fruity

 湯殿から自室へと戻る間に髪はすっかり冷えてしまった。拭いきれなかった水気が髪の先で雫になって、小袖の肩にかけた水避けの手ぬぐいをぽたりぽたりと濡らしていく。ゆっくりと湯に浸かった体は十分に温まっていたが、それでも真冬の外気には抗えない。
 寒ィ、と音にせずにつぶやけば、薄闇の庭に言葉が白く漂った。
 体温を奪われて一度身震いし、政宗はわずかばかり歩調を速める。明かりの灯る、目指す部屋の障子を開ければその途端、冬枯れの夜の庭から一転しての暖かな色彩に視覚から緩く安堵する。
 燭台。火鉢。
 真田幸村。
 暖められた部屋の温度よりも政宗を見上げて浮かべられた笑みに、寒さに強ばっていた体から力が抜けた。後ろ手に障子を閉めて冷気を遮る。
「早うござったな」
 顔をほころばせる幸村はほんの少し前、予定を遅れて日暮れ近くに政宗の居城へと辿り着いたばかりだった。日が落ちる前にとすぐさま夕餉の運びとなり、それが済めば政宗は湯殿へ。あとは幸村が風呂を使えば、ようやく落ち着いての二人きりの時間となる。
「別に早くはねえだろ。茹だる寸前で怠いくらいだ」
 束になって落ちかかる前髪を片手で後ろへと遣りながら言えば、幸村が笑みを深くする。その締まりのない顔に政宗は眉間に皺を寄せて、戸口から幸村を睨みつけた。
「何、にやけてやがる」
「すまぬ。政宗殿が湯上りのお姿ゆえ、つい顔が」
「……んだ、そりゃ」
 言いながら政宗は、幸村の手元に目を落とす。
 持たれているのは政宗が貸した、異国の文化を記した書物だ。近づけば開いた誌面には文字だけでなく細かな図が記されている。湯を使う間の時間潰しにと適当に渡したものだったが、捲った分の厚みを見れば、どうやら熱心に読み進めていたらしい。
「案外面白えもんだろ」
 問えば幸村は頷いて、手の中の書物へと目を落とし小口を軽く指で撫でた。
「うむ。読んでいたらあっという間に政宗殿が戻ってきたので驚いた」
「Ha, それで『早うござった』か」
 時間を忘れて読みふけっていたという幸村に、政宗は喉で笑う。戦場に出れば猪突猛進の幸村だが、頭を使えないわけではない。これで意外と書を好む。政宗の使う異国語なども覚えてみせる。碁も強い。素質はある。ただ、自分には槍働きしか能がないという幸村の思い込みがその素質を妨げている。政宗はそう考えていた。
 最も、政宗の目指す先を思えばそんな素質など花開かない方が良いのだが。
「幾つか解らぬ言葉もあったのだが、そこは政宗殿にお聞きしようと」
「どれだ? 見せてみな」
「ああ、確か──」
 傍らに腰を下ろした政宗に、幸村が言葉を途切れさせた。きょとんと目を丸くする。
 どうした、と政宗がその目をのぞき込めば、幸村は一度鼻を鳴らし。
「政宗殿でござったか」
「あァ?」
 どういう意味だ、と言外に問えば、幸村はまたすんと鼻を鳴らして空気を嗅いだ。
「柚子が」
「ん?」
「香ってくるので、先ほどから不思議に思っていたのだ」
 なるほど、と、政宗は自分の匂いへと意識を向けた。
「……I see」
 幸村の鼻をくすぐる香りの元は、湯に浮かべられていた柚子の実だ。寒さの厳しい季節、政宗の湯殿には柚子が一つ二つ浮かべられるのが常だった。体がほぐされ温まるだけでなく、においに心も安らぐ心地がする。冬の湯の楽しみだ。
「柚子湯だ」
「柚子湯?」
「湯に、柚子を丸ごと浮かべんだ。アンタんとこじゃやらねえか?」
「柚子ならば庭に生りまするが、湯に入れるのは……」
 書物を閉じた幸村は、引かれるような動きで政宗の膝へと手をついた。確認しようとしていた書物の内容よりも、今はその匂いが気になるらしい。
 腰を浮かせ、政宗の肩のあたりへと鼻を寄せ、深く息を吸い込んで目を閉じる。
「良いにおいがいたす」
 肩口から胸。首筋。
 匂いを嗅ぎながら顔を移動させた幸村は、喉元に至ってそこを軽く舐め上げた。政宗はくすぐったさに息で笑う。
「柚子の味がするか?」
「味はせぬな。美味そうに思えたのだが」
「Han? いつもは美味そうじゃねえとでも言いてえか。このオレに向かって?」
「いや、いつもとはまた……」
 違う、と、軽口にも生真面目に答える幸村の吐息が政宗の肌に触れる。喉元から上がって耳のあたりで幸村は止まり、少しずつ移動しては熱心に髪と肌の匂いを嗅いでいる。体温は感じても、肌の触れ合わないぎりぎりの距離。
「……ん」
 震えそうになった体を、意志の力で抑え込んだ。抑えきれずに声だけ零れた。
 そんな自分に苦笑して、政宗は幸村の耳を掴んで引っ張った。
 ただ柑橘の香に誘われた、それ以上の意図のない行為だとは解っているが、舐められたり呼吸を間近に感じたりと、このままでは政宗の方が落ち着かなくなる。
 耳を引かれて顔を上げた幸村の口の端に口づけた。
 驚いた幸村は、けれどすぐに瞼を閉じる。手探りで政宗の背へと片手を回し身を寄せた。
 幸村が湯を使うまで家人は下がれない。だから、久方ぶりの互いの熱を煽らないよう、ただ触れるだけの口づけをした。
 その柔らかな、少し乾いてかさついた感触をそれでもゆっくりと楽しんで、政宗は顔を離す。
「次は、アンタが美味そうな匂いになって来な」
 柚子はそのまま湯に浮いているはずだ。浸かれば幸村も同じ匂いになる。
「ゆっくり浸かってこいよ。戻ったらオレが味見してやる」
「うむ。ならば、味が染みるよう励まねばならぬな!」
「……何をどう励むつもりかは知らねえが、実は潰すなよ」
 行け、と握った手の甲で肩を押して促すが、幸村は抱きついたまま離れず、もう少しだけ、と、また肩口に顔を寄せた。深く息を吸い込んで匂いを嗅ぐ。
 布越しに感じる体温は、湯上りの政宗より余程熱い。
「おい。いい加減にしねえと、その気になっちまう」
 笑い含みの言葉はまるきりの軽口というわけでもなかったのだが、やはり幸村は離れない。
「すまぬ……が、あと少し」
 またたび齧った猫かよと政宗が呆れて言えば、幸村はそうかもしれぬと軽く笑う。
 そうして、次に政宗殿を思い出す時は柚子の匂いでござるなと囁いた。

2012.06.26/改:2013.04.03
通販オマケの再録