キスと誤算
「もう大丈夫。退いたよ、旦那」
敵が完全に撤退したと、そう報告を受けて幸村は崩れるようにその場に座り込んだ。
周囲では赤備えと青い鎧とが歓声をあげはじめている。合戦の最中に第三軍の奇襲を受けた武田軍と伊達軍は、急遽停戦し、一時的に手を結んで戦ったのだった。
不意を突かれた両軍は動揺して大きく乱れた。幸村たちは馬を駆けて指示を飛ばし、戦線をどうにか立て直し、槍で敵を挫きながら声を上げて兵を鼓舞した。最後の方は気力で動いていたようなものだ。終わりだと言われればもう力が入らない。手から槍が落ちて地面でガランと音を立てた。
「ったく、無粋な連中だったぜ」
舌打ちをしながら歩いてきた当初の戦の相手──奥州伊達軍・伊達政宗が、やはり随分と疲れた様子で幸村の右隣にどさりと腰を下ろした。
「……政宗殿」
「折角のpartyだってのに、よくもまあ台無しにしてくれやがって」
政宗は、乱暴に脱いだ兜を地面に転がし一度頭を振って髪を乱す。付き従う小十郎から差し出された水筒を、上向いて勢い良くあおった。
無防備に晒された喉が上下するのを見ながら、幸村は大きく呼吸して息を整える。
「……しかし、共闘もまた滅多に無い機会なれば。味方として貴殿の雷光が閃くのを見るのは、やはり頼もしゅうござる」
ぱちんと大きく瞬きした政宗は、楽しそうに隻眼を細めた。
「何だ? 伊達軍に来てえって話か? 歓迎するぜ」
「貴殿が武田に、という話ならばこちらも歓迎致す」
「All right, それならpartyの続き……と言いてえところだが、今回はここまでだな、真田幸村。お互いdamageがでけえ」
政宗の目を見返して幸村は頷く。
「承知にござる。佐助、お館様に」
「あいよっと」
すぐに佐助の背後に忍が一人現れて膝をつく。伝令を受けて瞬く間に掻き消えた。
「Good boy」
歌うような異国語で、政宗は飲み差しの水筒を幸村へと差し出した。それを幸村は少しの躊躇と共に受け取る。
長く続いた戦闘で喉は張り付くほどに渇いていた。会釈して口をつけようとして、
「そういやアンタ、血ィ付いてるぞ。口んとこ」
政宗が、自分の下唇の右側を指で示した。同じ場所を探ってみればピリリと小さく痛みが走り幸村は僅かに顔を顰めた。
「かたじけない。少し切れただけでござる」
「ふうん?」
相槌に政宗の方を見れば、ふいにその顔が近付いた。
え、と思った時には唇を濡れたものがぺろりと舐めた。
げ、と潰れたような声は佐助のものだ。息を飲む音は小十郎。視界を埋めているのは政宗の顔だ。近い。表情もわからない。
仕上げとばかりに柔らかなものが軽く唇を吸って、離れた。呆然とした幸村の頭に遅れて理解が追いついて途端に一気に血が上る。
唇だった。
政宗の唇。
「なっ、なな、なななな何をなさるのだ政宗殿!?」
「何って、消毒」
「しょ……」
「First kissだったか、真田幸村?」
絶句する幸村と対照的に、政宗は平然とした顔だ。幸村はドカドカと太鼓のようにうるさく鳴る胸を宥めながら問い返す。
「その……、ふぁ……とは」
「口付け。初めてかって聞いてんだ」
「く、……!」
言葉を失ってただ口を開閉する幸村の、戦装束と張るほどになった顔色が答えになった。政宗の口の端がつり上がる。
「ッ……ではなく、消毒なのでござろう!? いや、消毒でもあのように軽々しくなど」
「そう赤くなるなよ、真田。Kissなんざ異国じゃただの挨拶だぜ」
「ここは日の本にござる!」
「あァ、Sorry. そいつぁ悪かったな」
「貴殿少しも悪いと思っておらぬな…!?」
「理解あるrivalで嬉しいぜ。なあ小十郎」
「……こちらに話を振らないで頂きたい」
騒がしく言い合う中にふいに馬が鼻をふるわせる音が混じり、見れば馬を引いた伊達軍の兵士が声をかける機会を待っていた。
それに頷いて、政宗は転がした兜を被り直す。立ち上がって幸村を振り向いた。
「行くか。じゃあな、真田幸村」
「……また、戦場にて」
政宗を睨む幸村の目元はまだ赤い。
機嫌良く馬の背に揺られる政宗の横に、小十郎が馬を並べて距離を詰めた。
「政宗様」
咎める響きに、政宗は片方の眉を跳ね上げる。
「何だ? さっきのKissについての小言なら聞かねえぞ小十郎」
「まさにそれについての小言ですな」
「OK. それならNo thank youだ。もうしねえ。アイツにもな。今回のは大目に見ろよ、小十郎」
「……ならば、よろしいのですが」
低い声音の、半信半疑の返答に、政宗は小十郎に視線を流して苦く笑う。
「どうせ、どんだけ欲しがっても首以外は手に入らねえ相手だ。Last danceの前に口付けの一つや二つ、頂戴したっていいだろ」
小十郎は答えず、ただ眉間に皺を刻んだ。
あの好敵手に抱く主の、表に出せぬ思いに気付かない小十郎ではない。そして気付いているからといってどうしてやることも出来はしないのだ。
それに、と口の中で小さく呟いた。
「……こっちだって、First kissをくれてやったしな」
舌先にはまだ僅かに土埃と鉄の味が残る。真田幸村の血の味。唇の感触。このまま、いつまでも消えねば良いとは叶わぬ願いだ。
「? 申し訳ありませぬ。今、何と?」
聞き取れなかった事を小十郎が詫びる。片方の口の端を吊り上げて政宗は言った。
「いや? いい反応だったな、オレのrival」
「……だいぶ睨まれておりましたが」
「あんなもん、目元染めて睨まれたところでcuteなだけだろ」
「次から避けられても知りませぬぞ」
「戦場で? アイツが? オレを? That's impossible!」
政宗は笑って愛馬の腹を蹴った。速度を上げれば、続く騎馬からいくつも声が上がる。鳴り物を響かせながら伊達軍は賑やかに戦場を後にした。
その鳴り物の音を遠くに聞きながら、佐助は頭の後ろをがりがりと掻いた。
「えーと、旦那、大丈夫?」
顔を抑えて項垂れていた幸村は佐助へと潰れた声を返す。
「……大丈夫なものか」
「はは、そりゃそうだよねえ」
見るからに主の負傷は深く重い。勿論、実際の傷ではなく精神的な意味で。
呑気なその声に、幸村は勢い良く顔を上げて佐助を睨んだ。
「全く何なのだ政宗殿は! 軽率に過ぎるのではないか!? まさか、常日頃から消毒だなどと言って誰彼構わずあのように口付けているのでは……!?」
「いやあさすがにそれはないっしょ。あれ一応お殿様だし」
「……そうか……? そうだと良いのだが」
重く言う幸村に、佐助は呆れてため息をつく。
「あのね、男の上司からの口付けとか普通褒美にも何にもなんねえのよ。だって例えば、例えばよ? 真田の旦那はお館様に口付けされたらやる気出んの?」
「な……! お、お館様はそのような」
「でしょ? 旦那が独眼竜に惚れてるからって錯乱しすぎ」
幸村はまたがくりと項垂れた。
そうなのだ。密かに惚れて──恋焦がれていた相手からの突然の口付け。大丈夫なわけがない。動揺するなという方が無理だ。
それも、あんな風に構えもせず。消毒だなどと言って、薄い柔い唇を惜しげもなく触れさせて。
自分を微塵も性愛の対象として見ていないからあのような真似ができるのだとわかってはいる。わかってはいるけれど。
「あのような真似をされては、抑えられぬ……」
自分が好敵手の一線を越えぬよう、どれほど苦心しているかも知らないで、と、もはや涙目になる寸前だ。
剣を交えるたび、言葉を交わすたびにどうしようもなく惹かれて、あと一つ二つのきっかけでもう堰を切ってしまいかねない。奔流が溢れ襲いかかる先は誇り高き独眼の竜だというのに。
「まあまあ。抑えて抑えて。とりあえず今夜は寝所に懐紙、たくさん用意しとくからさ!」
「そういう揶揄いはよさぬか、佐助」
「うん、ごめん。ところで旦那、そろそろ動ける?」
言われて、幸村は自分の体を確かめる。全身に泥が纏い付いたように重い。けれど。
「ああ」
答えればすぐに馬が引かれてきた。
疲労に鈍る足でどうにか立ち上がり、ふと、伊達軍の消えた方を見ようとして結局できず、幸村は用意された馬の背へと跨った。
「……行くぞ」
「あいよっと」
今にも堰を切りそうなそれを、抑えたいのか、溢れるままにしたいのか、もう自分でも判断がつかなかった。
2022.04.16