寒椿

 近頃槍筋が凄味を増したとは、練兵の場、兵士達のあいだで専ら囁かれる言葉だった。
 真冬とはいえ、甲斐に雪の積もることは稀だ。師走も終わりに近づいているが今年はまだ雪を見ない。冷え込みはそれなりに厳しく、明け方には霜が降りもするが、午には溶けて地面に僅かなぬかるみを残すのみとなる。そのぬかるみを具足が蹴り、それと気付かず踏みしめられた赤い花弁が潰され醜く茶に変じた。
 土の上に幾枚か散った赤い花びらは、練兵場の片隅に植えられた寒椿のものだ。色彩に乏しい冬の中で鮮やかに咲き人の目を楽しませるその花は、花弁を一枚、また一枚と地に散らし、陽に風に雨に晒されいずれ土へと還る。
 真田幸村は、あまり身分の違いを弁えない。
 己の立場への自覚が薄いと言う方が正しいか。
 目上の者に対する礼儀を知らぬというわけではなく、下の者に対して親しすぎる。忍に気安いのは真田の家風と言っても良いが、幸村の場合おもだった家来や忍にとどまらず、士気を高める酒宴などを開けば平気で足軽の輪の中へと入って行く。功を立て、信玄の信頼厚い臣、武田の紅蓮の鬼、虎の若子などと評されるようになってからもそれは変わらず、歩卒の練兵場などに足を運んでは自ら進んで稽古を付ける。初めは恐縮して硬くなっていた兵達もその状況に徐々に慣れ、今では幸村の稽古を頼みにするようになっていた。
 素振りや打ち合いを指示して回り、時には一人ずつの相手をする。年は若くとも幸村は、既に槍の腕では武田随一の使い手だ。兵の相手には二槍ではなく一般的な槍ひとつで行うが、一槍が不得手というわけではない。二槍には劣るものの、並の者では足下にも及ばない。
 鮮やかな残像を残して、鍛錬用の、刃を潰した朱塗りの槍が空を裂き、対する穂先を叩き落とすと急所の真上、そこに目に見えない壁でもあるかのようにぴたりと止まる。見守る兵のあいだから感嘆の息が漏れ、突きつけられた二槍に唾を飲み込んだ兵はひと呼吸の後に我に返ると、姿勢を正し礼を伸べてその場を下がる。
「次!」
 冷えた空気を震わせる声に弾かれたように、次のひとりが場に進み出て一礼した。
 
「凄味、ねえ……」
 休憩に入った幸村の傍らに腰をかけ、笑い含みに呟いたのは真田自慢の忍隊の長である。今は常の忍装束ではなく、ありふれた軽装を身に纏っている。佐助もまた槍を握って休む間もなく兵の稽古をつけさせられていたのだが、頃合いを見計らって先に抜けた。練兵場の片隅に建てられている簡素な小屋で湯を沸かし、休憩に合わせて主へ茶を出すためである。忍なのか世話係なのかとからかわれる所以であるが、本人に言わせると、幸村の好みの濃さを知る者が少ないのだから仕方がないということになる。
「言いたいことがあるのならば言え。中途半端は気分が悪い」
 汗を拭いながら板間に腰を下ろした幸村は、不機嫌も露わに佐助を見る。
「凄味っていうより、自棄?」
 吹き冷ましながら茶をすべて飲み下すと、菓子置きに盛られていた饅頭をひとつ半分に割って、幸村は片方を佐助の手に押しつける。残りの半分に齧り付いた。
「何焦ってんだか知らないけどさ、らしくないでしょ。旦那」
 差し出された半分の饅頭を受け取って、矯めつ眇めつした後に佐助はそれを口元に運ぶ。甘い、と呟き、饅頭なのだから苦いわけがないとの主の呆れ声に肩を竦めた。
「……別に、俺は焦ってなどいないぞ」
「『べっ、別に、俺は焦ってなどいないぞ』」
「佐助!」
「へへっ、似てた?」
 唇を尖らせる主を弧を描いた目で眺め、佐助は椀に二煎目を注ぐ。
「焦ったところで、うちには竜はいないんだからさ」
 そうしながらさらりと口にすれば、主の目が細められて剣呑な色を宿すと、横目で鋭く佐助を睨んだ。
「知っているのではないか」
「いや、当たりつけただけ」
「同じ事だ。どうせ確信はあったのだろう」
「そりゃまあ」
 秋の終わり、忍び寄る冬の気配を感じる頃、幸村は伊達の独眼竜とあいまみえた。戦のあと、どこか茫然とした様子で稲妻を見たのだと呟いた幸村の顔を、佐助は今でも思い出すことができた。それを見て、酷く嫌な感覚にとらわれたことも。
 歩卒の相手をしながら、或いは庭先で素振りをしながら、幸村の目はその時に見たものとよく似た色を浮かべていた。何かに取り憑かれたような色。
 ふと、幸村が音にして息を吐いた。
「わかってはいるが、自分でもどうにもできん」
 うん、と佐助は短く返す。
「……落ち着かぬのだ」
 佐助はまた、うん、とだけ言って、食べかけの饅頭を口に放り込んだ。
 凄味を増したと言われる幸村の槍が、一振り毎に描くのは焦燥の念だ。記憶の中の太刀に焦り、焦がれている。
「奥州は、雪が深いのだろうな」
 見たことはなくともそう伝え聞く。この時期、北に位置する国は揃って動きをひそめ、国境を越える旅人の数も少ない。
「まあ、軍神とこみたいに閉ざされるって程じゃないけど、出兵はできないだろうねえ」
 温くなった茶を口元に運び、幸村は椿を眺めた。
 どれほど鍛錬を積んだところで、相手が記憶の中では超えられはしない。その記憶ですら日毎に薄れ、いくさ場で見た隻眼の竜の、太刀筋も姿も顔も声も、鮮烈な印象ばかりを残して輪郭が曖昧になって行く。
「早く、春になれば良い」
 寒椿がすっかり散る頃には、長い戦の季節が始まりを告げる。戦い進めて行けばいずれ、再び竜にまみえることもあるだろう。
 冬になったばっかりでしょ、と呆れ声で佐助が言う。それもそうだなと幸村も苦笑した。
 幸村様、と名を呼ばう声に目を上げれば、練兵場には既に休憩を終えた兵達が整列していた。それへとひとつ頷きを返すと幸村は、槍を片手に立ちあがる。途端、一陣の風が強く巻いて、幸村は目を細めた。
 地を巻いて高みへと消えるそれを追うように蒼天を見上げる。深く澄んだ青に誘われるようにふいに湧いた衝動に、口元にそっと片手を当てた。


 寒椿の花弁がまたひとつ地に落ちた。
 
 
 白い雪の上に落ちた赤を見るともなく見つめ、口元から煙管を離した政宗は、煙とも吐息ともつかない白い息を冷えた空気に吐き出した。冬晴れの日、寒さは幾分和らいではいたが、ふいに肩を震わせて政宗は舌打ちする。
「Uh..., 参った、冷えるな」
「そう思うなら中に入られては如何ですか」
 言いながらも縁側から動く様子のない主を見かねてその隣に火鉢をどかりと下ろし、片倉小十郎はこれみよがしの溜息を落とす。それもまた、目に寒々しく白く空気を濁らせる。
「入りてえんだがなァ。根が生えた」
「では、綿入れをもう何枚か追加致しましょうか」
「No thank youだ。そこまで寒いわけでもねえ」
「お風邪など召されてはこの小十郎が困ります」
「……何でお前が?」
 怪訝そうに上げられた主の視線に、小十郎はちらりと笑う。
「政宗様は病を患うと我が儘に拍車がかかりますからな」
「Oh, そいつぁ知らなかったぜ。次から気を付けるさ。覚えてたらな」
 気のない言葉にまったくと呟いて、片倉は主の傍ら、やや後ろに静かに座した。
 庭師の手で整えられた庭園は今は一面の雪に覆われ、頑なに溶け消えることのない雪が晴天の下、日暮れ近くの陽光を眩しく弾く。その片隅、白に覆われた風景の中に咲く寒椿の赤は否応なく人の目を引きつけ、際立って鮮やかだ。
 手持ち無沙汰に煙管の端で縁側を叩く政宗の視線もまたまっすぐその赤に据えられていて、けれどよく伺えば魅入っているという表情でもない。何かを思案する顔でつまらなそうに花を眺め、
「赤は赤だが、ありゃ赤じゃねえな」
 唐突にそんな事を言いだした。
 確かに、そう言われれば赤とは違う。考えて、小十郎は寒椿をまじまじと眺める。だが、紫がかってはいるものの、その花弁を何色かと問われれば赤と答える範疇だ。
「それが如何なさいましたか」
「いや、ちっとな」
 答えにもなっていない曖昧な言葉を返すと政宗は苦笑混じりの笑みを薄く浮かべ、赤は面倒だなと、独り言の響きで呟いた。
「面倒ですか」
「ああ、面倒だ。見回せば大抵どっかに赤がある。落ちつかねえ。……例えばそれとかな」
 言って、煙管の先がかつんと火鉢の淵を叩く。
 焼けた炭はその中にちらちらと火を宿し、あるかないかの風に煽られて時折ぱちりと小さく爆ぜる。
「別段、落ち着かないとは思いませんが」
「だろうな」
 ふむ、と顎に手をあてて、小十郎は主の横顔を伺うと楽しげに目を細めた。
「さては、赤の似合う女人でも見初めましたか」
「Ha, まさか。そんな色気のある話じゃねえさ」
 喉で笑った政宗は、吸い口から煙を吸い込み、冷えた空気にゆったりと吐き出す。そうしてふと真顔に戻ると、僅かばかり首を傾げた。
「……多分な」
 付け足された言葉に、小十郎は眉を上げた。
 人は他人の心の機微には聡くなれるが、自分の心の動きには存外疎いものだ。彼にしては珍しく自信のない様を見せる政宗もまた、己の心をはかりかねた顔を見せている。そう思える。
 否定はされたものの自分の想像がそう外れていないだろうことを確信し、どこで見初めたものやらと主君の様子を無言で見つめ、小十郎は緩む目元を隠すように顔を伏せると、僅かな衣擦れの音を連れて腰を上げた。
「夕餉の前に、少し御酒でも用意致します。綿入れより良いでしょう?」
「おう、それなら歓迎だ」
「お持ちするまで、赤でも眺めてなさいませ」
 どこか人の悪い笑みに言われ、ひととき目を丸くした政宗は、廊下を歩いて行く背中を恨みがましく睨んで頭を掻く。
「違うっつってんだろうが……」
 舌打って、まあいいがと、政宗は庭の椿に目を遣った。
 赤紫でも赤は赤。嫌でも目を引くそれは、記憶の中に焼き付いた赤備えの姿を思い出させて政宗の気を散らす。
 小十郎はあの赤を見ていない。だから赤を気にする理由を説明することもできない。言葉では足りないのだ。あれは見なければわからない。
 さながら炎の具現のような。戦場に見た紅蓮の鬼。
 真っ直ぐに突き進むばかりの槍は止めることは容易く思えても、いざ打ち合ってみれば予想を超える速度と槍筋で政宗の防御を抜き懐へと飛び込んで来た。
 もう一度あれを見たいと思った。それを考えるだけで心が奇妙に落ち着きを無くす。紛い物の赤でなく、他に類のないあの赤が見たいのだと、思う気持ちは焦りにも似ていた。
 けれど、どれほど焦ったところで地は雪に覆われている。勝算もなくそれだけのために兵を挙げる愚も犯せはしないが、どちらにせよあとふた月は、徴兵も、行軍もままならない。
「……早く、春になんねえかな」
 呟きは白い吐息に変わり冷えた空気に溶けて消える。それを視線で追って政宗は、ふいに湧いた衝動に、誰の目があるわけでもないと知りながらその口元を片手で覆った。
 
 視界の端には寒椿。
 てのひらの下、耐えきれず口の中でひそやかに、音にせずに囁いた名前がひどく舌に甘かった。

初:2006.01.10/改:2009.05.28