戦忍の物語
幸村がはじめてその首に六文銭を下げたのは、彼の初陣の時だった。
六文銭は三途の川の渡し賃と言われ、それを象った真田の家紋は不惜身命の覚悟を表す。年若いあるじその覚悟を、赤備えの背に大きく示しただけでは飽き足らなかったようだった。鎧うもののない無防備な──或いは無謀な胸元で嫌でも目を引くその飾りは、幸村が動くたびに重なり合ってちりちりと硬質な音を立てた。耳に障る音だった。
最も、それを耳障りだと感じたのは自分だけだったかもしれない。
意味を知らぬ者の耳には涼やかに聞こえるのかもしれない。由来を知る者や主の耳には、絶えず自覚を促す勇壮な音色となって届くのかもしれない。
まさに六文銭の若子殿よと、冷やかし混じりに声をかける臣たちの顔はみな笑んでいた。
わかっていた。
耳障りだと感じるのは耳ではなく心だ。
あの家紋を、本当に、どうしようもなくくだらないと思う自分の心だ。
だから佐助は出陣を前に、受け持つ部隊の先頭に立つ赤備えの、心持ち緊張の色を浮かべる幸村の横顔へと側仕えの気軽さで話しかけた。
「旦那、それ」
背を丸めて幸村の隣に立ち、曲げた指先で銭を示す。
振り向いた幸村は佐助の指の先を追って胸元に視線をやると、照れくさそうに笑って首の紐に指をかけた。
「ああ、大仰に過ぎるかとも思ったのだがな。先ほど、お館様に褒めていただいたぞ」
そんなことは言われずとも知っていた。呼ばれるまで控えていた高木の枝から一部始終を眺めていた。
幸村の主・武田信玄は僅かばかり驚いた様子を見せたあとで豪快に笑って、その心意気や良しと、ひときわ目をかけ育ててきた幸村の、初陣に臨む覚悟に満足そうに頷いた。そうして感激した幸村と信玄とで、暑苦しく名前の呼び合いの応酬になったのは恒例のこと。
全くどいつもこいつもと呟くのは胸の裡のみで、佐助は意地の悪い笑みをあるじへと向ける。
「それ、六文じゃないんだけど」
「なに!?」
慌てて両手で紐を持ち上げた幸村は、そこに通された銭をひとつふたつと数え終えると、唇を尖らせて佐助を睨む。
「からかったな、佐助」
「ん、何のこと?」
「からかったのでなければ、数え間違えておるのは佐助のほうだ。よく見ろ、確かに六文あるぞ」
「そうじゃなくてさ。十二文なの。胸と背中と、あわせて十二文あるでしょ」
「……なぜ合わせるのだ」
「なんでもなにも十二文でしょ」
「背中だけでは後ろにいる者にしか見えぬ。だから」
「片方から見りゃ六文だけどさ。十二文でしょ」
「だから! 前から向かって来る者と、俺にも見えるようにと考えてだな」
「うん。だから十二文でしょ?」
別に意図が聞きたいわけではない。そんな幸村の思惑くらいは自分でなくとも誰にでもわかる。
ただその腹立たしいばかりの覚悟を茶化してやりたくてそう繰り返すと、幸村は今にも地団駄を踏みそうに顔を赤くして、しかしそれはせずに体の脇で両の拳をきつく固めた。
「う……うるさいぞ佐助! 多い分には問題ない!」
「そりゃそうかもしれないけどね。そんなに持ってどうすんだか。三途の川、往復でもするつもり?」
呆れ声でそう言えば、幸村は言葉を失ったようだった。幼さの残る大きな目を更に丸くしてまじまじと佐助を眺め、
「はは、そうか、往復か!」
しばらくの後に思わずといった様子で吹き出した。
「それは良いな! すごいぞ佐助!」
「いや、全然良くないのよ?」
「この幸村、いくさ場においては不惜身命の覚悟で臨み、死して本望」
佐助の否定が耳に届いていないわけではないだろうに、いっそ清々しくそう言うと、幸村は佐助に向かって笑ってみせた。
「だが六文を代金に三途の川を渡り、あの世に飽いたら残りの六文で、お館様と佐助のところに戻ってくればよいのだな」
だから行かれちゃ困るんだよ。
そう言うのも馬鹿馬鹿しくなって、ああもう勝手にすればと投げ遣りに相づちをうった。苛立つ佐助の心中も知らず、前に向き直った幸村の表情は晴れやかだ。その横顔からは先ほどまでの緊張は失せて、良い具合に力が抜けている。この事は後になって、初陣の緊張をあれほど容易く解きほぐすとはさすが佐助殿だと、二人のやり取りを聞いていた者達から的外れな賞賛を受けることになるのだが。
ちり、とまた耳障りな音が立つ。
佐助はその家紋が嫌いだった。
本当に嫌いだった。
そんなものをさも嬉しげに掲げて、死して本望などと下らないことを本気で口にする主君が腹立たしかった。
それでも、戻ってくるとうそぶいた幸村が、信玄と並んで自分の名前を出したことが少しばかりくすぐったくて、ほんとどうしようもない馬鹿だよと幸村にだけ届く声で呟いた。
* * *
暇だね、と呼びかけた声を風が攫う。
腰掛けている木の枝の、瑞々しい新緑の色をした薄い葉が、吹き抜けた風に嬲られてさわさわと擦れ合う音を立てた。
地上に戦があるように、空にも戦があるのだろうか。頭上には白い雲が薄く広がるばかりだが、遙か遠く、千切った綿に薄墨を染ませたような雲が、空と山とが出会おうとするのを阻むかのように現れ、天上の舞台の袖から中央へ攻め上がらんと進軍をはじめている。
地上でもまた同じように、地を蹴り荒らして進軍する騎馬と人とがあるはずだが、耳を澄ましてもこの場所へは、重い蹄の音も鎧の音も剣戟の音も届かない。
実のところそれほど暇というわけではない。仕事ならば山ほどある。けれど今は動けないので、こうしてここでぼんやりと、天上の戦と地上の戦の行く末を眺めている。
暇だね、ともう一度足下に向けて呼びかけて、梢と同化する装束を纏ったいくさしのびは、細い目を弓のかたちにさらに細めて小首を傾げた。
「だから、ちょっと俺様の話でも聞いてよ」
いつだったかな。
そう最近のことでもないけど、昔話ってほどじゃない。
真田幸村という人は涙腺が緩くて、感激すれば泣いて悔しければ泣いて憤っては泣いて、そのくせ肉体的な痛みに泣くことは滅多にないのが佐助にとっては不思議のひとつだった。子供の頃からそうだった。
心が動いたときは恥も外聞も知らぬ素振りで声をあげて泣くくせに、痕が残るような深い傷に薬草を揉んで擦り込んで、痛いでしょ滲みるでしょ泣いていいよと言ったところで絶対に泣かない。そういう時は逆に笑う。これしきの傷どうということはないと強がって笑う。幼い頃はさすがに笑ってみせる余裕の持ち合わせはなかったが、口を真一文字に引き結んで、やはりどうということはない案ずるなとそんな強がりを、痛みに震える声で言い放ってみせたものだった。
その反動というわけでもないだろうが、痛み以外の事柄に対しては呆れるほどよく涙を見せる。そして、その単純さゆえに晴れるのもまた呆れるほどに早い。幸村に従うようになってから幾つもの季節が巡るあいだをその傍らで過ごしてきたが、泣き腫らした目というのは佐助はとんと見た覚えがなかった。
だからその日、いつものように訪れた日当たりの良い主の室の、昼前の柔らかな日差しから逃げるように障子を閉めきった室内で、幸村の腫れた瞼と妙に生々しい目の色を見たときは心底ぞっとしたものだった。ろくに眠っていない目だ、泣き腫らした目だと、ひとめで知れた。
奥州から戻った翌日だった。
詳細は判らずとも原因は明らかだ。
そうして次の瞬間には頭に血がのぼっていた。腹が立ちすぎて目眩がするなんてそんな感覚はここ最近覚えたことがなくて、吟味する余裕もなく言葉が佐助の口を突いて零れ出た。
「あんた、そんなに好きになってどうすんだ」
声は隠すことなく苛立ちを乗せて、静まり淀んだ部屋の空気を鋭く裂いた。
幸村の独眼竜を見る目が、独眼の竜のことを語る声が、敵に向けるに相応しくない浮き足立つような喜びや戸惑いや、胸苦しさを含むようになったのはいつからだったか。恋に似てはいないかと佐助が気づいて間もなくして、幸村も自分の想いを自覚した。
叶わずとも会いたいと、しのんで奥州へ通うこと数度。ついに告げて玉砕したかと、やぶれた主の恋心を思えば胸が痛みもするけれど如何せん相手が悪すぎた。
腫れた目で佐助を一瞥した幸村は、煩いと吐き捨てるように言って視線を逸らし、立てた膝に伏せた頭の前髪をきつく掴む。
「俺とて、なりたくてこうなっているわけではない!」
「ああ、そう。じゃあやめれば。好きになりたいわけじゃないならさっさと忘れちまえよ」
胸の前に腕を組んでいっそ冷徹な視線で主を見下ろせば、幸村の頬がひくりと痙攣した。眼球だけを動かして佐助を睨み上げたその目が不可解だと言っている。
「そう簡単に忘れられるものか」
「忘れられるさ」
「……俺には出来ぬ」
「出来るさ。押さえつけて、表に出さなきゃいいだけのことだ。嘘でも忘れたふりして自分を誤魔化してみなよ。いずれ本当に忘れちまう」
幸村の唇が何かを言いかけて、佐助を睨む目から鋭さが失せた。
荒れていた水面が時と共に鏡のように静まって空の色を映すように、落ち着きを取り戻した瞳が佐助の目を、その奥を探ろうとするかのように無遠慮に覗き込んだ。
「そういうことがあったのか?」
幸村のそういう目が、佐助は好きではなかった。
底まで澄んでいるような色に苛立つ。
覗き込まれてわけもなくやばいと思うような。いたずらに心に波風を立たせるような。
「だってそういうもんだろ。辛いだとか悲しいだとか、いつまでも引きずってらんねえだろ」
「人を恋う気持ちもか」
「たぶんね。俺様、そういうのはわからねえんだ」
忍なもんで、と佐助は口元で薄く笑う。
「……忍だからか」
「そう。忍だからさ」
忍とて大半はただの人間だ。忍としての範囲で普通に生活し、人を想い、家庭を持ち子を成しもする。それは幸村も知っている。
だが、幸村はそれで引き下がった。忍を持ち出す時の佐助がそれ以上踏み込ませる気がないことも、幸村はまたよく知っていた。
「まあ、俺様はさ、旦那が誰をどれだけ好きになろうと、ちゃんと俺らの食い扶持さえ稼いでくれりゃあそれでいいよ。けど奥州とはいずれやり合うことになる。独眼竜の旦那が天下を諦めれば別だけど」
しかしそんなことはあり得ない。あの野心に満ちた竜が例えば武田に、或いは他の誰かに下るなどとは考えられない。だから。
「あんた、そんなんで斬れるのかよ」
隠すことなく疑惑をぶつけると、幸村の目が不快げに細められた。
「侮辱か、佐助」
「そう感じる矜持が残ってるなら、そんな不様なとこ見せないで欲しいね」
渋面を作った幸村はそこで初めて恥じた様子を見せて、顔を上げ直し、足を胡座に直すと背筋を伸ばした。
「すまなかった。……だが、この幸村の忠誠はお館様の元にある。お館様を阻むのならばそれが独眼竜殿であろうと迷わず斬る」
それに、と続けて呼吸をおいて、幸村の瞼が閉じられた。その裏に何を思い描いているかなど想像の余地もなく知れる。
「迷いなど、見せればきっと失望される。考えるだけで、拒まれるより余程辛い」
重傷だ。
ふうと溜息をついて、佐助は懐から手拭いと、水を入れた細い竹筒を取り出した。手拭いを湿る程度にまんべんなく濡らして幸村へと放り投げる。
何も言わずとも幸村は意図を汲んで、受け取った手拭いを両目の上に置き瞼を冷やした。その斜向かいに腰を下ろして、佐助は目元の隠れた幸村の顔を覗き込んだ。
「ねえ真田の旦那。俺様はさ」
呼びかければ、見えないながらに声のほうへと幸村の顔が傾けられる。
「旦那が死んでも多分泣かないし、追い腹切ったりもしないよ。腹、切ったら痛いし」
「なんだ、いきなり」
薄情な忍の言葉に、けれど主の口元は可笑しげに笑う。
「俺の追い腹など切る必要はないぞ。そんなことをされても俺とて困る。何より佐助にはお館様に」
「けど、旦那がいなくなったら、俺様は多分つまらなくなる」
言い差した言葉を遮って続ける佐助に、幸村の体が僅かに緊張するのが見て取れた。
「そこらじゅうで裏切るだの殺すだの、ただでさえくだらない時代なんだから。曲げようとしても曲がんない、あんたみたいな馬鹿にはいて貰わないと困るんだ。馬鹿みたいに真っ直ぐに生きて、旦那みたいなのがいるなら世の中捨てたもんじゃない、ってさ。思わせてくれよ」
軽口ならばいくらでも叩く忍の、あまり口にしない本心に、幸村はなぜかおそるおそるといった風に目元を隠す布を下げる。見開かれた幸村の目と、半眼になった佐助の視線とがかち合う。
だから、と佐助は言葉を接ぐ。
「旦那自ら俺様の楽しみ、奪ったりしないでくれよ」
迷わず斬ると幸村は言った。
だが、恋した相手だ。迷わないはずがない。佐助の主はそんな器用な男ではない。
念押しを正確に読みとって、幸村の表情が曇った。
「わからんのだ」
呟いて、幸村が掌の上の手拭いを握りしめた。泣き出しそうとも、笑い出しそうともつかない表情で目を細める。そうして、障子の向こうに視線を遣った。
「その時になってみないと、俺にも」
幸村の横顔を飽きるほどに見つめて、何の気なしに立ちあがって開けた障子の外にゆるやかな軌跡を描いて蜻蛉が。
ああ、そうだ。蜻蛉が飛んでた。
赤蜻蛉だよ。秋のことだったのかもしれない。
そう最近のことでもないけど、昔話ってほどじゃないだろう?
あんたがまだ踏みとどまってた頃の話。真田の旦那に手を伸ばせていなかった頃の話。あの時真田の旦那を拒絶したあんたもまた、真田の旦那にとっくに惚れてた。この優秀な俺様が気づかないわけがないだろう? 真田の旦那が諦めなけりゃ、落ちるのも時間の問題だってわかってたさ。
でも結局、“その時になったらどうするか”なんて、考えるだけ無駄だった。取り越し苦労。侮って悪かったって、いつか旦那に謝らねえとな。
迷わないって言った旦那の言葉は嘘じゃなかった。
あちこち裂かれた陣羽織や、吹き飛んだ肩当てを見りゃわかる。
やっぱりあんた強いわ、独眼竜の旦那。
真田の旦那もたいがい強いけど、あんたの腕はそれ以上だった。
なあ、どうかしてるぜ。
────その強いあんたが、あんな隙を見せるなんてさ。
木の枝から地面を見下ろす。
傷だらけの赤備えの上に、青い陣羽織が重なり合って倒れている。
その光景を改めて眺め、佐助は口元に浮かべていた笑みを消した。
「もう、聞こえてないか」
予感に駆られて持ち場を部下に任せ、駆けつけた時には既に勝負は決していた。
無数の屍を道しるべに主の元へと辿り着き、遠くに求めた姿を見つけたと思った時には、その背から血脂に濡れた刀が三本生えていた。
政宗がそれを抜き去る。幸村の脚が力を失って崩れる。どうと地に倒れ伏す。崩折れた幸村を見下ろす政宗は接戦の興奮の名残で笑っている。
腹の底が灼けた。止めた足を開き地を踏みしめ、身を低くして手裏剣を打った。鉄の鱗に全身鎧われた竜の、唯一剥き出しの喉元に正確に狙いを定めて。
見守る先で、ふいに政宗の顔から、能の面をすげ替えたように感情がごそりと抜け落ちた。その視線はひたと幸村に据えられたまま。
政宗の口元が何かを綴ろうとして。
何かに──空気を裂いて近づく気配に気付き、咄嗟に身をかわすよりも剣で弾こうとするよりも早く。
喉元に暗器が食い込み、その肉と血管と気道とを絶った。
あの時何を言いかけた? 聞けなかったのが、少し心残りでさ。
いつだか言ったことがあったっけ。あんたとは気が合わなそうだって。
当然だよな。自分たちは同じものを欲しがってた。
思いのかたちは違ったけれど、ひとつしかない、絶対に変わらないものを欲しがってた。
既にこときれた独眼竜に心の中で語りかけていると、佐助の足元で枝が音を立ててしなった。持ち場が片づいたら追ってこいと指示してあった部下が二人、佐助の一段下の枝に取り付いて片膝をつく。
「長」
「あー、ご苦労サン」
言いながらそちらを見もせずに、佐助は片手をひらりと振って部下を労う。
「ご苦労ついでに、お館様にここの報告に行ってくれるかな」
短く了承の言葉を返して、忍の一人が枝伝いに本陣へと駆けていく。
もう一人はその場に残り、幸村様、と掠れ声に呟いて、地上の惨状に頭を垂れた。
「何と、惜しい」
部下と言っても、壮年に差し掛かろうかというその忍は、佐助とは親子ほどの年の開きがある。戦闘では若い者に一歩を譲るが、長い年月をかけて積まれた経験と知識のほどは真田忍隊の中でも軍を抜き、時には幸村と佐助のあいだで交わされる戦術の相談役になっていた。
その目が時折、親が子供を見る時のような眩しさと優しさを湛えて、幸村に向けられていたのを佐助は知っている。彼だけでなく、真田忍は皆、幸村を深く慕っている。
「あと数年も経てば、日の本で名を知らぬ者はないと評されるつわものになられただろうに」
「そうだねぇ……」
惜しいと思う。哀しいとも思うが、かつて幸村に宣言した通り、やはり涙は出なかった。体の内に充満するのは哀しさよりも喪失感だ。内蔵をごっそりと抜かれたかのように内側が虚ろだ。四肢が重く、動くのが億劫だ。
部下が来たということは、伊達軍は撤退を始めているのだろう。それもそうだ、軍を率いるはずの大将首はここにある。ならばもう少し休んでいようかと、考えた視界に、鈍く光の反射がうつった。色を失った幸村の胸元。
唐突に思い至って、ああ、と呟いた。
往復の船賃ではなく。
「二人分だ」
「……は?」
「ん、いや、こっちの話」
そう時を置かずに旅立ったのだから、あちらの川岸で二人は顔を合わせていることだろう。きっと幸村は驚いたあとに政宗の不覚を笑い、政宗は苦虫を噛み潰したような顔をして、異国の言葉で悪態をつく。そんな様子が容易く想像できるが、それは生者の感傷というものだ。
枝を掴む手の甲に、ぽたりと水滴が落ちた。見上げればいつの間にやら、厚い雲が空の半ばまでを覆っている。
「降り出す前にお仕事、片づけちまいますか」
木の枝に立ち上がり、佐助は腰に両手を当てると首をいちどぐるりと回した。
「ここは代わりましょう」
「頼む。すぐに増援を送るけど、伊達の奴らが来たら合図上げて。あちらさんもきっと探してる。お館様が来るまで何があっても死守。絶対に渡すな。特に真田の旦那は」
「御意」
足場を蹴って佐助は身軽に跳躍した。
猿のように枝を伝い、人目に触れぬよう合戦場を移動する。
そうしながらほんの瞬きのあいだ元いた場所を振り返った目尻、そこにだけ、なぜだかひどく風がしみた。
初:2005.11.11/改:2012.06.26