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飲め、と差し出された杯を、政宗は胡乱げに眺めて受け取った。
陶製の、脚のついた洋杯だ。満たされているのは深い赤。
「……Wineか」
「何だ。葡萄酒は好まぬか」
呟きに問い返されて、政宗は顔を上げた。隣に座る孫市を見れば、女にしては硬い、整ってはいるが表情の変化に乏しい顔に、今は僅かばかり可笑しそうな色が浮かんでいた。
雑賀荘の奥、頭領の館。
進軍の途中立ち寄った。
軽い手合わせと挨拶のみで去るつもりでいたものを、兵と馬を休めて行けと引き止められた。一飯と屋根くらいは提供してやるとも。
そして今は、館前の庭に建てられた四阿で二人、縁台に腰掛けて月の庭など眺めている。そう広くもない庭だが良く手入れされている様は、満月に近い青い月明かりと、石灯籠に入れられた灯りとで見て取れた。
「別にそういうワケじゃねえさ。ただ、オレとアンタで仲良く座って飲み交わしましょうなんざ、寒い話だと思ってな」
「まあそう言うな」
フフ、と孫市が短く笑う。久方ぶりの再会となるその顔に、僅かばかり印象の変化を見て政宗は密かに眉を上げた。硬いは硬いが、昔に比べ少しばかり和らいでいる。
二人が知り合ってからの日は深い。
政宗がまだ奥州筆頭でなく、孫市もまた雑賀孫市でなかった頃、伊達と雑賀の商談の場に二人は根継ぎとして引き出され、引き合わされた。以来、商談のたびに顔を合わせ、時には二人で表へと出され、戯れに手合わせをしたり散策ながら話などしたり。
だが昔馴染みと呼ぶには薄い。
それでも、互いに不測の事態で先代を失い、代わって立った。悲しむ顔など見せたことも見たこともないが、何か遠い戦友のように感じていた。
最後に二人が会ったのは孫市が豊臣と契約する前のことだ。もう幾年も昔の話になる。
政宗は洋杯を傾けて舌を濡らした。
「Wineなんざどこで手に入れた? そこらに転がってるもんでもねえだろ」
「貰い物だ。少し前に元親からな」
「……そりゃ『くすねた』の間違いじゃねえのか。西海の鬼は元気かい」
ぽつぽつと話し交わしながら酒を舐める。
二人の会話は弾みはしないが長く途切れることもなく、杯の中身を半分にした頃に、孫市が思い出した様子で口にした。
「そういえば、少し前に面白き男が来た」
政宗は眉を上げて孫市を見る。伊達と雑賀の付き合いは長いが、孫市の口からも先代の口からも、契約に訪れた他者の具体的な話など出た覚えがない。
「Han? 随分口が軽いじゃねえか、三代目」
「なに、あんなものは取引とも言えぬ。ただの騒ぎだ。獣が通り過ぎたようなものだ」
「獣?」
そう称されるような男。
心当たりに顔がちらつき、何となく嫌な予感を覚えて政宗は顎に手を当て指でさする。
「ああ。それほどうるさき男だったのだ。何しろ雄叫びが麓からここまで届いたほどでな」
件の騒ぎを思い出してか孫市の顔は楽しげだ。
「もっとも、声ばかりの虚仮威しでなく腕は立った。恐ろしくな。あの荒さは頂けないが、まあ見ものではあったぞ。我らの罠もすべて踏み抜けてみせた」
「……くぐり抜けた、の間違いじゃねえのか」
「さて、正しき言葉はわからぬが。避けもせずに進むまま装置を踏んで、起動すれば己の身に触れる前に破壊した。それをくぐり抜けたと言うならばそうだろう。あれならば猪の方がまだ柔軟だ」
予感は確信へと変わった。少し前に進軍を始めたと情報の入っていた武田軍――真田幸村が、動くにあたって雑賀に契約に訪れたということだ。
山に轟めく雄叫びを上げ、委細構わず真っ直ぐに突き進み、襲いかかる罠を力任せに突破する。長年会っていなくともその姿は想像に容易い。少しは考えて道を選べと忍の小言まで聞こえるようだ。
頭が痛むような、頬が緩みそうになるような、複雑な思いで政宗は続きを促した。
「で? その恐ろしく強え猪は、アンタのお眼鏡には適わなかったってワケか」
「いや。罠を抜け、我らに契約を迫ったまでは良かったのだがな」
孫市の薄い唇が緩く弧を描く。
「金を持っていなかった。さすがに、前代未聞の珍事だぞ」
確定だ。
あのバカが、と、政宗は葡萄酒を舐める。居たたまれなさにいっそ孫市に詫びたいほどだ。
「どれほど腕が立とうと金がないのでは話にならぬ。だから言ったのだ、獣が通り過ぎたようなものだ、とな」
「Hum..., そりゃまた迷惑な野郎だぜ」
「全くだ。しかし、あれが良いというのだから人の趣味はわからんものだな」
「あ?」
その不意打ちの、さらりと出された言葉の意味を、飲み込むまでに少しの時間を必要とした。面食らう政宗に、孫市が含みを持たせた視線を流して寄越す。
「……テメエ」
理解して、奥歯を噛んで、政宗は盛大に顔を顰めて孫市を睨みつけた。
フフ、と声を立てて孫市が笑う。
「そう睨むな。特別探っていたわけではない。確信もなかった。なにがしかの繋がりがあるようだと、耳に届いたのも随分昔の話でな」
当たりか、と楽しげに言う孫市に、政宗は苦々しく舌打ちする。
「カマ、掛けやがったってことかよ」
「そう拗ねるな。熱き男ではあったぞ。暴れ馬にはまあ似合いだ」
「Shut up」
言い捨てて、政宗は杯に残った酒を一息にあおった。鼻孔に届く甘い香りと舌に残る渋みの落差にどうにも慣れずにまた顔を顰める。
その様を目を細めて楽しげに眺め、孫市は葡萄酒の瓶を片手で差し出し傾けた。
「会いたいか」
問われて、政宗は唇の片端を吊り上げる。Ha, と短くひと声笑った。
「会いたいとか会いたくないとか、そういう話じゃねえ。オレとアイツはいずれ会うんだ。天下目指して進んだ果てで嫌でも出くわす事になる」
「はぐらかすな」
鋭く言葉で切り捨てられて、政宗は僅かに鼻白む。
「会いたいか、と聞いている。答えは是か否かのどちらかだ」
「……それを聞いてアンタはどうする」
「ふん? 存外小さき男だな。望みひとつ言葉に出来ぬか」
音がしそうなほどに奥歯を噛んで、政宗はついと顔を背けた。夜の庭に樹木の影が落ちている。丸に近い月の光は明るく、あと幾日かすれば満ちるのだろう。
「小せえ? ふざけんな。オレの器がでかけりゃ、今頃こんなところで遅れなんざ取ってねえ」
苦く言葉を吐き出せば、今度は孫市が目を丸くした。
「オレの器がでかけりゃ、天下の一つや二つ、とっくの昔に掴んでるだろうさ」
小田原の敗戦からこちら、体の傷を癒しながら己の非力さを痛感するばかりの日々を送った。認めるには時間が要った。だが、そんな事を口にするのは初めてのことだった。
「何だ、らしくもない。御箱の大言壮語はどこへ捨てた」
「うるせえ」
「フフ。まあ、それも悪くはない」
舌打ちして、政宗は深く息を吐きだした。
「アンタの心証は」
問いに、孫市は眉を跳ね上げる。
「アレか?」
「ソレだ」
名も呼ばずに、けれど幸村のことだと通じ合った。ふむと孫市は小さく唸る。
「そうだな。我らとしては」
「No, アンタ個人としてだ」
「個? 無意味な問いだ。だが……そうだな」
孫市は思案げに目を伏せ、人差し指で下唇を軽くなぞった。
「賭けるには危うい。ただ、私が個で、例えば日々に飽いていれば、或いは」
金銭に拘わらず心動かされた可能性はないでもない、と、孫市は言外に告げる。
「……I see」
「弁護があれば聞くぞ」
「いや。どうやら変わってねえらしい」
「元からアレか」
「元からアレだ」
努めてつまらなそうに視線を交わして、一拍の後、二人して忍び笑いを漏らす。
「会いたいか?」
重ねての問いにも、政宗は何も言葉にせず。
ただ、唇の片端を上げることで答えに代えた。
「おい。ところでそっちのアレは」
「ん?」
政宗は握った手の親指で後方を指す。孫市の館の方角だ。
「何とかならねえのか。視線が痛くて仕方ねえ」
政宗が示す先を孫市が振り向けば、物影から政宗を睨みつけていた大男が、慌てて身を隠したところだった。それでも、その派手な羽飾りが隠れきれずに雨戸から三本生えている。
孫市が軽く嘆息した。
「アレか。すまんな。邪魔をするなと言い含めておいたのだが」
「行って、見んな、って付け足して来い。しまいにゃ穴が開きそうだぜ」
「そうしよう」
孫市が縁台に杯を置いて立ち上がる。
政宗はそれを横目で一瞥して、
「意外な趣味、はお互い様じゃねえのか」
言えば、歩き出す孫市からは静かな含み笑いだけが返された。
初:2012.08.14/改:2013.04.03