夏休みカウントダウン
その日は佐助の仕事の都合で遅い時間の夕飯になった。
築年数の深いマンションだが入居時に内装だけはリフォームされて、それでも数年も経てばそれなりに汚れる。シンクの隅の水垢などは幾度擦ってもどうしても落ちない。半ば諦めているのだが時折妙に気にかかって、もやもやとしたその汚れを横目で眺め、佐助は二人分の食器を洗う。
気温が上がったおかげで水仕事が心地良い。
片付けを終えたテーブルでは幸村が台拭きで汚れを拭いていて、ふと思い出した様子で顔を上げた。
「そうだ佐助、このあたりで」
「んー?」
「その、上手く言えぬが、俺より少し年上の者が……遊ぶ? ような場所と言ったらどこになる?」
「何、誰かとデート?」
振り向いて何も考えずにそう返したら、幸村は途端に真っ赤になった。
うわあ、と声には出さずに、佐助はそのわかり易さに感心する。
「な……っ! デ、デ、デートなどと、俺と政宗殿はそのような破廉恥な関係ではない!」
ずどん、と動揺してテーブルを叩いた幸村の自白で相手までわかってしまった。ついでに、デートと言われて動揺するような下心を抱いていることも。何もないのなら「男同士でデートとは言わぬだろう」とそんな返し方をしそうなものだ。
ああ、なるほどね。あの大学生。へえ、なるほど。
それも口には出さずにただはいはいと頷いて、佐助は一度だけ見たことのある『政宗殿』――伊達政宗の顔を思い出す。名前は男で、声は聞いたことがないけれど、見た目もしっかり男だった。実はボーイッシュな女の子でした、という可能性には毛の先ほども期待できそうにない容姿。
それでも、不思議と驚きはなかった。
何となくそんな予感はしていたのだ。
ああ、すっげえ俺様超柔軟。投げやりに自賛して佐助は思案する。
「っても、俺様もあんま詳しいわけじゃねえけど……映画は?」
「映画館は苦手だそうだ」
「ふうん。あ、今の季節なら海は? 夏だし丁度いいんじゃない?」
男二人で海。多分一般的ではないだろうが、男二人で水族館や遊園地よりはましだと思えた。
だが幸村は何か苦いものを噛んだような顔で、
「それが、海は誘ってみたのだが」
「え。それも駄目だっての?」
「いや……」
そうしてひどく重い口で、そもそもは海に誘ったのだと幸村は語った。
海に参りませぬか政宗殿。
なぜそんな流れになったかと言えば、下校途中で政宗に会ったせいだった。偶然だった。
昼間は茹だるような暑さで、夕方もその名残が濃く、街路樹では蝉が騒がしく鳴いていた。
幸村は落ち込んでいて。
その原因が惨憺たる英語のテストの点数で。
しょげた様子を指摘されて理由を話して、情けないがさっぱり理解できぬのだと並んで歩いて愚痴をこぼした。
「英語……ねえ。高校レベルだとそう苦戦するようなもんでもねえだろ」
幸村は高校2年。政宗は大学生だ。大学生だということも最近知った。それくらい、知り合ってからまだ日が浅い。
出会ったのは二人が通う道場で、顔を合わせるのもその道場だ。会えば言葉は交わすし剣も交わすし人となりも見えてきたが、私生活などはあまり知らない。
だがあまり知らないにもかかわらず、幸村は政宗のことが気になっていた。会えば嬉しく、言葉を交わせば嬉しく、剣を交えれば心が湧いた。
今も政宗に会って一度気分が浮上したものの、話題でまた沈没した。
「苦戦しっぱなしでござる……!」
「何でだ? どこで」
「どこがでなく全体的にわけがわからぬのだ。政宗殿にとっては簡単かもしれぬが、あれは某には言葉というより呪文でござる」
「Han, 情けねえ」
実際情けないのだが、政宗に言われて少しばかり傷ついた。
「良いのだ。海外に行く予定もなければ住む予定もござらぬ。英語などできずとも何も困らぬ」
「アンタ、大学は?」
「う……」
問題はそこだった。
一度、佐助に助けを求めてみたことはある。だが人に教えるのが苦手だとこぼした佐助の言葉の通り、教わってみてもあまり状況は変わらなかった。
「まあ、そこさえ越えちまえば、英語なんざわからなくても何も困らねえが」
「そ、そうでござろう?」
「日本から出ねえらしいしな」
「うむ」
「困ってるって話なら教えてやろうかとも思ったが、なら別に要らねえよな」
幸村は思わず足を止めた。政宗を凝視する。
「……政宗殿が? 教えてくださるのか?」
数歩先を歩きながら振り向いた政宗が意地悪く笑う。
「あァ? 英語などできずとも何も困らぬ、だろ?」
「訂正いたす! ほとほと困っているのでござる!」
慌てて撤回した幸村に今度は声をあげて笑って、その拍子に流れ落ちてきた汗を政宗は手の甲で拭った。
「っかし、暑ィな……。頭から水でも被りたい気分だぜ」
小走りで追いついた幸村は、ぼやく政宗の横顔を見た。幸村より少し背が高い。拭う端から汗が流れて顎の裏に溜まる。
本当に暑そうだ。
考えて、ふいに海を思い描いた。たくさんの水のあるところ。
幸村は海のない場所に生まれ育った。両親が他界して住む場所が変わっても、やはり海とは疎遠だった。
海まで電車でどれくらいだろうか。多分二時間はかからないはずだ。考えて、ぽろりと言葉が口からこぼれた。
「海に参りませぬか、政宗殿」
言ってしまってから幸村自身が驚いた。
見れば政宗も目を丸くしている。
「海? アンタと? オレで?」
「あ、いや! 今からということではないのだ!」
慌ててそれだけ訂正する。
「だが、夏の間にでも……その、もし政宗殿が迷惑でなければ、なのだが」
言いながら、猛烈な不安に襲われて徐々に頭が下にさがった。
おかしなことを言ったような気がする。海だなどと。唐突だった。驚かせた。妙な奴だと思われたのではないだろうか。
だがおそるおそる政宗の顔を見れば、政宗は思案する様子で視線を彷徨わせて、
「Humn..., 悪くねえな」
「……まことでござるか!?」
「おう。いいぜ、休みに入ったら行くか」
そうして幸村を見て笑った。幸村はどこかぼんやりとした心地で、いちど強く頷いた。
良かった。
今日この時間に、この道を通って良かった。心の底からそう思った。
英語の点数がいつも以上に悲惨だったことも今は幸運だったと言いきれる。
道場でしか顔を合わせないはずの政宗と、街なかで会って、並んで歩いて。
勉強を教えてもよいと言ってくれて。更には遊びに行く約束までしてしまった。
二人で海に。
電車に乗って、どこか近くの海岸で。
海を眺めて波の音を聞いて。
素足で波打ち際を少し歩いたり、そんな風に。
「で、どこの海にする? アンタ、passportは?」
「え?」
夢見心地でいた幸村は、政宗の口から出た単語にひととき思考を停止させた。
「パスポート? ……でござるか?」
想像していた海とパスポートとの関連性がわからずに思わず聞き返す。
「ああ、日本から出ねえんだったな。持ってるわけがねえか」
「う、うむ?」
「なら国内か。沖縄あたりで探すぞ」
「……え?」
「何泊できる? そうだ、ウェイクボードとかやってみたくねえか?」
――どうやら住む世界が違ったようなのだ、と、幸村は言った。
「それとも、大学生ともなれば皆、海といえば海外なのだろうか……」
「ないない。うわ、何なのその金持ち。俺様そいつ敵って決めていい?」
佐助は呻く。海と聞いて真っ先にパスポートの有無を確認する大学生。そんなもの貧乏人にとっては敵だ。
「で? 金持ちとしては近場の海には行きたくねえとかそういうこと?」
「いや、すぐに誤解は解いたのだ。それと佐助も誤解しないでくれ。政宗殿は良い方なのだ」
「旦那だって前にさんざん罵ってたくせに」
「それは、もう、忘れてくれ。あれも誤解だったのだ」
「へえ?」
「……それで、結局は俺の行きたい場所で良いと言ってくれて……だが、今更このあたりの海に行ったところで楽しんで貰えぬような気がして」
けれど海以外にどこか、と、考えたところで何も思い当たらなかった。それで佐助に助けを求めた。
二つ年上。
大学生。
確かに、学生時代の年の差は大きく感じるものだった。佐助は数年前の感覚を思う。高校生と大学生なら尚更だろう。しかも金銭感覚の大幅な違いまであっては、幸村が怖気づくのも無理はない。
けれど。
「いいんじゃないの、海で」
洗い物を終えた佐助は、冷蔵庫から作り置きの麦茶を出してグラスに注いで、未だにテーブルの上で台拭きを握りしめていた幸村の前に一つ置いた。対面に腰掛けて、自分の前にも一つ。
「そりゃね、沖縄なんかと比べればここらの海なんかそう綺麗でもないだろうさ。けど、旦那の行きたいとこでいいって言ってんだろ? なら、何の問題もないじゃないの」
一息に言って麦茶を飲む。冷たい。美味い。
日中は暑くとも日が沈めば比較的涼しいので冷房はまだ入れていない。窓を開けて、部屋の隅では扇風機が首を振っている。
「そう、だろうか」
「あのなあ、旦那。どこに行くかが問題じゃないでしょ」
それでもまだ不安そうな幸村に、佐助は溜息をひとつ落とす。
「楽しめるかどうかなんて、誰と行くか、なんじゃねえの?」
口にしながら、俺様何言ってんだろうと佐助は自分にツッコミを入れた。男二人で遊びに行く相談に対して使う台詞じゃない。
「……そうか」
だが幸村はそれで納得したようだった。沈んでいた顔に徐々に明るさを取り戻す。
「確かにそうだな……。うむ、佐助の言う通りかもしれぬ」
頷いて、幸村は椅子に腰を落ち着けた。手を伸ばした麦茶のグラスはすっかり汗をかいていた。
「でしょ? 大丈夫だって」
どう考えても恋愛相談以外の何物でもない。頬杖をついて、佐助はまた政宗の顔を思い出す。
見かけたのは、幸村の通う道場に、忘れ物を届けに行った時のことだ。
入り口から幸村を呼んで荷物を渡した。
尖った視線を感じてそちらを見れば、眼帯の男と目が合った。
あれ誰、と幸村に聞いて、それが時折幸村の口にのぼる伊達政宗だと知った。
今思えば呼び方も悪かったのだと思う。「真田の旦那」と呼びかけたのだ。道場には佐助も以前通っていたことがあって今も時折顔を出すから、皆佐助のその呼び方に慣れているのだが政宗とは初対面だった。
あの時、佐助を睨んだ視線の鋭さを思えば。
佐助は残りの麦茶を一気にあおる。冷たさが喉を通って体の奥へと滑り落ちる。
政宗にとっても、多分重要なのは“誰と行くか”だ。間違ってはいないはずだ。
たいして綺麗じゃない海でも、海でなくても、そこらの公園でも幸村が誘えばそれでいいと言うはずだ。
涼しい風が吹き込んで佐助は窓の外へと視線を遣り、頬杖の手から顔を上げた。
閃いた。
「そうだ、花火。ってさ、海のほうで打ち上げることあるんじゃない?」
ぱちん、と幸村が瞬きする。目を丸くして。
「ま、その分混むかもしれねえけど。どう、好きそう?」
「わからぬ……が」
「一応調べる?」
「頼む!」
「じゃこれお願い」
「うむ!」
空になったグラスを示して、片付けを任せて佐助は立ち上がる。
立ち上がりながら、ふと考えた。
すっかり後押しする形になっているがこれで良いのだろうか。しばし悩む。だって何しろ男同士だ。幸村に自覚がないうちに諦めさせる方向に誘導するべきではないだろうか。
視線を戻せば期待に満ちた幸村の目が佐助を見上げていて。
――まあいいか。
その嬉しそうな顔を見れば、何だかどうでも良くなった。
2012.07.26