ゆめ、ゆめ、まぼろし

 虫の音がやんだ。
 眠りに落ちる寸前だった。
 気がついて、幸村は闇の中で目を開けた。
 表にひそめた足音を聞く。土から、板へ。縁板へ。
 月はない。
 部下ならば室の外で声をかけるはずだがそれもない。
 闇の中手を伸ばし、枕元の護身用の刀を手に掴んだ。音を立てずに上体を起こした。
 浮かぶのは、なぜ誰も来ないのかという疑問だ。
 屋敷には昼夜問わず死角のないよう見張りの忍が配されている。侵入者があれば報せが来る。そのはずだった。それとも、と、幸村の脳裏に最悪の可能性が過る。――誰も来ることが、“できない”のか。
「何者だ」
 障子の木枠が擦れて開く。それに重ねて低く問えば、室内に滑りこんできた影は構わず後ろ手に障子を閉めた。濃い闇の中では、人影のその輪郭すらも定かではない。幸村は気配を尖らせる。
「……名乗れ。切り捨てられたくなくば」
 言うが、影はその場から動かない。言葉も無い。幸村は鯉口を切りながら僅かばかり語調を強める。
「名乗らぬか! ここを真田家当主の室と知っての振る舞いか!」
「Of course」
 歌うように返された言葉に、幸村は闇の中で目を見開いた。
「な、――ッ!?」
 素早い動きで距離を縮めた影は、幸村の手から刀を奪い投げ捨てた。鞘が畳を回りながら滑る。強い力が幸村の肩を両手で押し敷物へと押し付ける。伸し掛かる。
 嘘だ、と、呟いた言葉は声にならなかった。
「何故……、っ、何、で」
「こんな時間に? 寝所に忍び込んで? 夜這以外に何があるってんだ?」
 伸し掛かる影が喉で笑う。
「時間がねえ。つべこべ言わずにオレを抱くか、さもなきゃ黙ってオレに抱かれろ」
「――いるはずがない!」
「あァ?」
「居るはずがない。あり得ない」
 月のない闇夜に、目を慣らし凝らしても影はやはり影のままだった。顔が見えない。だが声はよく聞き知ったものだった。他に類のない、少し掠れて硬い、そのくせどこか甘い声。
「……が、来るはずが……!」
 それでもなお信じることができずに幸村はいちど強く首を降る。髪が敷物を打って乾いた音を立てた。伸し掛かる体の肩を両手で強く押して拒む。
 何年が経っただろう。
 そんなことももう咄嗟にはわからない。
 伊達が豊臣に押され力と領地とを大きく削がれ。
 信玄は徳川との戦の最中に倒れ幸村が武田を背負うこととなり。
 政宗の事を想う余裕など失って、自分を取り巻く状況に藻掻くばかりの日々だった。政宗から文や忍が遣わされる事もなかった。状況を考えれば当然だった。連絡を取りつけようとも思わなかった。
 それでも、会いたい、と酷い渇きのように望むことはあった。だが武田を背負う立場を思えば叶えることもできず。そして今の自分を見れば――見ずとも聞き知っていれば、失望されているのではないかとその想像だけで足も竦んだ。
 会わないと決めた。
 政宗の前に、胸を張って立てる時まで。
 そうして幸村が会いに行く事も、政宗が幸村に会いに来る事もなく、幾度季節が廻ったことか。
 それを今更。
 今になって、政宗が会いに来る理由など。
「なら、夢じゃねえのか」
 ぽつり、と影が言う。
「……夢?」
「いるわけがねえ、来るわけがねえ。アンタの部下も駆けつけて来ねえ。それなら、夢でも見てるんだろうぜ」
 幸村は肩を押し返していた手の、てのひらに得る感触を改めて確かめた。掴んだ指を押し返す弾力。硬い鎖骨と肩の骨。体温。
「だが、夢はこのように温かくはない。触れても」
「今はあったけえかもしれねえが、目覚めた時には忘れてる。夢なんざそういうもんだ」
 だろ? と歌うような声。
「……夢か」
 幸村は呟く。会えずに過ごした長い長い時間で、政宗の夢ならば幾度も見た。良い夢も、悪い夢も、――淫らな夢も。
「夢だ」
 影が言う。断言する。これまでの夢では得たことのない鮮明な声で。鮮明な体温で。鮮明な重さで。
 会わないと決めた。
 会えないと思っていた。
 それでも、
「夢ならば……触れても良いな?」
 肩を押し返していた手の力を緩め、幸村は影の頬にてのひらを触れさせる。
 滑らかな皮膚。頬の際の、ざらついた毛の感触。かつて幾度も触れたその手触りなど今はもう記憶に遠い。覚えてなどいない。
 けれど左の指先に硬い感触が触れた。
 刀の鍔の、眼帯の。
「……政、」
 呼びかけた名前は重ねられた唇の間で消えた。


 押し倒された姿勢で、舌を絡ませて深い口づけを受けながら、触れても良いのだと決めてしまえばもうただ任せてなどいられなかった。
 影を組み敷き、体勢を覆して主導権を奪った。
 そうして、手探りで触れる感触、体の厚み、髪や肌の匂い、汗の匂い、舌に得る味を朧げな記憶と擦り合わせた。眼帯を外し、隠されていたその下へも触れて唇と舌とを余さず這わせた。
「……あまり、変わらぬような気がするな」
 それも、これが夢だからだろうか。続けて言えば、可笑しそうに笑われた。
「さあ?」
 組み敷いた体の、背に回された腕は、同じように幸村の体を飽きることなく辿っている。肌を撫で回すてのひらは移動しては皮膚を押し、骨のくぼみを確かめる。
「アンタは、変わったな」
「……そうでござるか?」
「太った」
 脇腹を撫でながらどこか忌々しげに言われ、幸村は動きを止めて眉根を寄せた。
「これは、逞しくなったと言うのでござる」
「太ったに違いはねえだろうが。昔はこう、もっと薄っぺらくてほっせえ腰だったってのに」
「某とて成長いたす。いつまでも細いままではおりませぬ」
「可愛くねえな」
「可愛くなくて結構でござる。だが、それでもまだ佐助などには細いと言われては飯を痛っ!」 
「Shit, こっちまで掴みにくくなりやがった」
「頬肉を掴むのはやめてくだされと昔から……」
 頬を力任せに抓られて抗議の声をあげるが、一笑に付されて終わる。
「弁えのねえ口には仕置が必要だろ、真田幸村。今アンタが口にしていいのは誰の名だ?」
 抓った頬に今度は両手が添えられて、顔を包む体温に幸村は目を細める。まるきり飴と鞭だ。そんなことを思いながら。
「――伊達、政宗殿」
 名を呼べば、Good、と、声が返った。
 目が眩むようだ。
 泣きそうだ。
 甘く思いながら、大きく開かせた足の、片足を抱え上げ、強く腰を押し付けて結合を一層深くする。
「ッ、は」
 口づけて、水音をたてながら舌を絡ませる。
 唾液に濡れた唇を手の甲で拭って、幸村はひとつ息を吐いた。
「……淫らな夢でござるな」
「ん、っ……。そんなもん、これまでもさんざん見てんだろうが」
「それは、無論。見ぬわけがござらぬ」
「あ、あ、……ッ、う」
 突く動きに合わせて、政宗が短く甘い声を漏らす。その脳髄を揺さぶる響きに幸村は音を立てて唾液を飲み下す。
「貴殿の体など幾度も犯した。此度のように、せがまれる夢も見た。拒まれて無理強いする夢も。決戦にて打ち負かし、その場で辱める夢も」
「……ッ!」
 政宗の身体がびくりとふるえた。幸村を飲み込んだ入り口がきゅうと狭まる。
「政宗殿しか見たことがない。政宗殿だけだ。現でも夢でも、某がこのように欲するのは」
「――Ha, 言うじゃねえか。っとに、可愛くねえ」
 手が髪に差し入れられ、引き寄せられて、髪に鼻が近づけられた。
「太りやがるし、そのくせ頬は硬くなりやがるし、そのような夢破廉恥でござるとか言わねえし」
「そ、そのようなことを言われても」
「けど、陽の匂いがする」
 笑い含みに言って、耳元で深く息を吸い込む音。
「これは変わんねえな。アンタの匂いだ」
 胸を突かれた心地がして幸村は闇の中で目を見開いた。
 それは確かに、政宗によく言われた言葉だった。政宗は髪を触るのが好きで、指に絡めて梳いたり乱暴にかき回したり、そして鼻を埋めてはからかい混じりによくそんなことを言っていた。汗くせえ。馬鹿みてえに土と陽の匂いがする。暇さえあれば外で鍛錬に明け暮れていた幸村は、そのせいだろうと受け止めていた。
 だがそれも、昔の話だ。ずっと泥土に足を取られたような日々を送っていた。迷って動けず、抜け出せず。心は暗がりに落ちたままで、朝になれば変わらず陽が昇ることを疎ましく思うことさえあった。
 きっともう、昔のようではないのだろうと思っていた。何の迷いもなくまっすぐに顔を上げ、主君のために武を磨き、政宗に好敵手と認められた頃のようではないのだろうと。
 それを。
「……まことでござるか?」
 泥土に囚われたまま、迷いは晴れず。
 それでも、動くと決めたのは最近のことだ。
 そうして眩しさに目を眇めることなく太陽を見上げられるようになったのは、本当にごく最近のことだった。
「ん? ああ。どうかしたか?」
 不思議そうに、政宗が首を傾げる動きがごく近い距離で直に伝わる。
「そうか……」
 そうか、ともう一度胸の底から息を吐いて、幸村は組み敷いた体を抱きしめた。頬が緩んだ。そのくせ息苦しいような心地だった。首筋に額を強く押し付ける。
 変わらず陽の匂いがするとただそれだけの言葉に、ひどく救われたような思いがした。
「……なあ」
 髪に触れていた手がどこか躊躇いがちに背に回されて、幸村の体を抱きしめ返す。
「今日は、零さず中に寄こせよ」
 掠れた声が耳元で言う。
「いくらでもいい。オレの中に」
 アンタが欲しい。
 ねだられて、口づけて、口移しに唾液を飲ませて、開かせた足を抱え直す。
「っは、……あ、あっ」
 腰を引いて、突き上げた。繰り返し、繰り返し。
「あ……イイ、ぜ、んあ、あ、真田、ッ」
 ぐちぐちと、繋がった場所以外から音がする。幸村の動きに合わせて。自分で前をいじっている。それに気づいて思考が灼けた。
「あっ、ん、あ、ッは、あ、あ、……っや」
 荒く息を吐いて、締め付ける入り口を出し入れして、突いて、突いて、温かな内側を掻き回して。
「ッ、政宗殿……!」
 そうもたずに幸村は一度目の精を政宗の内側に叩きつけるように吐き出した。手を貸して政宗を射精させて、
「ッあ、馬鹿、いっぺん、抜けって」
「……聞けぬ」
 埋めたままの衰えを見せない欲望ですぐにまた政宗の中を犯し始めた。

          *
     
 目を開ければ、室内は障子越しの、朝の日差しに照らされていた。
 ぼんやりとしたまどろみの中で敷物を手で辿り、無意識に何かを探して、一気に覚醒が訪れた。
 飛び起きて、幸村は傍らを見る。
「――――ッ!」
 布団の上を手のひらで確かめる。上掛を剥いでその下も確かめる。そうして最後に胸に手を当て、自分の体を確かめた。
 夜着に皺は寄っていてもそれは常の範囲だった。汚れの跡なども見あたらない。昨夜の出来事を思い返し、その痕跡を探すが何ひとつ見つからない。鼓動ばかりがいたずらに早い。
 ただ、夢らしからぬ夢の感触だけが未だ肌に纏わりついていた。
「夢……?」
 清潔な朝の空気の中で呟けば、そうだったのかもしれないと心が揺れる。
 夢。――夢だったのだろうか。
「旦那あ」
 自問する幸村に間延びした声がかけられて、障子が開いた。
「じゃなかった、真田の大将。そろそろ起きねえと出立の予定が狂っちまうぜ」
 身支度のための水を満たした桶を盆に乗せて障子の内側に置いて、ほら見ろよ良い天気だぜ、と、空を指して佐助が笑う。
「……佐助」
「ん?」
 縁側に腰掛けた姿勢のままで、佐助は橙色の髪を揺らして幸村を振り向いた。
「昨夜、誰か、が」
 今のように状況が変わる前、政宗は忍の監視を素通りして幸村の元を訪れていた。通して良いと、幸村が通達してあった。忘れていた。今に至るまでそれを撤回した覚えはない。
 その言葉の効力は今も続いているのかどうか。
 昨夜、自分の元に政宗を通したのかどうか。
「いや、……すまぬ。何でもない」
 問おうとして、やめた。言いさした言葉を幸村は止める。知らないままで良いと思った。そう思う自分を嫌悪した。
 夢か、夢でないか。会いたくて会いたくなくて、ならばどちらかなどわからない方が良かった。考えて幸村は目を閉じる。
「何なの、それ。……って、ああ、そうだ。昨夜じゃなくて今朝だけど」
 のろのろと顔を上げれば、空を見上げて幸村に背を向けた姿勢で、思い出した様子で佐助は言った。
「東から戻った奴がいてさ」
「東?」
「うん。で、伊達軍に、戦支度の動きがあるって」
 幸村は思わず息を呑み、
「まことか!?」
 勢い込んで問う声は喉で掠れた。
「まこと、まこと」
 歌うような佐助の返事に、呆然として幸村は目を見開く。は、と短く発作のように笑い声が漏れた。
 戦支度。伊達軍に。
 幸村と理由は違えど、伊達もまた長く動かずにいた。動けずにいた。それが。
「そうか……」
 呟いて、幸村は笑った。頬を緩めて。
 伊達が動く。
 あの、竜が。
 ――動けるように、なった。
 伊達が立てば遅かれ早かれ幸村の、武田の障壁となる。それでも。
 かつて、戦場は何処よりも深く息を出来る場所だった。自分が身を置くべき、生きるべきとそう感じられる場所だった。戦いは歓びだった。刃で命削り合う語らいだった。そこで得られるのは高揚だった。今は違う。違ってしまった。
 けれど。
 幸村は褥を抜け、立ち上がり、廊下へと出た。日の差す場所へ。佐助の隣に立ち柱に手をかけ、佐助の視線を追って空を見あげれば、痛いほどに澄んだ青が広がっていた。その色に目を細める。
 遠く東を思う。戦の熱に乾いた大地を思う。そこに余裕を纏って凛と立つ六爪を携えた姿を思う。
 久方ぶりの高揚感に頭の芯がじんと痺れた。また、戦える。
「……そうか」
 掠れた呟きに、振り向いた佐助は幸村を眺め目を丸くして、変な顔、と揶揄して笑った。

初:2012.07.23/改:2013.04.03
『夜這い』 選択課題・ラブラブな二人へ > お題配布元:リライト