臍曲がり湯煙慕情

 それは特に理由や計画があってのことではなかった。たまたま政宗が温泉に浸かりたいような気分になり、それが幸村の滞在中で、ならば二人で行くのも悪くはないと、居城にほど近い山間部の隠し湯へと幸村を連れて訪れた。
 透明で癖のない湯は今は夕刻の朱の色に染まっている。岩壁に背を預けて見渡す景色も一面同じ色に染められて、黄金の光に縁取られて複雑な色を見せる日照り雲や、炙られて溶け落ちるような空。緩やかな風が木々を揺らす音や近くで水の流れ落ちる音を聞きながら、政宗は上機嫌で湯を浴んでいた。
 孫子の話になったのは、二人並んで湯に浸かりながら、とりとめもなく交わした言葉の流れだった。
「おお、政宗殿も孫子を読まれたか!」
 言う幸村は目を輝かせ、その声は弾んでいる。
 戦場では一直線に突き進む事しか知らぬような槍を使うが、幸村が孫子を好むだろうことは政宗にも容易に想像がついていた。何しろ盲目的なまでに傾倒している主君・武田信玄が、孫子の一節を旗指物に記しているほどなのだ。
 このお館様馬鹿が、と、少しばかり面白くない気分になりながら、政宗は額に落ちかかった髪を後ろへと撫でつける。
「別に珍しくもねえだろ、孫子くらい。誰でも読むぜ」
「それはそうなのだが、政宗殿。それがしは政宗殿が読んでおられたことが嬉しいのでござる」
「あァ?」
 怪訝そうに視線を遣れば、幸村は少しばかり照れ臭そうな、柔らかな笑みを政宗へと返す。
「いや、孫子を好むと聞けば、それが誰であっても嬉しく思うのは同じなのだ。だが、お慕いする方が同じものを好んでいるのだと思うと、何やら特別嬉しい気持ちが致した。不思議なものでござるな」
 そう言って、歯をこぼして笑う幸村の、色の薄い髪は黄昏の光を受けてまるで蜜の色だ。別に好んでいるとまでは言っていないと、否定しようとして、政宗はそれにひととき目を奪われて口を噤んだ。
 眉根を寄せて、隻眼を細める。
 胸に奇妙な息苦しさが生まれ、迫り上がってきた感情に喉元が痛みを訴える。
「……どこを、好きになった?」
 思いがけず口を突いて出た問いは、耳で聞き、一拍遅れて自分の言葉だと認識して、政宗は血の気が引く思いで後悔した。
 らしくないにも程がある。これではまるで己に自信のない人間のようではないか。
 けれど取り消してはわざわざ動揺を知らせるようなもので、平静を装って答えを待てば、
「どこか、と言われれば、やはり、お館様が軍旗に記された一節でござるな!」
 ……幸村は孫子のことだと受け取ったらしい。迷うことなくそう答えて、茜の空を仰ぐと胸の前で拳を握る。
「其の、疾きこと風の如く! 其の静かなる事林の如く!」
 政宗は長く息を吐き、力強くそらんじる声を聞きながら岩壁に背を預け直して、姿勢をずらすと肩までを湯に沈める。
 安堵と同時に、少しばかりの落胆があった。訊ねたことは大いに後悔したが、……答えを聞いてみたくもあったのだ。
 同じように空を仰げば、朱の空を鳥が一羽、浸食する夜の色に追い立てられるようにして山の影へと飛び去って行った。
 幸村の暗唱の声はまだ続いている。
「――動くこと雷震の……ああッ!?」
 唐突に奇声をあげた幸村が、湯を波立たせながら政宗を振り向いた。
「……あ? 何だ?」
「いや、その、先ほどの、その、もし、政宗殿のことであれば」
 政宗は目を瞠る。言い淀む幸村は、肩がぶつかりそうな勢いで身を乗り出す。
「それがしも佐助などに訊ねられて幾度か考えてみたことがあるのだが、……その、恥ずかしながら、いまだに答えが見つからぬのだ」
 幸村の目は真剣そのものという色で、そこまで言うと一度息を吐き、弱りきった様子で眉尻を下げる。まっすぐに向けられる眼もまた夕日を映して蜜の色だ。
「目を見ても、声を聞いても血が沸き立つ心地が致す。髪に触れれば手を離しがたく思う。姿すべても人となりも、身のこなしや剣筋もと、好ましいと思うところを挙げていくときりがないのだ。それでどうしてもひとつに絞ることができぬ。だから、どこをと訊ねられても答えることが」
「……馬鹿かテメエ」
「え」
 幸村の言葉を遮って、わざとらしいほどに呆れた声と表情で、政宗は幸村の肩を軽く拳で突いた。頬を歪め、挑戦的に笑ってみせる。
「孫子の話だ。何勘違いしてやがる」
 幸村は呆けたように口を開け、すぐに恥じ入った様子で頭を下げた。
「……そ、そうでござったか。申し訳ござらぬ……」
「別に構やしねえがな。で、さっきのは軍争篇だったか?」
「あ、うむ、左様でござる。聞いた話によると、お館様が国主となられてまだ間もない頃に――」
 再び話し始めた幸村の声を聞きながら、政宗は両手で湯を掬う。手の中に熟れた果実を思わせる夕日が落ちていく。それを、一息に顔に受け止めて。
 夕刻を選んだのは正解だった。夕刻でなくとも、場所が湯の中であって良かったと、そう思った。
 湯のせいだけでなく顔が火照っているような気がする。そのことを、幸村に悟られることは耐えられそうになかった。

2007.09.05 『一緒にお風呂』選択課題・ラブラブな二人へ > お題配布元:リライト
大河『風○火山』十四話のパロ。