火、あれでなければ満ち足りないと渇きすら伴って強く想う。
「Humn..., そんなに佳い月だったか?」
「うむ。あの見事さは、それがしではどう言葉を尽くしても表せぬ」
「オレも一度お目にかかりてえもんだが」
「お見せしたいとも思うのだが、あの月は、月だけではあれほどの輝きは見せぬと思うのだ。ゆえに、政宗殿にお見せするのは無理でござるな」
「Ha, そいつぁ残念だ」
「まことに」
 幸村は悪戯な笑みを浮かべて政宗を見た。
 灯火を映した深い琥珀色の瞳。まっすぐに目が合ったことで、政宗は何か喉元に、息苦しさに似た感覚を得る。
「……お会いしたかった、政宗殿」
 不思議な熱と、やや掠れた響きを持つ声。騒いでいる時は暑苦しいことこの上ないが、ひそめれば意外と耳に心地良いその声。
「ご迷惑とは思ったのだが、どうしても我慢できなかったのだ」
 困ったような嬉しそうな、綯い交ぜの顔で幸村は笑う。
「別に迷惑じゃねえさ。ま、先触れがあるに越したことはねえが」
 政宗はあちらこちらに跳ねる茶の髪に手を伸ばし、指を差し入れてやや乱暴に梳いてやる。
「アンタが待ちぼうけくらう羽目になるだけだ。日が暮れりゃ、相手もできる」
 犬猫にするように撫でられて、くすぐったそうに笑う幸村の表情。見ているだけで満ち足りるような心地にもなる。
 が、やはりもう限界だった。
 髪を撫でた手を首の後ろに回し、促す程度の力を込める。そこまでは羞恥心にかからないらしい幸村が、意図を汲んで抱きついてきた。高い体温に息をつく。
 ここまで言って何もしないのだから、忍の言うように本当に何も知らないのかもしれない。それももうどうでもいい。赤くなろうが青くなろうが知ったことではない。知らないのならば教えるまでだ。強引なのはcoolじゃないとか、そんなこともどうでもいい。
 いきなり最後までは無理だとしても、せめて口付けくらいはしなければおさまらない。
 表向きは平静を装い、ややぎこちなさのある手で幸村の衣服の背中を引くと、政宗は視線で室内を示す。
「入ろうぜ。紛いもんの月ならもういいだろ」
「ああ、そうでござるな。さすがにこちらは冷えまする」
「酒を用意させてある。……少し呑もうぜ」
 頷く幸村を室内に入れて、障子を閉めた政宗は、細めた隻眼にひそかに物騒な光を宿らせた。


 明けて翌日。
 適当な家臣に幸村の相手を命じ、政宗は執務のための部屋に籠もった。そしてそわそわと落ち着かない政宗を気遣った小十郎の――後になって激しく悔いた小十郎からすれば不用意な失言を皮切りに、浮かれた様子で昨夜の出来事を語り始めた。
「それであの野郎、教えてやったら意外と覚えが早えっつーか、応用が効くっつーか……なんか、やたらkissが上手くてよ」
 落ち着きを欠いていた理由は話が始まるなり判明し、そしてその精悍な頬は今はほのかな朱に染まっている。
 前日に引き続き、というか前日よりも更に酷い惚気である。
 悩む政宗を見るのも辛いが、幼い頃から己の持つもの全てを注ぎ大切に育てた若君。今はその人をおいて天下を取る器は他にないと誇る主君。あんな小僧との関係が進展したと聞けば、真田を縊り殺してやりたい衝動にも駆られる小十郎である。
「それはようございました。ときに政宗様、例の川の、普請の件は如何致しましょう」
 強引に話を逸らせば、政宗は頷いて、菓子楊枝に手を伸ばした。今日の甘味は栗羊羹である。腹立たしいことこの上ないが、幸村にも同じ物を出すように言ってある。
「その事なら、ちっと考えが浮かんでな。実際にできるもんかわからねえから、川の普請に詳しい奴を探させてる。数が揃ったら視察に行く」
 そこまで言って羊羹を口に運んだ政宗に、小十郎は目を瞠った。
 昨日までは確かに考えあぐねている様子だったものを、いつの間にそこまで動いていたのか。
「それで、日取りが決まったら知らせるから、お前も一緒に来てくれるか? 知恵を借りてえ」
「無論。お供致します」
「Thanks, 小十郎」
 ごく気を許した者にしか見せない素直な笑みで、安堵した様子の政宗が頬を緩める。
「ああ、それでな」
「は」
「その真田のkissってのが妙に気持ち良くて、してるうちに勝手に力が抜けんだよ。何でだろうな? 昨夜っから不思議で仕方ねえんだが」
「……政宗様」
 居たたまれず、名を呼んで制止して、小十郎はひとつ咳払いをする。
「それでその、お考えというのは? 先に小十郎にお聞かせ願えませんか」
「ん? ああ、そうだな。お前には話しとくか」
 丸めてあった地図を広げ、政宗は河川を指さしながら普請の策を話し始めた。
 相槌を打ちながら小十郎は耳を傾ける。その段階で挙げられる問題点を探すことに集中し、意見を交わすうちに時間は過ぎ、おかげで、どこまで進展させることができたかの惚気を耳にすることは避けられた。

 幸村は三日ほど城に滞在して、日が暮れてからの時間のみを政宗と共に過ごし、小十郎が所用で外に出ている間にいつの間にか甲斐へと戻っていた。

 後日、件の日の幸村が始終赤い顔をして食事を出しても甘味を出しても上の空だったとか、幸村が帰った日の政宗はどこか体調が優れない様子で時折怠そうにしていただとか、うっかり耳にしてしまった噂については記憶の奥底へと追いやって深く考えないことにした小十郎である。

2007.11.11発行/サイト再録用に修正:2012.07.21