犬も食わない
「あァ!? 上等だテメエ表に出ろ!」
「望むところでござる!」
最早ろくに忍びもせずに竜の居城の天井裏で、迷い込んできた猫と戯れていたところに、下から唐突に二人分の怒声が響いてきた。びりびりと空気を震わせるそれに、膝の上の猫が驚いてミギャーと鳴きながら暗闇に駆け出す。ああひでえ猫逃げちゃったよ。汚れてたけど美猫の三毛だったのに。
何事かと天井板を外して顔を覗かせると、得物を手にした真田の旦那と竜の旦那が庭に駆け出していくところで、見れば竜の旦那は応龍六爪、真田の旦那は炎凰に、ご丁寧に炎まで灯している。幾らあのお二方が度を超して仲がイイとはいえ、場所が場所で相手が相手で、しかも真田の旦那はあまり加減を知らない。うっかり刀傷なんか負わせたらやばいんじゃないのと、流石の俺様も慌てて天井から飛び降りた。
「ちょっとちょっと旦那方……」
静止の声をかけながら二人の後を追ったわけだけど、縁側に足を踏み出したところに、目の前に何か四角い物体がぬっと差し出されて、思わず暗器に手を遣りつつ急停止した。四角い物の正体は年季の入った薬箱で、それを持つ手から腕、肩へと視線を移動させれば、苦笑を浮かべた伊達の重臣と目が合った。竜の旦那より十くらい上の、側近中の側近。
「あー……片倉、の旦那」
「落ち着きがねぇな。座ったらどうだ」
はあ、と間抜けな返事をして、出鼻を挫かれた俺様は縁側に腰掛ける。
「って座ってる場合じゃなくて。ちょっと片倉の旦那ぁ、ほっといていいのー? あの人ら」
「……政宗様がお望みだからな」
「ったって、真剣持ち出してるよ? 怪我でもしたらどーすんの。悪いけどうちは責任取らないよ?」
「深手を負うような事にはならんだろう。承知で仕合ったのならば、少しの傷くらいは箔のうちだ」
「あらま。随分寛容じゃないの」
「……そう納得することにしている。ああ、それにしても」
打ち合う二人を微笑ましげに眺めて、伊達の重臣は手持ち無沙汰なのかそれとも癖か、左頬に走る傷に右の指先を這わせた。
「ご友人と喧嘩なさる政宗様を見るのは何年振りか」
いや喧嘩と表現するには過激で、ご友人って呼ぶにはちょいとばかり抵抗のある、あんなこともこんなことも済ませちゃってる関係ですが。
白熱して度を超しそうになった時のために、密かに仲裁用の手裏剣に手を置いておく。
でもまあ言われてみれば、子供の頃からお館様に傾倒して、お館様と武術の鍛錬以外に目を向けることのなかった真田の旦那にも、同年代の友人というものがいない。というか一番年が近いおかげで、喧嘩相手といえば専ら俺様の役目だったわけだけど(それも真田の旦那が一方的にキレたとか、そういう喧嘩で)。
佐助佐助と呼ばわって、二言目にはお館様がと続けていたものに、独眼竜殿がという名前が混じり始めて(そういう時はあまり耳にしたくもない内容の可能性が高いわけで、勤勉な俺様はこのところ、耳を自在に動かして閉じる方法はないかと模索している)、年の割に子供じみたところがあった旦那は、最近では頻繁に見たことのない顔をするようになった。妙に大人びた表情を見せるようになったとでも言うのか。竜の旦那と居るときは、一端の男の顔まで見せたりする。なかなかに複雑な心境だ。
子供が成長して離れていく時の親の気分はこんな感じかねえなどと考えながら二人の喧嘩を眺めていると、庭のあちこちから人が集まってきて、植え込みの向こうから様子を伺いはじめた。無理もない。打ち合う旦那達はうおお吹ッきッとッぶぇぇぇ!!だの、ヤーハーいいねぇかかってきな!!だの、力の限り叫んでいる。喧しいことこの上ない。
けど気が付けば眼光鋭く睨み合っていたはずの二人の表情は愉しげなものに変わっていて(当初の目的を忘れているとみたね)、観衆も概ね和やかにこれは見事な模擬戦闘ですなとか口にしあっている。まるで踊っているようだ、と呟きはすぐ横から。それには同意するけど、あんなに楽しそうに打ち合われたんじゃ気恥ずかしくて正視できないっての。
ふいに隣に座っていた片倉の旦那が立ち上がったかと思うと、間を置かず、ピリリと空気を裂く音が響いた。見れば紅木で拵えた呼び子で、集まってた人間全ての視線がその音に引かれて縁側に集中した。もちろん旦那達も例外じゃない。
「そこまで! 政宗様、政務のお時間です。真田…殿は、力が有り余っているのであれば兵の稽古などつけて頂ければと思いますが」
「……ya, i see」
「しょ、承知致した」
いや承知しないでよ。いくら同盟中とはいえ他国の兵を強くしてどうすんの。
我に返った二人は途端にばつの悪そうな顔になって、お互い視線も合わせず縁側に腰を下ろして草履を脱いでいる。観衆は雑談をしながら背を向けて持ち場に戻って、片倉の旦那はといえば二人が特にこれといった怪我も負わなかったことを確認すると、無用になった薬箱を持って静かな足取りで回廊を歩いていく。
「……独眼竜殿、その」
「あァ……never mind、もういい」
気が付けば縁の下からさっきの猫が顔を見せていて、擦り寄ってくるそいつに片手を伸ばして喉を撫でてやりながら、
「何で怒ってるのか忘れちまった」
憮然とした様子の竜の旦那の声と、真田の旦那の苦笑の気配と、部屋に戻っていく二人分の足音を聴きながら、俺様は思わず口元を緩ませた。
障子が閉められる寸前、ちゅ、とか濡れた音がしたのは、精神衛生上よろしくないので速攻記憶から抹消することにする。
初:2005.12.11/改:2006.10.30