ひだまり / 室内
その日は朝から暑かった。
まだ過酷と言うには遠い、夏の初めの蒸し暑さ。せめて風があれば過ごしやすいのだがそれもなく、だから政宗は障子をすべて閉めきって、できるだけ日差しを遮って、滞在している幸村の屋敷の幸村の部屋で畳にだらりと伸びていた。
新しくはないが良く手入れされた畳だ。ぺたりとうつ伏せて涼を取る。体の下の畳が温まれば、ごろりと転がって冷えた場所へと落ち着き直す。外ではわあわあと幾重にもなって蝉の声が響いている。
当主の部屋に無闇に人は近づかず、今は政宗がいるから尚の事。立ち働く音や人の気配は遠く、一番近くに聞こえるのは障子の向こう、庭で素振りをする音だった。
空を切り裂く槍の音。
幸村の。
聞きながら政宗は目を閉じる。
一緒にいかがだろうかと、庭に出る幸村に誘われたのは四半刻ほど前だった。クソ暑ィ、冗談じゃねえと断れば、幸村はあからさまにしょげながら庭に出て、誰に相手を頼むでもなくそのまま一人で素振りを始めた。
障子を開けて見物しようか。そう考えもしたがすぐにやめた。見ればきっと目の毒だ。相手を出来ないのは暑さのせいだけでなく、昨夜の名残で少しばかり体が怠いということもある。
わかっていても、目にすれば疼く。
我慢が効かない。抑えようもない。そうして刀を掴んで飛び出して、尻の痛みに無様を晒すなど御免だった。
槍を振るたび、幸村が短く気合の声を吐く。
聞こえる音から、政宗はその動きを瞼の裏に思い描く。
細い体。細い腕。そのくせ扱うニ槍の、その体に不釣合いなまでの力強さ。幸村が動くたびに、頭に結んだ赤い長い布が翻る。しゃらしゃらと首元の銭が鳴る。
土を擦って蹴る足音。
跳躍の身軽さはまるで獣のようだ。火の粉をあげて舞う炎のようだ。その想像だけで胸が焦げる心地がして、政宗は口の端を緩く吊り上げる。
――幸村。
言葉にせずに名を呼ぶと同時、素振りの音がふいに途絶えた。
「政宗」
一拍の後、政宗は勢い良く畳から頭を上げた。
「…………は?」
左の目を限界まで見開いて、待て落ち着け、と胸中で呟く。
まるで政宗の呼びかけに応えたかの間だったが、政宗は音には出していなかった。そのはずだった。だからただの偶然なのだと、気を落ち着かせたところで次の動揺に襲われた。
政宗。
聞き間違いでなければそう呼ばれた。
いや、聞き間違いでなく確かに聞いた。
見開いた目で室内と庭とを遮る障子を凝視すれば、間もなく幸村が部屋の前へと戻って来た。政宗は身を強張らせる。
けれど障子に映る影は身構える政宗へと背を向けて、縁側にすとんと腰を下ろした。手ぬぐいを拾い上げて汗を拭く。そうする間、ただの一度も、政宗のいる室内を気にする素振りは見せなかった。
ということは、さっきのは政宗に呼びかけたわけではなく、ただの幸村の
(独り言……?)
思って、政宗はぞくりと背を震わせた。
政宗、と、あの堅い幸村にそんな気安さで名を呼ばれたことなど一度もない。褥の中でどれほど乱れても幸村は変わらず政宗殿と呼ぶ。だというのに。
顔が熱を持って、政宗は思わず口元をおさえて動揺を隠す。名を呼んだ幸村の声を反芻した。
柔らかな響きだった。
何か隠し切れない喜びが音になったような声だった。
あんな風に呼んでいたというのだろうか。今までも。政宗に知れない場所で、ひとり。面と向かっては決して口にしないあの呼び方で。
やべえ、と口中で政宗は呻いた。
いたたまれずに落ち着かず、今すぐ幸村を部屋に引きずり込んで押し倒したいような、だが赤面している顔など絶対に見せるわけにはいかないような、そんな衝動とひとり激しく戦い始めた政宗の耳に、ふいに幸村の笑う声が届いた。
くすぐったく笑う声。
続けて、痛い、と小さく悲鳴があがった。それも柔らかな苦笑を含んでいる。
「ま、政宗、爪が……」
優しく咎める響き。フニャ、と甘えた鳴き声がする。幸村がまた笑う。
「…………」
顔にのぼった熱は浮かれた心地と連れ立って驚くほど一気に冷め、状況を飲み込むと同時、政宗は半眼になってゆらりとその場に立ち上がった。
幸村の膝の領有権を主張して政宗と猫とが睨み合いに至る、これが室内の経緯である。
*
その夜の幸村はやけに乗り気で、寝支度を調えるなり夜も早いうちから政宗を閨へと誘った。
「……っ、う」
また、夜に。
猫との睨み合いに軽く勝利した政宗がからかい混じりに褥に誘えば、慌てふためいた幸村はそう言って言葉を濁した。それを律儀に守ったわけでもないだろうがと、政宗は弱く揺さぶられながら考える。
交わりは政宗とて望むところだ。だが、性急に繋がりたがった幸村の様子が気になった。そのくせ切羽詰まった風でもなく、表情はむしろ、いつになく余裕があって穏やかだ。
「く、……ッ」
開いた脚の間に穿たれた幸村の昂りは、じりじりと奥深くへと入り込む。十分に解されていないせいで抵抗が強い。
「っ……政宗、殿」
「……あ、」
ゆるゆると腰を進めていた幸村が、政宗の中にすべてを収め終えて動きを止めた。息を整えながら、汗で顔に張り付いた政宗の前髪を指先で散らす。
その、顔。
燭台に照らされた幸村の表情を睨み上げて、政宗は指の背で幸村の頬を軽く叩いた。
「アンタ、さっきから何にやけてやがるんだ」
やけに乗り気な幸村は、加えてやけに上機嫌だった。口づけながら、夜着を落として触れながら、いや、思い返せばもっと前、昼頃から政宗を眺めては何やら嬉しそうに頬を緩めていた。
指摘されて幸村は、更に深く笑み崩れる。
「政宗殿からあれほど嬉しい言葉をいただいたのだ。不可抗力というものでござる」
「あァ? オレが?」
猫を膝に抱き撫でた幸村を、そこは自分の場所で自分に与えられるべき行為だと咎めた。妬いた。
それだけの事で幸村が上機嫌になっているなどとは思わず、政宗はわけがわからずに首を捻る。
昼の一件は政宗の中では、幸村の気に入りの猫を自分が追い払ったという認識である。勝手に名を使われた事に腹を立てもしたが、そこは経緯を聞いて治まった。あの猫を相手に政宗の話ばかりしていたのだと、そんな話を聞けば怒るに怒れず、無下に追い払った事を少しばかり後悔もした。だが幸村の膝も手も自分のものだと、そこはやはり譲れないのだが。
そういえばアイツは幸村に爪を立てた。
思い出して、政宗はまた苛々とする。後で背中に爪を立ててやろうかと苛立ち紛れに考える。
それはそうとして“嬉しい言葉”だ。それほどに幸村を喜ばせる言動をしただろうかと、今日の記憶を浚ってみるが思い当たる節がない。
「何、言った。いつの話だ」
「いや、何でもござらぬ」
「……おい」
「だめでござる。わからぬのなら、幸村ひとりの秘密にさせてくだされ」
言って、幸村は軽く政宗の口を吸った。不快げに顔を歪ませて、政宗は離れようとした幸村の唇に噛み付いた。
「……む」
「Kissでごまかすつもりか? Ha, 生意気じゃねえか」
背に腕を回し、合わせた唇の隙間から舌を捩じ込んだ。幸村が鼻にかかった声を漏らす。感じるように中をねっとりと舐め回して、舌と舌とを絡ませる。
けれど顔を離せば幸村ははにかむように笑んだままだった。その余裕が気に食わずに政宗は眉間に皺を寄せて、
(――いや)
だが、これは、これで。すぐにそう思い直したのは、昼の事があったせいだ。
閉めきった室内で、自分の名を呼ぶ幸村の声を聞いた時に得た感覚。正しくはあれは猫を呼んだものだったのだが。
背筋が震えた。
正直、腰に来た。
思い出して、政宗は唾液に濡れた自分の唇をいちど軽く噛む。
「OK. いいぜ。ごまかされてやる。ただ、かわりにオレにもアンタから寄こせ」
「な、何をでござるか?」
「オレの名前だ。呼んでみろ」
横柄に命じる声が情欲に掠れた。だが幸村はきょとんと目を丸くして、首を傾げる。
「政宗殿?」
「No, そうじゃねえ。『政宗』だ。殿はいらねえ」
「は?」
「だから、あー……昼の、猫を呼んだみてえに」
言えば、その意味を考える少しの間の後に、火がついたように幸村が顔を赤くした。
「……何で赤くなってんだ」
「そっ……、ま、政宗殿がおかしな事を申されるからだ!」
「あァ? おかしなって、名前呼べっつっただけだろうが」
「そのようなことは出来ぬ!」
「あ、待…ッ!」
咄嗟に幸村が腰を引いて、不意打ちの、ずるりと抜かれる感覚に政宗は思わず声を上げた。慌てて口を押さえて幸村を睨む。
「あ……」
すまぬ、と謝って幸村は動きを止め、思案の後に、抜けた分を再び政宗の中へと埋め直した。
は、と息を吐いて政宗は幸村を睨み直す。
「出来ねえ? 何でだ」
眉尻を下げた幸村は、先程までの笑み崩れた顔が嘘のような情けなさだ。
「……何故でも」
「あの野郎にはさんざんそう呼んでたじゃねえか」
「それは、政宗は政宗であって、政宗殿は政宗ではござらぬ!」
「だから呼べてるじゃねえか。その調子で、オレに向けて言ってみろってそれだけの話だろ」
「いや、しかし……!」
躊躇う幸村に痺れを切らし、政宗は、幸村の前髪に両手の指を差し入れた。僅かに首を傾げて幸村を見上げる。
「なあ、真田。アンタとオレが出会った時、上だの下だのくだらねえもんがあったか。それとも、アンタはあの時、立場を弁えながらオレと対峙したとでも言うつもりか」
言いくるめる方向性を探りながら、そういえば戦場じゃ呼び捨てじゃねえかと政宗は思い出す。ただしそれは、必ず姓が付いていたが。
「……否。しかし、それは戦場での話で今は」
「今は? 戦場のオレと今のオレは何が違うってんだ。それとも、こんな風に目上の人間の股おっ広げて、analにcockブチ込んで腰振るのはアンタの平時の礼儀に適ってるってわけか」
反論できずに幸村が口篭った。
政宗は声を甘くひそめる。
「『政宗』だ。言えよ。簡単だろ? アンタにそう呼ばれてみてえ。……ダメか?」
「う……」
もはや顔どころか首から全身までを赤く染めた幸村は、弱り切った様子で縋るように政宗を見、視線を逸らし、耐え切れないとでも言うように身を伏せて政宗の肩に額を押し付けて、両腕で政宗の背を強く抱きしめた。
密着した態勢で、政宗は幸村の熱い吐息を肌に感じる。荒い呼気の下からやがて、
「――――政、宗」
ようやく絞り出したその名前は、上手く言葉にできなかった様子で途中でおかしなつかえ方をした。政宗の肩に顔を埋めて羞恥に耐える幸村を眺め、政宗は視線を天井へと跳ね上げた。
上機嫌で余裕を見せる幸村に、ならば更に余裕の素振りで翻弄されるのもたまには悪くない。そんな狙いだったのだが、着地点は大幅にずれた。
背筋が震えるどころではない。
いや、ある意味震えないでもないのだが。主に、腹が。
く、と政宗は喉でひとつ笑う。
「ったく、アンタはほんとに、ん、あッ」
可愛くて仕方ねえ。言いかけた言葉は、突如動き始めた幸村の突き上げで呻き声に変わって消えた。
「あ、あ、ア、ッ、く……ふ。は、は……っ、は、ははッ」
深く突かれて、抉られて感じて、敏感な胸を舌でいじられて感じて、意味のない言葉の欠片を漏らしながらその合間に政宗はこみ上げる笑いに喉を鳴らす。
笑わないでくだされと半泣きで訴える幸村に、それでもしばらく政宗は笑いの発作から開放されず、真っ赤になったままの幸村に照れ隠しの乱暴さで責め立てられた。
初:2012.07.15/改:2013.04.03