爪痕
胃の腑に熱い塊を押し込まれたようだ。
嫌な気分だ。落ち着かない。
思っていたより器用な奴だったかと、逃げるようにそんな事を考えた。
身動きする気配で目を覚ましてしまったせいで、頭がぼんやりと重い。酷使した体はだるい。障子を漉かして差し込む光は白く弱く、澱む夜の気配をゆっくりと浸食して部屋の隅へと追いつめていく。それを庇うように、政宗は夜の空気を布団ごと抱え込んで、胸元に手繰り寄せた。
視線の先にあるのは、白い光の中で赤色の上着に片袖を通す、情事の痕の残る背中。左肩に残る赤く腫れた細い線は、自分のつけたものではあり得ない。そこへしがみつくことはあっても、爪を立てたことはない。それを剣呑な目で眺めるが、背中を向けたまま幸村は気付かない。
腕が後ろに回されて、もう片方の袖に手をくぐらせようとしたところを、裾を掴んで阻止した。襟が肘のあたりにひっかかって止まり、中途半端に着衣をつけた体の、左肩だけが露わになったままになる。
「政宗殿……」
驚いたのが半分、困ったのが半分といった風で、幸村が肩越しに振り向いた。
「申し訳ない、起こしてしまっただろうか」
「Oh, yes……誰かが隣でごそごそ着替えてるせいでなあ?」
恨みがましく言ってやると、眉尻を下げた幸村が再び謝る。
常は暑苦しいばかりの声だが、ひそめると意外にも低く甘い声だ。
餓鬼みたいな笑みばかり浮かべる顔だが、その分表情が引き締められた時の落差は嫌いじゃない。
想像してもみなかったが、なびく女もいるのかもしれないと、考えてまた気分が悪くなった。その気分のまま睨み付けてやると、幸村が不思議そうに首を傾げる。
「お前、女でもできたか」
「……唐突に何でござるか」
「それとも男か? でなけりゃどこぞで郭にでも寄って来てんのか」
「郭……!? そ、某そのような破廉恥な場所へは」
「破廉恥ってなあ……。昨夜さんざんやってたのも、たいがい破廉恥な事だろうが」
「いや、それは、そうなのだが、政宗殿を見ているとどうにも歯止めが……」
幸村は語尾を濁して赤くなる。いつもならつられて狼狽するところだが、今回ばかりはそんな幸村の様子を楽しむ気分でも、一緒に照れてやるような気分でもない。言葉は心の表面を撫でるだけで、奥にまで届かない。
「……まあ何でも構わねえが、他の奴と寝た体で俺んとこに来るな」
それだけ言って上着の裾を離してやると、再び布団の中に潜り込んで背中を向けた。
「寝直す。一刻経ったら起こせ」
「承知した……が、すまないが、某には政宗殿が何を言っているのかわからない。某がお慕いしているのは政宗殿ただ一人だ。……抱きたいと思うのも、」
「Shut up」
苛々と気が尖る。浮気だなんだと女々しく責める気はないが、揺るがぬ証拠がありながらシラを切る態度は気に入らない。
その上まだ白々しい事を言い募るのにも腹が立つ。
「黙れ。自分の背中に聞いてみろ」
言うと、幸村が身動きする音がした。素直に背中を見ようと、己の体と格闘しているのだろう。
「む。見えぬものでござるな」
「爪の痕だ」
「爪……」
「残ってるぞ。誰ぞが付けたんだろうが」
「それが、何か……?」
変だ。さすがにそう感じて、政宗は体を反転させながら上体を起こし、視線を幸村へと据える。まさか猫にでも引っ掻かれたというのだろうか。裸で?
そうしてしばらく無言で睨み合うと、わけがわからないとでもいいたげな幸村の表情が、ややあってふいに緩んだ。見る間にその顔に朱がのぼる。いっそどす黒い赤さに顔面を紅潮させ、それを隠すように右手が口元を押さえた。
「その」
「……心当たりがあったみてえだな?」
「政宗殿こそ、心当たりはござらぬか。……記憶にないだろうか?」
「あ?」
「政宗殿が、ゆうべつけたものだが」
「なんのjokeだ? 爪なんか立ててねえぞ俺は」
幸村の顔が一層赤くなる。
「しかし」
言うなり幸村の右手がのばされて、政宗の右手を捕らえた。
眼前に持っていくと頷いて眺め、見ろ、とでも言うように政宗への顔近くへと戻される。その口元がだらしなく緩んでいるのに、まさかまさかと嫌な予感を覚えつつ、指を目に近づけた。
少しばかり長く伸びた爪の先に、黒ずんだ紅。
ざっと血の気がひいた。
「ちょっ……政宗殿!?」
ひいた時とおなじ速度で、血が頭にのぼる。飛び起きて幸村の腕を掴み、有無を言わさず引きずると寝間の外に蹴り出した。
後ろ手に勢い良く障子を閉めて、政宗は思わずその場にへたり込む。
だらしない笑みの理由がよくやく飲み込めた。不覚にも程がある。幸村相手に、自我を手放すほどに溺れさせられたというのか。
そうして自分のつけた爪痕に腹を立てた。
最悪だ。
膝を立て両腕で頭を抱えた。腹の底にあった熱い塊が、溶けてのぼってきたかのように顔が熱い。
「政宗殿ー……」
「……出てけ」
「もう出されているでござるよ……」
情けなく抗議の声をあげるのが、まるで追い出されてにゃあにゃあと泣く飼い猫のようだ。爪の先が控えめに木枠を叩くので余計にそんな感じになる。しばらくそうして諦めたのか、声はしなくなったものの、薄い紙を一枚隔てて気配だけが背後にある。
見えない幸村の顔は、きっとにやついているに違いない。
呼吸を整えて顔にのぼった熱を引かせようとしていると、背後でそっと障子が開かれる音がする。
後ろ手にそれをまた閉める。
手を離した途端に開けられる。
また閉める。
開けられる。
閉める。
開けられる。
「……お前な」
虚しい攻防を繰り返した末に諦めると、丸めた背中に幸村が擦り寄ってきた。
「某、少しばかり腹を立てておりますゆえ」
「あ?」
「妬いてくれたは嬉しいが、某はそんなに信用がないか」
妬いたという部分については否定したいところだが、あれは明らかに嫉妬だった。引いた血がまた顔にのぼってきて、政宗は顔を上げられない。
「政宗殿をお慕いしている。政宗殿しか見えぬと、どれだけ言っても信じては貰えないのだろうか」
まるで挨拶がわりのように聞かされているせいで余計に疑わしいのだと、言っても幸村にはわからないのだろう。
「……わかってるよ。悪かったよ。猪突猛進のアンタが、他に手を出せるほど器用なわけがねえ」
「猪突……まあ、わかっていただければそれで良いのだ」
信じてくだされ、と言う声が背中に響く。
擦り寄せられた体温が心地よい。いつもならば寝ている時間だ。気が抜けたことで急激に襲ってきた眠気に、この姿勢のまま寝てしまおうかと考える。
目を閉じかけたところで、そうだ、と幸村が声をあげた。
「政宗殿。小刀を貸してはいただけぬか」
「……構わねえが、何に使う?」
「某が政宗殿の爪を切って差し上げよう! 今宵も満足していただけるよう精一杯努力してみせるゆえ、存分にしがみついてくだされ」
弾かれたように立ちあがった政宗は、今度こそ本気で、容赦なく、幸村を庭に蹴り飛ばした。
2005.11.07