つゆくさ、ほたる
蒸し暑い梅雨の晴れ間だった。書机に向かっていた政宗は、書き付けを終えて伸びをした。その伸ばした手で、傍の木刀を掴んで立ち上がる。
もうすぐ小十郎が来る時間だ。午後の稽古の相手を頼んであった。今日勝てば政宗の十連勝になって、そうなれば、本格的に六刀を使用しても良いとそういう約束になっている。
ここまで連勝を積むのに一年かかった。一年のあいだに名も変わった。
意気込みながら部屋を出て、政宗は、すぐ近くの廊下に何かがあるのを目に留めた。
虫籠だった。
ごくごく細い竹ひごで編んだ、釣鐘形の小ぶりの虫籠。所々に装飾が施してあって、天辺には赤い飾り紐が結ばれていた。持ち上げて中を見れば、青い花をつけた露草と、そのあいだに
「蛍……?」
今は光っていないが、黒い体に胸の端が少し赤い虫。蛍が数匹、籠の中に入っていた。
政宗は顎の先に指の背を当てる。
そして籠を頭の高さに上げて横から下からじっくりと観察する。蛍と露草、飾り紐。やはりそれ以外に入っている物はない。
「政宗様。……政宗様?」
二度呼ばれて、政宗は慌てて顔を上げた。いつの間にか庭に小十郎が立っていた。
「あぁ、悪い。気付かなかった」
「いえ。──それは?」
小十郎が政宗の手元の虫籠を見る。年の初めに改めた名も、同時に改められた小十郎の敬語も、まだ完全には耳に馴染まない。
その日、猿飛佐助は木の上にいた。見晴らしの良い山の杉の木の、人目につかない枝に忍んでいた。
見晴らしの良いその場所からは遠く遠くに城が見える。青葉城という。立ち働く人が米粒よりも小さく見える距離だが、佐助の訓練を重ねた目には顔かたち、唇の動きまで読み取ることができる。
「……お。出てきたかな、っと」
開け放した障子の奥から現れた紺の袴姿。顔半分に巻いた包帯は主から聞いた特徴と合致する。一年ほど前、主、弁丸が放り込まれた『試練』の場に居合わせたという少年だ。佐助はちょうど他の任務に出ていたが、弁丸からも、密かに護衛についていた忍からも、仔細については聞かされていた。六刀を使う、奥州の次代の隻眼の主。そして、佐助の主が好敵手と定めた相手。
元々槍の稽古に熱心だった弁丸は、あの日以来一層鍛錬に熱を入れるようになった。そして、時々遠くを眺めるようにもなった。
佐助、と、どこかためらいの混じる響きで呼ばれたのは、ねだられて蛍狩りに出た時だ。二日ほど前のこと。少し蒸す夜、沢のほとりに無数の蛍が飛び交っていた。すうと流れながら灯っては消え、消えては灯る黄色のひかり。
──この蛍を、奥州に届けてもらうことはできるか?
出来るか出来ないかで言えば、佐助に不可能の文字はない。けれど、わざわざ届けなくてもあっちにも蛍は飛ぶ頃だよと、言えば主は曖昧に笑ってそうだなと頷いた。そしてそれきり黙り込んだ。その妙に大人びた表情と、すぐに引き下がった様子が気にかかり、だからつい言ってしまったのだ。
ま、こっそり置いてくるんで良ければ頼まれますよ。
その時に見た主の顔を思い出すと、多少の無理を押した甲斐はあったと思う佐助である。いや、縁のない城の本丸に潜り込んで荷を置いてくるなど、本当は多少ではなく無茶なのだが。俺様でなけりゃできないよほんと、と、今は遠い主に向けて独りごちる。
木刀を携えて出てきた少年は、すぐに廊下の虫籠に気付いた。手に取って不思議そうに中を伺う。同じように木刀片手に庭を歩いてきた長身の男が、少年へと近づいた。
『政宗様。……政宗様?』
声など到底聞こえない。唇の動きを佐助は読む。
『あぁ、悪い。気付かなかった』
『いえ。──それは?』
『これか? 蛍と、露草だな。見ろよ小十郎、この籠。なかなかの細工だぜ』
そりゃ当然、と佐助は声に出さずに思う。佐助の知る中で一番の職人が拵えた虫籠だ。
『確かに風流ですが、どこからの贈り物で』
長身の男が言う。少年は答えず、虫籠に結んだ赤い飾り紐を指にもてあそんだ。弁丸が結んだ飾り紐だ。
『……城の東にな、茶屋があるだろ』
『は?』
『すぐ脇に井戸のある水茶屋だ』
唇を読みながら、佐助は広い城下町の様子を思い出す。確かに井戸の側にある茶屋を見た。訪れてすぐ、城の周りは一通り確認して頭に入れている。
『あそこは茶もいいが、餅が美味い。店主が熱心でな、変わり種もよく出してるがハズレがねえ』
少年が顔を上げた。目が合って、嘘だろ、と佐助は短く声をあげる。
『寄って、土産に団子でも持って行け。オレの名を出していい。代金はこっちで待つ。他に、くれてやれる物もねえしな』
傍の男が、驚いた様子で振り向いて少年の視線の先を探す。唇を読み終えるなり佐助はその場を飛び退いた。低く、草木の密集したあたりへと身を移す。
口ぶりから追っ手をかけるつもりのない事はわかる。けれど、
「心臓に悪いっての……!」
包帯に隠されていない左目と、確かにまともに目が合った。あれだけの距離で視線が合うなど忍び同士でもあり得ない。
「構うな、小十郎」
誰か、と、慌てて人を呼びかけた小十郎を政宗は制した。
「しかし……」
「今から行ったところでどうせ捕まえられやしねえ。話に聞く真田忍ってやつだろ」
小十郎が眉根を寄せる。真田家の忍軍の話は聞いたことがある。真田昌幸の息子と会ったと、いつかの山中、まだ梵天丸だった政宗からそんな話も聞かされた。
「なぜそう思われますか。根拠をお聞かせ願いたい」
「なぜも何も、わざわざ覗き見てんのにあんな敵意でも値踏みでもねえ、オレのことなんかどうでもいいって視線を寄越す心当たりなんざ他になくてな」
政宗が肩を竦めた。剣の腕は及ばなくとも、音や気配、視線を読み取ることにかけては既に小十郎を超えている。
「それと、コレだ。ヤツが気にしてたのもこっちだ。これを、オレがどうするか見てたんだろ」
政宗は虫籠をゆっくりと傾け、底面を小十郎へと示した。底板に墨で小さく「弁」の文字。
小十郎はため息を落とした。
「念のため、室内には入れませぬよう」
「ただの蛍だぜ。何びびってやがるんだ、小十郎」
「念のため、と申し上げた。先に警備の強化を言い渡して参ります。稽古の相手は暫しお待ちを」
おう、と答えるのも待たずに小十郎は門のある方角へと走って行く。確かに、忍の侵入に誰一人気付かず本丸まで入られたのは事実だ。気に食わない。次来やがったら捕まえてやると心に決める。
そうして政宗はもう一度、虫籠をじっくりと確かめた。やはり、手紙の類はついていない。
「ったく、あのチビ……」
呆れ声で舌打ちした。
「何のつもりか知らねえが、寄越すならまず文じゃねえのか」
文もなく、差出人の手がかりもたった一文字。正面から届けるのは国同士の関係上厳しくとも、これでは出どころが知れないと捨ててしまっても不思議はない。それとも、それでも構わなかったということか。
共に山中を駆けた姿を思い出す。今も鮮明に思い出せる。
まだ子供の顔付きで、自分より背も低かった。そのくせ剣を交えれば纏う炎が政宗を焼いた。何のつもりか知らないが、あんな出会いは忘れられるはずもない。決着をつけると約束もした。
一年経った。きっと腕を上げている。少しは背も伸びただろうか。近況でも書いてよこせば、返事のひとつやふたつ書いてやるものを。そう思うが、日が落ちて、虫籠に黄色いあかりが灯りだせば、これを見せたかったのだと言葉などより雄弁に届いた。
翌日、水茶屋の看板娘は、店に顔を出したお城の若様へと前の日に預かった伝言を伝えた。
茶と餅、それから土産に団子を買った男からの伝言だ。薬売りか何かだろう、大きな背負い箱を持っていた。
確かに美味いわ。うちの旦那に持っていくよ。
それを聞いた若様の見せた、いつにない柔らかな顔に、娘は少し驚いた。
政宗の部屋の軒先には、虫籠が飾られて揺れている。
弁丸は団子が好物になった。
2020.09.07
幸村伝ネタ。バトパで弁丸をゲットして嬉しくなった勢いで書きました。