戦国のSt. Valentine's Day

 文机に向かい硯に墨を擦り足しながら、幸村はそわそわと落ち着かずにいた。
 気を抜けば開け放った障子の向こう、冬枯れの庭ばかりを気にしてしまう。
 始終そんな具合に気を散じさせているせいで書き物は一向に捗らなかった。書き損じの紙ばかりが畳に幾つも転がっている有様だ。今もまた、墨の量を見誤って筆の先から黒い雫が、書いたばかりの文字の上にぼたりと垂れた。無意味な丸い染みを眺め、呻きと共に諦めて、幸村は筆を置く。
 集中していない。できるわけがない。
 こんなことならばやはり、無理を押してでも自分で行くべきだったと考えるがもう遅い。
「政宗殿……」
 顔を上げ、空を見上げる。思いを馳せるは遠く東の地だ。
 教えられた異国の風習。その当日だった。
 教えられた通りに政宗への贈り物を用意した。
 だが、時間を作り、自分で届けるつもりでいたものが、急用が入り断念せざるを得なくなった。せめて贈り物だけでもと、詫び状を添えて佐助に託し、送り出したのが今朝のこと。日をずらすことも考えたが、その贈り物に意味を持たせるには今日でなければ駄目なのだと聞かされていた。
 だというのにその用事が予想外に早く済み、こうしてただ落ち着き無く、急ぎでもない書き物などしながら佐助の帰りを待っている。
 こんなことならば出立の時間を遅らせるのだった、今からでも後を追うか、と何度目かに考えた時、常緑樹の葉がかさりと鳴って、幸村は廊下へと飛び出した。
「佐助か!?」
「あー、旦那ぁ……」
 片膝を付いて着地した姿勢から視線だけを上げ、どこか疲労を感じさせる声で佐助はひょいと片手を上げる。
「ご苦労だった! 白湯でも飲むか? 茶の方が良いか? 何なら肩も揉んでやる!」
「はは、遠慮しておきます、っと……」
「それで、どうだったのだ政宗殿は? 喜んでくれたであろうか!?」
 草履を爪先にかけて転ぶように庭先へと出た幸村は、佐助の正面へとしゃがみ込む。
 期待に満ちた瞳を向けられて、佐助は思わず幸村から目を逸らした。
「いや、それが」
「真田ァァァ!!!!!!」
 佐助の言葉を掻き消して庭へと飛び込んできたのは、聞き慣れたガラの悪い雄叫びと、騒がしい馬の蹄の音。
 驚いて立ちあがる真田の主従の前で急停止した馬の背から、ひらりと飛び降り仁王立ちするのは、奥州筆頭・伊達政宗その人だった。
「政宗殿……!」
 幸村の表情はぱっと明るくなり、対照的に佐助の顔は青くなる。
「何それ嘘だろ!? 何で俺様と同じ速さで着くわけ? あんたちょっとおかしくねえ!?」
「Ha! 奥州馬ナメんじゃねえぞ真田の忍!」
 ナメているとかそういう問題でなく、佐助は凧で、上空高くの風に乗って上田まで戻って来たのだ。
 忍仲間とすれ違って挨拶を交わしたり、敵の忍と出くわして苦無の投げ合いをする羽目になったり、まあ上空は上空で色々あるのだが、それにしても馬に比べて凧は早い。特に今日は風が強く移動は殊更速やかで、近距離の移動に使う鳥と違って物が凧だから疲れも知らない。
 比べて政宗は馬である。奥州から上田まで休みもせず、それも尋常でない速度で走り通したなど常識外れにも程がある。
 今に泡を吹いて倒れるのではないかと佐助は馬の様子を伺うが、鹿毛の馬は涼しげな顔で何だかとっても余裕そうだ。武田とは違う方向で伊達軍もまた常識の通用しない軍だと思ってはいたが、自分の認識の甘さを痛感する佐助である。
「その、政宗殿、良く参られた。とりあえず中に」
「そんなことより真田幸村ァ!! これは何だ。下手なjokeのつもりじゃねえだろうな?」
 言いながら政宗が取り出した物は、幸村が佐助に持たせて政宗へと贈った、片手におさまるほどの小さな茶色の――
「猪口、でござるが?」
「……チョコ違いだこの馬鹿野郎!」
 その雷鳴のような怒鳴り声に、幸村は思わず耳を塞ぎ、佐助は忍装束の襟に亀のように首を竦め、馬は両の耳をぱたぱたとふるわせると抗議するかのようにひとつ嘶いた。


「テメェ……異国の風習にゃ詳しくねぇな?」
 それは半月ほど前に伊達の城を訪れた時のことだった。
 政宗が所用で席を外したところ、幸村は片倉小十郎に厠の裏手へと呼び出され、何かと思えばそんなことを尋ねられた。
 これまで寝ても覚めてもお館様、という生き方をしてきた幸村は、信玄の癖や好む酒や食べ物や香や指圧の加減など、信玄に関することならば誰にも負けないほどの知識があるが、異国の行事などただの一つも知りはしない。
 頷く幸村に小十郎が話して聞かせたのは、『ばれんたいんでぃ』という異国の行事についてだった。
 如月の十四日に、好意を寄せる相手にちょこを贈るという風変わりな習わし。
 渡すのは好いた相手に限らず、日頃世話になっている相手や、尊敬する人物に贈るのもまた粋な行為とされるらしい。
 日の本では全くと言って良いほど知られていない行事だが、ここ数年、伊達軍の間では徐々に広まりつつある。だから幸村もちょこを贈れば、きっと政宗は喜ぶだろう。
 ――というのが、小十郎の話だった。
 幸村は目を瞠り、たまらず小十郎へと頭を下げた。
 小十郎がいまだに幸村と政宗の関係を快く思っていないことは、口にされずともその態度から見て取れる。だというのにその幸村に、政宗が喜ぶ贈り物を教えてくれた、その心意気に幸村は震えた。
 どこの国の風習なのか、なぜ贈る物がちょこに限定されているのか、問うてみたが片倉にも詳しい事はわからないという。
 だがそれを贈ることで政宗を喜ばせることができるのであれば、理解できない風習だろうと従うまでだ。
「片倉殿、感謝致す……! それがし、必ずや政宗殿のためにちょこを用意致しまする!」
「といっても甲斐じゃ手に入らねぇかもしれねぇがな。まだ稀少な物だ。ちょこでなくとも構わねぇが、可能ならちょこを用意しろ」
 話す小十郎の眉間に派手に皺が寄っていたのは、政宗を喜ばせたい気持ちと、幸村を認めたくない気持ちとが複雑に入り交じった結果だ。
 幸村は小十郎にもう一度頭を下げて礼を伸べ、本日二月十四日、腕の良い陶芸家に注文して作らせた猪口を、政宗へと贈ったのであった。

 ――が。

 縁側に二人並んで腰を掛け、幸村はひとつ唸ると、佐助に用意させた白湯の椀で舌を湿らせる。
「猪口を稀少な物などとおかしな話だと思ってはいたが、なるほど、ちょことは異国の甘味のことでござったか……」
 その佐助はといえば白湯を置くなり、政宗の馬に水をやるという名目で、馬を連れてさっさとどこかへ避難してしまった。
「正しくはchocolateだな。Chocolateを知らねえ相手に略した小十郎も小十郎だが、勘違いするアンタもアンタだ。少しはおかしいと思いやがれ」
「……面目もござらぬ」
 政宗は片脚だけを胡座に抱えた行儀の悪い姿勢で縁側にふんぞり返り、しょげる幸村を睨み付ける。
「しかし、それがしは甘味は好むが、その、ちょこ……れいと? という甘味はこれまでに見たことがない。どこで手に入るのだろうか」
「だから、まだ稀少なんだよ。直接異国の商人と交渉しねえと無理だな」
「では、もう『ばれんたいんでぃ』には間に合わぬのか……」
 幸村は異国の商人につてなどない。探したところで手に入らない可能性の方が高いだろう。
 椀の湯を揺らす幸村は気落ちした様子だ。それを横目でひと眺めして、政宗は手の中の猪口へと目を遣った。
 深い土色の素地。わざと歪に作られたかたちには味わいがあり、触ればざらりとした質感が指に心地良い。土色の上には繊細な筆致で竜が描かれ、嫌味を感じさせない程度に所々金が施されている。
 チョコと猪口を掛けたつもりかと思わず上田まで突っ込みに来てしまったが、品としてはなかなかの出来映えだ。
 口元で笑って、政宗は猪口を顔の高さに掲げると幸村へ示した。
「とんだ勘違いだったがな。ま、これはこれで悪くねえぜ?」
「まことでござるか!?」
 途端に、身を乗り出した幸村の表情が明るくなる。
「まあな。気に入った。気に入った礼に教えてやるが、chocolateってのは濃い茶色をして、固えが口に入れるとするっと溶ける」
 幸村は瞬いて、自分の知識の中からそれに近いものを探して想像を巡らせる。
 濃い茶色。固くて、溶ける。
「飴のようなものでござろうか?」
「飴よりは柔らけえな。溶けるのも早え」
「ならば、固くなった餡子のようなものか?」
「それも違う。餡に比べりゃずっと固え。で、餡とも飴とも違う甘さだな。……口開けろ」
 言えば、幸村は何の躊躇いもなく口を開けてみせた。政宗は袂から紙の包みを取り出し、中の物をひとつ摘み上げると、幸村の口へ放り込む。
 無言になって口内に入れられた物を舌で探っていた幸村は、少しの後に、驚いて片手で口元を押さえた。
 すぐにはわからなかったその味は、ぼんやりとした苦みの後、鼻の奥がつんと鈍く痛むような刺激と共に舌の上に広がった。
「……甘い!」
「だろ」
 片頬で笑いながら、政宗は紙を縒り直すと、残りを幸村の脚の間へ放り投げる。
「火の側には置くなよ。すぐに溶けちまう。……っと、アンタの膝も危ねえか」
 無造作に寄こされたそれを拾い上げて、幸村は包みの中を確認した。指の先ほどの大きさの、四角い茶色の粒。
「ああ、刺激が強えから一度には食うなよ」
「うむ。何やら鼻の奥が痛むような気が致す」
 政宗は喉を鳴らし、水を飲めと笑う。
 どこか意地悪いような、いつもの笑みを浮かべる政宗を見て、幸村は瞬きを繰り返したあとに白湯の残りを喉へと流し込んだ。
 水に洗われてもなお、馴染みのない甘味に口の中がひどく甘い。
「これが、ちょこというものか」
「おう」
「……好いた相手に、ちょこを贈る日でござったな?」
「それが?」
 肯定に、幸村は包みに目を落とし、「そうか」とだけ呟くと、くしゃりと破顔した。
 幾度も体を重ねた関係。それでも、好きだの何だのという言葉が政宗の口から出されたことはない。
 言葉がなくとも求め、受け入れてくれる事実。それだけで充分で、それで構わないと思っていたが、これは今までで一番の、間接的な告白だ。
 それを思えばひたすらに頬は緩み、胸の奥がじわりと温かなもので満たされる。苦しいような心地さえする。
 口の中に残る味と似ていた。
 とろけるように甘く、そのくせどこか苦さを含む。
「異国には、良い風習があるものだな」
 心の底からそう言えば、政宗は眉を顰めて幸村を見る。
「……Chocolateくらいでそんなに喜ぶか?」
「うむ! それがしは、日の本一の幸せ者だ!」
 笑み崩れた顔は、にやにやすんな気持ち悪い、と、政宗に頭を叩かれてもそれでも収まらず、抑えきれなくなった喜びのまま、幸村は政宗を強く抱きしめた。

初:2007.02.14/改:2009.05.28 『贈り物をする』選択課題・ラブラブな二人へ > お題配布元:リライト
16世紀に固形チョコなんか存在しないんですが、バサラは婆娑羅歴なので気にしない。