或る穏やかな朝の寒い話
あ、と間の抜けた声をあげて、障子に濾過された朝日のなか、幸村の顔が一瞬にして紅潮した。
どうした、と問い返した政宗は、着替えの手を止めると訝しげに幸村を見遣る。
「……アンタ、何赤くなってんだ」
「いや、その……それが……」
しどろもどろに答える幸村の視線はひたと政宗の首のあたりに据えられていて、何事かと顔を曲げるが己の首など見えるわけもない。代わりに手で首筋を探り、政宗は幸村の動揺の原因に思い至った。
「kiss markでもついてるか?」
「は?」
「痕でもついてんのかって訊いてんだ。昨夜の」
思い返せば、そのあたりにしつこく口づけられて、むず痒いと抗議した覚えがある。
幸村の顔面はどす黒いほどに赤さを増した。赤い着物に赤い顔、いっそ髪も赤く染めれば見ものだろうと余所事を考える政宗の前で、幸村は音を立てて土下座する。
「申し訳ござらぬ!」
「土下座するほどの事かよ。今更何謝ってやがる」
夜は呆れるほどの貪欲さで政宗を求めてくる癖に、陽がのぼると羞恥心を取り戻すらしい。
どこだと問えば幸村が指し示したのは、鎖骨に近い、喉の柔らかな部分だった。着物の襟では隠れない場所だ。
「なるほどな……。ま、別に指摘する奴も居やしねえ」
「しかしそのようなものを見咎められては独眼竜殿が……」
二人の関係は近しい家臣には大概知れ渡っているのだが、口籠もる幸村は、目につく場所に情事の痕跡があることが恥ずかしくて仕方がないらしい。また、政宗に恥をかかせるとも考えているのだろう。
「その、包帯か何かで隠すのは如何でござろう」
「馬鹿か。余計目立って要らねえ心配させるだろうが」
「む……」
目を細めて首に当てた手に意識を遣り、少しの思案のあと、政宗は唇の片側を吊り上げた。底意地の悪い表情は、両手を付いて視線を落としたままの幸村の目には見えていない。その幸村の前へとかがみ込み、政宗は片膝を付くと幸村を呼んだ。
「幸村」
「誠に申し訳ござらぬ!」
「Be quiet. いいから。顔あげな」
宥めるような声音に促されて顔を上げた幸村の弱り切った表情へと、政宗はあまり見せない類の柔らかさで微笑む。それを目にした幸村が息を詰めた一瞬。
「――独眼竜殿!?」
政宗は幸村の両の襟首を掴み、首筋に顔を埋めて柔らかな皮膚へと吸い付いた。
「独眼竜殿、何を!」
慌てて幸村が引き剥がそうとするが襟を捉えた力は強く、密着した体勢や近くにある政宗の髪の匂いやらに思わず狼狽して、引きかけた顔の熱が再び顔面を染め上げる。そんな幸村の様子など知らぬ素振りで、政宗は唇を離すと満足そうに頷いた。
「Okay, これでevenだ」
幸村は茫然とした後、はっと我に返ると政宗が吸い付いたあたりを手で押さえた。
確認することはできないが、明らかに痕を付けられている。
「これでは余計悪いではござらぬか!」
「So what? ちなみに俺はこれ着ちまえば解決すんだけどな」
言って、行李へと歩み寄った政宗が取り出したのは、戦装束の下に着ている白い洋服である。首までを覆うそれを身に着ければ、確かに首筋の痕など綺麗に隠れる。
対する幸村はといえば、小袖を着ても隠しきれず、常通りの前をはだけた服であれば尚のこと。それこそ布でも巻かなければ隠しようがない。
「自分だけ卑怯でござるぞ、独眼竜殿!!」
「アンタが気にするから隠すことにしたんだろうが」
「服で隠すのなら先にそう言ってくだされば良いものを!」
「Ha, 隠すつもりはなかったんだがなァ」
アンタの反応が面白そうで、と笑う政宗に、幸村は目を吊り上げて拳を握ると大股で距離を詰め、飛びつく勢いで政宗の肩に掴みかかった。
「御免!」
「おい、何しやがる」
「斯くなる上はその服でも見えるところに付けさせて頂く!」
「ったってもう顔しか……ってコラ、顔に吸い付くんじゃねえ! くすぐってえだろうがこの馬鹿!」
顎のあたりに口づける幸村を押し戻そうとしながらも、言葉と裏腹に政宗の語調は笑いを含んでいる。性的な意図を持たない口吻は、僅かばかりのむず痒さと、体温のあたたかさと子供じみた復讐への可笑しさをもたらすばかりだ。
そんなじゃれあいの最中。
「政宗様? いい加減朝餉が冷めてしまいますぞ」
前触れもなく、すっと木の擦れる音を立てて障子が開かれた。
いつまで経っても現れない二人を呼びに来た近侍の片倉は部屋の中を、畳の上で縺れた状態の二人は開かれた障子を見て、三者共に硬直し、その場の空気が凍った。
「……失礼致しました」
静かに障子が閉じられるが、最後にがたりと音を立てたのは動揺の顕れだろうか。
「あ、お、お待ち下され! これには理由が!!」
呼び止めようとする幸村は、見られたことで軽く混乱しているものらしい。理由が、と言ったところで、説明すれば昨夜の情事に話は及ぶ。同じ事である。
息をついて体を起こし、政宗は首の後ろを爪で掻いた。
「そういや見られたの初めてかもしれねェな……」
「何を呑気な!」
「っても、慌てるほどのことじゃねえだろ?」
「独眼竜殿はそうかもしれぬが!」
「Yes, sure. アンタにとってどうかは俺の知ったこっちゃねえなァ」
からかいの口調で言って、政宗は、幸村の肩にぽんと手を置くと人の悪い笑みを浮かべた。
「ま、頑張りな」
そうして幸村はその日一日、時折どこからともなく感じる含みのある視線に、背筋の凍る思いをしたと言う。
2006.02.15