ひだまり
かさりと樹木の葉が鳴った。庭先で一心に槍を振るっていた幸村はその音に素振りの手を止める。
振り向けば、植木の脇に佇む姿。
目にするや幸村は驚きに目を瞠り、すぐに頬の線を緩ませた。
「政宗」
久方ぶりの来訪だった。彼が幸村の元を訪れることは滅多にない。季節ひとつ、姿を見ずに過ぎることもある。
現れるときは決まって唐突だ。
そうして数日の間をまるで主のような態度で屋敷に居座ると、ある日ふいと去っていく。
幾度素振りをしたかは数えていないしまださほどの疲れも覚えていない。好きなだけ続けろとでも言うかのように政宗は僅かに首を傾げ、植木の影から動かずに、そこで幸村の素振りを見物するつもりでいるらしい。
だが、夏の終わりの晴天の下のこと。幸村の肌近くの髪は汗で濡れて束になっているし、喉には渇きを覚えている。
何よりせっかくの客人だ。
茶でも用意させて少し休もうと、槍を近くの木に立てかけて、幸村は縁側に腰を下ろす。用意しておいた手拭いで汗を拭きながら、いたずらな表情で膝をぽんと叩いて示した。
鼻をひとつ鳴らした政宗は、鷹揚な足取りで縁側へと近づいてくる。
あと数歩、というところで立ち止まると、そこから一息に距離を詰めて全身で幸村へと飛びついた。
「痛っ……! ま、政宗、爪が」
爪を立てて肩にしがみつかれ、それを咎めながらも幸村の声は笑いを含んで浮かれた響きだ。
わきに手を差し入れて抱き起こし、膝の上に座らせれば、政宗は甘えるようにぐいぐいと幸村の腹に頭を擦りつけてきた。柔らかな耳と頬とを撫でた手を、ざらりとした舌に舐められる。
「政宗の舌は気持ちが良いな――」
呟いたところに。
すぱんと音を立てて、幸村の背後の障子が勢い良く開かれた。幸村の膝で喉を鳴らしていた政宗がびくりと全身を緊張させる。
「おい。さっきから聞いてりゃあ、そりゃ何の嫌がらせだ……?」
脇差しがあれば抜いているに違いないという不機嫌さを纏わせて、慣れない暑さに室内でだれていたはずの奥州筆頭・伊達政宗が姿を現した。
身を低くして警戒する政宗の、黒く艶やかな体毛を落ち着かせるように撫でてやりながら、幸村は仁王立ちする政宗へと怖じもせずに笑みかける。
「おお、政宗殿! 紹介致す。『政宗』でござる!」
膝の上の黒猫を己と同じ名で呼ぶ幸村に、政宗はひくりと片頬を引き攣らせた。
「テメエ……人の名前を軽々しく猫につけてんじゃねえぞ。そもそもオレの名前は中興の祖である九代当主の」
「ほら政宗、お前の名を頂いた政宗殿だぞ」
抱き上げて政宗と政宗を引き合わせようとするが、猫は幸村に逆らって、爪を立てて衣服にしがみつき離れまいとする。困ったなと漏らして、幸村は背後の政宗を振り仰いだ。
「政宗殿。そう怒気を放たれては、政宗が怯えておりまするぞ」
「So what!?」
「物怖じせぬ猫なのだ。斯様に怯える様は初めてでござる」
「だから何だって言ってんだろうが! 怯えさせたくねえ? だったら今すぐ改名しやがれ!」
「それは無理でござる。もう政宗で定着しているし、それに」
黒猫の毛並みを撫でながら、何を思い出してか幸村が小さく笑う。
「これがまた、政宗殿とよく似ておるのだ」
「……竜をつかまえて猫と似てるたァいい度胸だ」
既に殺気に似たものすら纏わせた政宗は、足音も荒く日の当たる場所まで出てくると幸村の脇へとしゃがみ込む。
「どけ」
首根っこを捕まえて猫を幸村の膝から落とそうとする。だが、政宗の手が猫を掴むよりも速く、剥き出しにされた鋭い爪が一閃して政宗を狙い、政宗はすんでのところで手を引きどうにかそれを避けた。
「Ha, やるじゃねえか……」
「政宗殿……?」
顔を上げた黒猫の黄金色の目と、眇められた政宗の目とがかち合う。
くいと顎を上げて、政宗はひらいた膝に肘を置くと手を前に足らし、斜に構えて黒猫を見据えた。
猫は全身の毛を逆立てて幸村の膝に身を伏せ、上目遣いに政宗を睨み上げる。
奥州王対、そこらの猫。
メンチ合戦を始めた一人と一匹を眺めながら、可愛らしいと思うがそれは口に出さずに、幸村は無言で勝負の成り行きを見守る。名付けるならば上田城・縁側の合戦といったところか。
双方動かずしばらくの睨み合いの後、身を低くしたままの猫の後ろ足が、幸村の膝から一歩退いた。
政宗を睨んだままじりじりと、一歩ずつ猫は下がり、距離を取るとぱっと素早い動きで身を翻す。幸村が、あ、と呟いたときには、鉄砲の弾の如く一直線に駆けて、庭の植え込みの影へと消えてしまった。
その様子を勝ち誇った様子で鼻で笑った政宗は、これで良しとばかりに腰を下ろすと幸村の膝を手ではたき、横向きに寝転がって、先ほどまで猫が占拠していた場所へと頭を預ける。
「政宗殿、そう苛めずともよいではござらぬか。猫でござるぞ?」
「Shut up. 苛められたくなかったら、次にオレが来るときまでにあいつの名前変えておけ」
「それはできぬが、政宗も滅多に姿を見せぬゆえ、政宗殿と鉢合わせることもそうそうないかと」
「だからその名前で呼ぶなっつってんだ。胸くそ悪ぃ」
ぐい、と膝枕の頭を腹に押しつけられて、幸村は軽く笑いを漏らした。
撫でろという合図だ。だからそういうところが似ているのだと、言えば政宗はまた怒るのだろうが。
ひなたぼこりと言うには少々苛烈な日射しだが、甘えられれば悪い気のするはずもない。
「本当に、勝手に定着してしまったのだ。初めは名もつけず、来れば餌をやって、それがしが一方的に話し相手にしていたのだが」
幸村ほどではないがやはりあちこちに跳ねる、癖のある髪に指を差し入れて、頭頂から首の後ろへと髪を梳いて撫でる。
「そうしているうちに、政宗殿、というのを自分の名だと勘違いしてしまったらしいのだ。膝に抱いて佐助と話をしている時、政宗殿の名を出したらあやつが返事をして」
試しにもう一度猫に「政宗?」と呼びかければ、またにゃあと鳴いて幸村を見上げた。あれには幸村も驚いた。どれだけ政宗の話を聞かせていたのかと、佐助は腹を抱えて笑っていた。
「誰憚ることなく名を呼べるのが嬉しくて、そのままにしてしまったのだ。申し訳ござらぬ」
政宗は、目を閉じて黙ったまま幸村に撫でられている。幾度か撫でたあとに身を屈めて政宗の髪に鼻を埋めれば、肩を滑って前に落ちた幸村の後ろ髪を、政宗が手に取って口元に寄せた。
「……汗くせえ」
「こうも日射しが強うござれば」
「ったく……この暑ぃのによくやるぜ」
「暑いからでござる。体を動かしていた方が気が紛れるのだ」
尋常でない体温の高さから暑さは得意だと思われがちな幸村だが、実のところそれほど強いというわけでもない。逆に、常に自分の体に熱がこもっているせいで涼を取ろうとしても逃げ場もなく、じっとしていれば暑さと熱さが気にかかるばかりで、動いて汗をかいてしまったほうがまだ楽になれるのだった。
ふうんと気もなく相づちをうって、政宗が上向きに体を回転させた。動きの邪魔にならないようわずかに背を起こした幸村の後ろ髪を引っ張って、顔を寄せると口の端をぺろりと舌先で舐める。
「なら、体、動かすか?」
息のかかる距離で艶を含んだ声に言われれば、幸村とて単純に鍛錬に付き合うという意味には受け取らない。昨夜、薄闇のなかで心と体とを支配した熱と掌に触れる汗ばんだ肌の感触、耳朶を擽った吐息や声やそんなものが一瞬にして蘇って、幸村の顔に血をのぼらせた。
空気からは朝の気配がようやく消えたばかり。どこかで人の立ち働く音や廊下を渡る足音が聞こえたりして、寝間に篭もるにはとてつもなく不似合いな時刻だ。場合によってはそういった時間から事に及ぶこともないでもないのだが、政宗は数日前から上田に滞在していてあと数日は居る予定で、そう切羽詰まった状況でもなければ、やはり陽も高いうちから房事に勤しむというのは気恥ずかしい。
「そ、それ……は、また、夜に……」
語尾を濁せば喉を鳴らして笑った政宗が、幸村の下唇を軽く噛んだ。
「撫でるなら猫じゃなくてオレにしろ。抱くのもな」
言って、起きあがった政宗は暑いとこぼしながら部屋へと戻る。
「承知……」
その背に呟いて幸村は、顔を赤くしながら口元を手で覆った。猫にすら妬くのだとさらりと告げてみせた政宗が、愛しいやら心臓に悪いやら。昼前からこれでは身が持たない。
背を丸めて鮮やかな緑に彩られた庭を見遣り、目が眩む心地がするのは日射しのせいばかりというわけではなく。
幸福感に満たされた胸から息を吐き出せば、どこかで、にゃあと猫が鳴いた。
初:2006.09.09/改:2009.05.30