五
歩き去った政宗に、全力で駆けた幸村はすぐに追いつくことが出来た。
「政宗殿!」
月明かりを頼りに湖岸を歩く姿を見つけ、声を限りに呼べば、立ち止まった政宗がうんざりとしたような動作で幸村を振り向く。
「……何だよ、真田」
「待ってくだされ! 話がしたいのだ」
数歩の距離に立ち、幸村は夜闇の中、政宗の隻眼とまっすぐに視線を合わせる。
「あいつらのことならオレは絶対にいらねえぞ。テメエんとこで何とかしろ」
「そうではない! それがしは」
踵を返しかけた政宗の腕を、逃げぬようにとぐいと掴んで引き止める。
「それがしは、あの者どもを庇ったわけではない」
言葉に、政宗が眉を顰めた。
顔を近づけて、探るような目で幸村を見る。
「……それを、言いに来た。政宗殿に、同じ姿をした者を手にかけることなどさせたくはなかった」
「だから、止めたって?」
「そうだ」
政宗は、心底馬鹿にしきったように息を吐く。
「馬鹿かアンタ。顔は同じでも、ありゃオレじゃねえ」
「それでも」
「O.K. それでもオレだって言うなら、本人が許可してんだ。他人のアンタが止める筋はねえ」
「筋はなくとも!」
何事かを言いかけて口を開いた政宗は、それを飲み込み、呆れた様子で頭を掻いた。
「そうかよ」
幸村は頷いて口元に笑みを掃き、政宗の隻眼をひたと見据えた。掴んだ腕の袖を引く。
「またいずれ、戦場で。今日の勝負の続きを致しましょうぞ」
「そのうち……な。まあ、それまであいつらでも相手にして、せいぜい腕上げとけよ」
軽く言った政宗の言葉に、幸村の纏う空気が硬くなった。
「あのようなもの、相手にする価値もない」
吐き捨てるように言い放った幸村の、急激な態度の変化に、政宗は目を忙しなく瞬かせる。
「政宗殿とは似ても似つかぬ」
「おい、さっきと言ってることが違うぜ、真田幸村」
「姿は同じだ。だが、政宗殿とは心が違う」
苦く表情を歪ませる幸村の様子を、じっと伺って、政宗は僅かに首を傾げた。
「何があった」
「何も。心の根が違うとはっきり分かっただけでござる」
政宗は顎に手をあてて、不思議なものでも見るように幸村を眺め、
「そう変わらねえかもしれねえぞ?」
言われて、幸村は目を瞠った。政宗が薄く笑う。
「アンタがオレを理解した気になるのは勝手だが、心根が違うと言い切られんのも気にくわねえ」
「しかし」
「自分で言うのも何だがな、あれは、腹が立つくらいには上手くオレを真似てたぜ」
幸村は瞬きもせずに政宗を見る。
「オレが何を考えてるのかも察してた」
否定の言葉を探して、見つけられずに、伏せた目を彷徨わせる。確かにあれらはつい今しがた、幸村には理解できない曖昧な言葉で政宗を激昂させたのだ。
幸村の頬に、政宗の手が触れた。
「……オレがアンタに興味を持ってることも」
え、と口の中で呟いて、幸村は顔を上げる。
「こんな最悪の状況もねえ」
眼前が陰って、幸村の唇に柔らかいものが当てられた。
驚いて目を見開いた視界いっぱいに、政宗の顔がある。柔らかな感触は軽く幸村の口に触れて、離れる。
呆然とする幸村に政宗は背を向けて、ひら、と片手を振った。
去っていく。そのことで正気づいた幸村は、慌てて政宗の背中に追い縋った。
「政宗殿!」
「痛……っ」
勢い余って、政宗の後頭部に頭を打ち付けてしまい、目の裏に火花が散る。
「Shit...!! テメエ、いきなり頭突くんじゃ」
「す、すまぬ!」
慌てて詫びて、政宗に取りすがりながら、幸村の頭の中は真っ白だ。
「その、もう一度」
幸村は政宗の前へと回り、その二の腕を両手で掴んだ。
「……もう一度、してみては頂けぬだろうか」
口に出すには勇気が要った。
接吻をねだるなど破廉恥極まりない、とわめきだしそうな自分を抑えて答えを待てば、息を飲んだ政宗は、何も言わずにゆっくりと顔を近づけた。そうして唇を重ねる。今度はただ重ねるだけでなく、軽く唇を吸った。
顔を離し、政宗は不思議そうに、間近から幸村の目を覗き込んだ。
瞬きもせずにそれを見つめ返して、幸村は、突然に腑に落ちたような思いがした。
それが何かはわからない。
言葉にならない、強い感情が胸の奥底から浮上する。喉元に迫り上がる。
手が汗ばむ。
「政宗殿、……それがしは」
何か。何かがあと少しで形になる。そう思った時。
ひゅ、と空を切る音に、二人は同時に体を離した。
政宗は咄嗟に腰に差した刀の柄へと手を置き、丸腰の幸村は徒手で、それぞれ足を踏みしめて身構える。
土を裂く音を立てて、突き立ったのは一振りの抜き身の刀だった。柄から刀身にかけて何か細い布が巻かれていて、それは幸村の鉢巻きのように見える。
水中で幸村がかなぐり捨てた鉢巻の布。
「Hey guys. 落とし物だ」
かけられた声は政宗のものだ。見れば、いつの間にか薄らと輪郭がわかる距離に、立っているだけでは見分けがつかない二人の政宗が並んで佇んでいた。
「What...?」
「落としてたろ。あそこの、上から落ちるときに」
「次は拾ってやらねえぞ。失くさねえように気ぃつけな」
後ろ手をひらと振って、二人の政宗は湖の淵へと歩み寄り、水の上へと片足を踏み出そうとする。
「な……!」
何を、と、慌てて止めようとした幸村の声は途中で消えた。
二人の政宗の爪先が水に触れた途端、湖の水が、水全体が、人の背丈の倍もの高さに吹き上がった。空気を含んで落下する白い飛沫が二人の姿を飲み込む。
政宗はそれを、荒れた海のようだと思った。
海を見たことのない幸村は、形容し難い光景に口を開いて見入る。
荒れた水面に何かしらの生き物の、鱗のようなものを見たような気もしたが、水面が静まったあとにはもう何も、政宗達の姿もかき消えて、風にゆるやかに波打つ湖面があるばかり。政宗と幸村は狐に摘まれたような心地でただ立ち尽くすのみだった。
「飽きたから帰る――だ、そうですよ、っと」
闇に溶ける黒い翼の鳥に掴まって、二人を見つけた佐助は音もなく着地する。湖へと目を向けて、こきりと首をひとつ慣らした。
幸村は目の前で起きた出来事を信じがたい様子で、まだ茫然と立ち尽くしている。
政宗は土に突き立った刀を抜いて、腕の一振りで刃についた土を落とした。月明かりに翳して矯めつ眇めつしたそれは、間違いなく政宗のものだ。巻かれている布も、幸村のものに間違いない。
刀身を失った鞘は他の三本と一緒に野営地に置いてきてしまった。抜き身のそれを片手に下げ、政宗は幸村を手招きすると、佐助を振り向いた。
「おい、忍」
「……なーんか嫌な予感するんだけど、何よ独眼竜の旦那?」
「明日の朝まで、探索は始まらねえんだったな?」
目を細め片頬を歪めて笑う政宗に、負けず劣らず目を細くして、けれどこちらは物騒な視線で、佐助は幸村と政宗とを交互に眺める。
「何それ。俺様がいない間に何があったわけ?」
「ちっと親睦を深めただけだ」
政宗は言うが、その傍らで幸村が顔に血をのぼらせたのを、闇に慣らした忍の目で佐助ははっきりと見て取った。
「げ。……ああ、そう」
何となく事情を察し、佐助は深い溜息をついてくるりと二人に背を向けた。一度、月の浮かぶ暗い空を仰ぎ、ゆっくりと歩いて、湖の淵に立つ。
「真田の旦那、ちょっとこっち来てくれる?」
「ん、何だ?」
「Wait. おい忍、テメエまさか」
警戒心もなく、呼ばれるまま佐助の隣に並んだ幸村の背に、佐助はポンと手を置く。そうしてそのまま
「はい、行ってらっしゃーい」
背中に置いた手を、思いっきり前へと付きだした。つまり。
幸村を、渾身の力で湖へと突き落としたのである。
「佐助えええええ!?」
どぼん、と水飛沫を上げて幸村が水中へと姿を消し、次の瞬間、巨大な水柱がその場に立った──。
「いや、だって、ねえ……さすがの俺様もこうなるとは予想してなかったっつーか?」
他国間不純同性交遊は禁止。
政宗が幸村に、敵としてだけでない興味を持っていた事など佐助はとうに気付いていた。しかし、面倒事に付き合わされるのは自分だとわかっているので、出来上がるのは断固として阻止したい。
その佐助の予定としては、『攻っぽい幸村』と『受っぽい幸村』を増やし、政宗に進呈して、その隙に『普通の幸村』を有無を言わさず本陣へと連れ帰るつもりだったのである。
「Shut up!! 今のオレは一味違うぜ……覚悟はいいかァ?」
「独眼竜の旦那、待った! 良くないから! 全然良くないって!」
半信半疑ながら幸村を湖に落としてみれば、確かに水の中から大男が現れた。
ところが今回に限って、自称湖のフェアリーが示した選択肢は、『大きい幸村』と『小さい幸村』と『普通の幸村』で、もれなく全員ついてくるとわかっていながら、普通の幸村以外を選ぶ事もできなかった佐助の胃には、わずかな時間で穴が空きかけしくしくと痛みを訴えている。
大きい幸村(推定二十七歳)と小さい幸村(推定七歳)は、「今参りますぞお館様ァァァ!」と叫びながら武田の本陣目指して一目散に駆けて行き、小さい幸村は途中で転んで泣き出して、普通の幸村は泣きわめく小さい幸村を肩に担ぎ、お館様の危機とばかりに、大きい幸村を追って本陣へと駆けて行ってしまった。
騒動の舞台は、武田本陣へと移動した。
展開は予定から外れたものの、幸村を本陣へ連れ帰るという目的は達成された。
そして残された佐助が、『これから幸村とじっくり想いを確かめ合って楽しい一夜』の予定を台無しにされた政宗を相手に、命の危機に晒されているのは
「あのさ竜の旦那、あとで小さい旦那と大きい旦那あげるからこの場は」
「うるせえ黙って斬られろ!」
「斬られたら痛いからちょ、やめっ……嘘だろ――――――!?」
自業自得というものである。
初:2006.08.19/改:2008.06.25