衝動

 全身を駆けていた熱が引けば、代わりに泥土が纏い付いたかのような酷い気分が重く胸を支配した。
 汚れた手を、懐紙で拭って始末して、それでも掌に残る不快感。洗いに行かねばと考えながらも動く気になれず、幸村は落ち着かない心地に耐えかねて布団に突っ伏した。
 胸は重く鼓動が速く、病のように顔が火照り、体は怠いのに頭は冴えてしばらくは眠ることもできそうにない。誰かに、誰でもいいから誰かに、無性に謝りたいような居心地の悪さがあった。
 性的な欲求に従って、自分で自分を慰めたなど初めてのことだ。
 恥じるようなことではないと教えられていた。寝起きの現象をやむを得ず始末したことならば幾度もある。が、今はそれとはわけが違った。圧倒的な羞恥に顔が歪む。しかもそんな風に収まりがつかなくなるほどに想像を巡らせていた相手は、といえば。
 どうしようもない罪悪感と己に対する嫌悪感に襲われて、居たたまれずに布団を握りしめると、奥歯を噛んで白い布地に額を強く擦りつけた。
 顔が熱い。
 触れた感触がまだ残っている。
 なぜあんなことを言ってしまったのかわからない。
 信玄の使いで、奥州伊達政宗の城を訪れたのは数日前のことだ。用事を済ませるなり半ば強引に城の裏手に連れ出され、槍を渡されて、有無を言う間もなく打ち合いを仕掛けられた。ここでなら多少暴れても壊れる物はない、と楽しげに言い放った政宗はその言葉の通りに手加減も容赦もなく、使者の立場を気にしていた幸村もすぐに本気にならざるを得なかった。そうして一度頭をからにしてしまえば、政宗と打ち合うのは幸村にとってもただ悦びだ。
 戦場でまみえて超えねばならないと定めた、抑えがきかないほどに戦いたいと願った相手。理屈抜きで血が沸き立つ相手。
 だが、からになった頭でも殺す前に刃を止める程度の理性は残っていた。
 勝負がつく頃には二人揃って、長い間打ち合っていたせいでまるで通り雨にでも遭ったかのように汗をかいて、やっぱりアンタの槍筋は面白いと言って笑った彼の髪の先から、垂れた汗が頬を伝って顎の先で雫になった。それを、目で追って――――。
 ふいにかたりと古い障子の木枠が鳴り、幸村は布団から顔を浮かせた。室内の空気が僅かに動いている。人の気配はない。夕刻から吹きはじめた風が、まだ落ち着かずに外を吹いている。
 月のない夜闇の中で目を凝らし、しばらくそうした後に、寝返りをうって横になった。
 瞼を閉じれば数日前の、強い日射しの下で見た姿が、甲斐に戻った今も鮮明に脳裏に蘇る。
 いびつな玉になった汗と、乾きを潤すためかちらりと唇を舐めて消えた赤い舌、唾液に濡れた唇。触れたい、という欲求が、自覚の外から唐突に姿を現した。
 青草に腰を下ろし、悔しげに舌打ちして前髪をかき上げた政宗が、不機嫌に伏せた隻眼を跳ね上げて。
『仕方ねえ、手が滑ったとはいえ負けは認めてやる。……Hey, winner?』
 言葉の意味はわからなくとも呼びかけられたことは響きで判った。
『褒美をやるぜ。望みはあるか?』
 問われてぎくりとした。
 望みはある。つい今しがた見つけた望み。
 あいにく首はやれねえぞという先回りの冗談を混ぜ返す余裕もなく、ただ視線が吸い寄せられた先に触れたいと、衝動的に口にした。
 自分が口走った内容に気付いて、青くなったのは少しの後だ。取り消すには既に遅く、政宗は驚いた様子で、何とか言い繕おうと考えれば考えるほど空回りしてどうにもならず、弱り切って俯いたと同時に耳に届いた苦笑の気配に、羞恥で指先から血の気が引いた。
『欲がねえな。……ま、意外といえば意外だけどよ』
『……は?』
 困惑して顔を上げ、視線がかち合った後に政宗が、口の片端を歪めて笑った。
『触れるだけでいいのか?』
 彼特有のからかうような響きを持った、掠れた声が耳朶を打った。
 なぜ、拒まれなかったのかわからない。
 思いもかけない反応に動けずにいた幸村に、痺れを切らして政宗が身を乗り出した。口を吸われ、舌を出せと言われるままに訳も分からず従えば、ぬめってざらりとした感触が舌に絡みついた。思えば、かなり長いことそうしてていたような気がする。驚きが過ぎてしまえば、熱さと心地良さに夢中になった。
 我に返って狼狽した幸村と対照的に、政宗は悠然としていた。慣れているのだろうかと考えて、重苦しい胸の中央に、針で刺したかの痛みが走る。
 唇が、あんなに柔らかいものだとは知らなかった。
 触れた途端に思わず顔を離して逃げた、それくらいの驚きだった。
 唇を重ねながら掴んだ手は、骨張っていて滑らかで、剣を持つ掌の皮膚は固く変じて、触れた部分が汗で湿って温かかった。
 捲った袖の下に僅かに覗く腕や、鎧に覆われた胸や腹や脚や背中、そういった場所に触れたらどんな感触が得られるのだろうと、そう、考えて。
 かたりかたりと、風に煽られて障子が鳴る。
 想像して、疼き始めた下腹に耐えきれずに手を伸ばした。そんな己を恥じて、もう顔を合わせられぬとも思うのに、思い出してまた脚の間で芯が熱を持つ。
 寝返りをうって視線を彷徨わせ、天井に意識を向けて何者の気配もないことを確認すると、幸村は逡巡の末に再びそろりと裾に手を差し入れて瞼を閉じた。
 政宗のそこに触れたら、と、考えて喉が鳴る。
 同じ性だ。同じつくりの身体だ。暴いて触れて擦り立てれば、同じような熱と痺れに支配されて思考を溶かして、吐息の温度を上げるのだろうか。
「……さ、……ねどの」
 挑発するような言葉ばかりを使う、耳に心地良い掠れた声。低いとばかり思っていたが、聞き慣れれば意外と高い声だと気が付いた。あの声は快楽を得て、どんな風に濡れるのだろうか。どんな響きで、自分の名を呼ぶのだろうか。
「……っ」
 息が跳ねる。下肢に水音。
 想像の中の政宗の、服をはだけて肌に触れる。舌で舐める。
 思考が散る。扱いて勃ちあげた中心の、裏筋を指で撫で上げて先端を爪先で緩く抉って刺激する。空気に溺れた魚のように喘ぐ口から意味を持たない言葉が漏れる。
 声が聞きたい。肌に触れたい。触れて欲しい。心の臓が痛む。呼吸が苦しい。どうすれば良いかなどわからない。もう、唇では足りない。
「ッ、すまぬ……!」
 声を絞り出すようにして詫びた。思考が白く弾けて濁る。
 じくじくと胸の奥を苛む罪悪感すら今は甘く、荒い息の下から縋るように名前を呼んだ。

2006.12.16