しのみて
湯飲みに伸ばしかけた手を止めて、政宗はふと全身を緊張させた。
妙な気配がある。
殺気はない。
だが、部下の誰かというわけではない。
眉を顰めて気配を追い、見遣った先で天井板が一枚するりと外された。と同時、何やら草木の色彩の塊が政宗の膝元に、滑り込むような勢いで駆けてきた。
「テメエ……」
「独眼竜の旦那! 頼む! 匿って!!」
忍部隊の監視網を抜けて来るとはどこの見上げた曲者かと思えば、降ってきたのは見知った人物で、普通そこはお命頂戴だろうがと政宗は呆れ顔で佐助を見遣る。
「相変わらず忍んでねえな、真田の忍」
「あーちょっと今それどころじゃないのよ。ねえ、ここどっか隠れる場所ない?」
あったところで教えるわけはないのだが、佐助は何やら切羽詰まった様子で、眉尻を下げておろおろとあたりを見回している。
「あ、やべ。来た」
「What?」
言うなり佐助は政宗の背後で身を縮めるが、当然のように隠れきれていない。殺意がないとはいえ後ろに回られた事に政宗は不快感を示すが、それよりも佐助の様子が気にかかる。
何なんだ、と首を傾げる政宗の前方で、
「見つけたぞこの曲者がッ!」
すぱん、と音を立てて襖が開いた。
悲鳴にも似た高い声が佐助を見て叫ぶ。
「待ったかすが! ちょっと俺様の話聞いてよ!」
「問答無用!」
現れたのは、体の線も露わな黒い装束に長い金色の髪の女。この場所では自分も曲者のうちに含まれるのだということを力任せに棚上げしているのは、見間違えようもない、上杉のくのいちだ。
「そう言うアンタも曲者だろうが……」
思わず呟く政宗に、ふいにかすがの目が驚愕に見開かれた。
「……! 独眼竜……!?」
いやそれ今になって気付くことかよ。ここオレの城だろうが。
もはや言葉にする気力もなく、どこか遠い目になって政宗は内心でぼやく。
どうして余所の忍はどいつもこいつも忍ばねえんだ? んでうちの忍は何してんだよ。殺気がないから出て来ねえんだろうが、ったく忍びすぎってのもどうなんだよ。
「武田め、奥州と癒着していたか……!」
「そういうわけじゃないんだけど、なんてーのかな成り行きっていうか」
「黙れ! 言い訳など聞きたくない!」
「Hey, guys. 痴話喧嘩ならどっか余所でやんな。オレのtea timeを邪魔すんじゃねえ」
面倒くさげに窘めると、くのいちはかっと頬を赤らめる。
「ち……痴話喧嘩などではない!」
「何だっていいから出てけ。ったく。茶が冷めちまう……」
しっしっと手振りで追い払おうとするが、苦無を構えたかすがは戸口でじりじりと間合いを取っている。
佐助は政宗を盾にして、落ち着けよ話せばわかると何やら必死にかすがを宥めていたが、ふいに、あれ、と声をあげた。
「なあ竜の旦那。その緑のなに?」
唐突に緊張感を失った声に、政宗だけでなくかすがもつられて佐助の指さす先に視線を向ける。
示されたのは塗りの菓子置きに盛られた、鮮やかな緑色のきんとんのかたまりようなもの。
「これか? 『づんだ』だ。づんだ餅」
政宗の好物で、小腹が空いた時の間食によく用意させるものだ。
「餅? これが?」
「中に餅が入ってんだ。枝豆を茹でて潰したのをな、こう、餅にまぶして」
「へぇ。言われてみりゃ確かに枝豆の色だわ」
「……それは美味いのか?」
かすがまでもが膝をついて餅ににじり寄り、他国の忍は二人揃って、政宗の解説にふんふんと耳を傾ける。
俺ァ何やってんだろうなぁと思いながらも興味を持たれれば悪い気はしない。問われるままに政宗は説明してやって、材料から作り方のコツまでをすっかり聞き出した佐助が満足げに笑った。
「いやー、いいこと教えて貰ったわ。感謝するぜ、独眼竜の旦那!」
「作って差し上げたら謙信様は喜んでくださるだろうか……」
かすがはかすがで呟きながら頬を染めて、何やら遠い世界に行っているようだ。
「気が済んだか? なら、仲良く帰んな。Go awayだ」
その言葉で二人は我に返り、勢い良く飛びすさったかすがが再び得物を構える。
「武田の忍、覚悟ッ!」
「あーもう謝っただろー!? ごめんかすが、ほんと悪かったって!!」
「うるさいうるさい黙れ! 気安く名前を呼ぶな!」
「だからオレんちで人を盾にして騒ぐんじゃねえ……! 原因は何だ? おい、真田の忍。迷惑料にちっと話してみろ」
「……話したら助けてくれる?」
「話さねえならテメエの主んとこに怒鳴り込む」
佐助は情けない顔で、縋るような視線を政宗に向ける。
「えっと、上杉んとこ偵察に行って」
「……まさか上杉の所からここまでnon stopで追いかけっこしてきたのか」
「忍のやることさ、何でもありだよ」
そう言って佐助はふっと笑うが、いくら何でもそれはなしだろう。
こいつら本当に人間かと疑いたくなるが、深く考えないことにして政宗は先を促した。
「それで?」
「あーだから偵察行ってー。目安つけて覗いた部屋がハズレでこいつの部屋でー。そしたら着替えてるとこで素っ裸でー」
「……I see. そいつぁ得したな」
「そうなのよ、ある意味アタリっていうか? もう俺様超眼福」
くのいちを下から上へと舐めるように見上げてにやりと笑う政宗と、その時の光景を思い出してかだらしない表情を浮かべる佐助に、かすがは血管切れるんじゃないかという勢いで顔に血を上らせて震えている。
「こ……この痴れ者どもが……!」
「破廉恥であるぞ佐助ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
そのかすがの声をかき消す勢いで、びりびりと鼓膜を震わせるだみ声が響いた。
くそ、また増えた。
庭から部屋に飛び込むなり佐助に槍の石突きを叩き込んだ赤い弾丸小僧を見て、政宗は脇息にぐったりと凭れ掛かる。
あっもしかして殺るなら今? とかすがは密かに苦無を政宗へと向けるが、政宗が伏せたまま投げた湯飲みに手の甲を打たれて取り落とした。まさか独眼竜の右目は頭の後ろについているのだろうか。思って後頭部をまじまじと見てしまうが、つむじが二つあるのを発見しただけに終わった。
「偵察任務に出向いた先でッ! 女人の着替えを覗いて喜ぶとはッ! それでも真田忍隊の長か! 恥を知れ佐助! 情けなくて涙が出るわ!!」
「そ……そうだそうだ!」
言葉だけでなく本当に涙ぐむ幸村の尻馬に乗って、そっと苦無をしまったかすがも佐助を責め立てる。
佐助はといえば石突きで烈火を叩き込まれ、さらに襟首を掴まれがくがくと揺さぶられて、主の手によって既に瀕死の様相である。
「真田の旦那ひっでぇ……。悪気はなかったんですって……」
「それが言い訳になるかッ!!」
「全くだ!」
「旦那だって、庭から竜の旦那の着替え見て鼻血吹いてたくせに……」
「悪気はなかったのだッ!!」
「……独眼竜、ここで殺してもいいか」
「OK. 手え貸すぜ……」
腰を落とし殺気を深めるかすがの横に立ち、政宗は半眼で愛刀を鞘から抜き放つ。容赦なく六爪である。
「忍の行儀が悪いのは主の躾か、真田幸村ァ」
向けられた六爪を気にもとめず、はっと顔を上げた幸村は、力任せに掴んでいた佐助の襟首を離した。痛そうな音と共に佐助の頭が落ちて、ぐえっと呻き声を漏らすのをかすがは思わず同情の目で見てしまう。
「ああ、佐助に気を取られて忘れていた。某、花を持ってきたのだ」
「花?」
幸村ははにかみながら、どこからともなく野の花を一輪取り出した。
小さな花だ。
四枚の花弁を持つ、小指の爪よりもまだ小さな、空の色をうつした花。
「土手一杯に咲いているのを目にしたら、政宗殿にお見せしたくなった」
政宗は訝しげに、幸村と花とを交互に見遣る。
「これを? オレに?」
「うむ。本当は土手ごと運びたかったのだが、それはさすがに無理でござった」
だから摘んで参ったのだと、幸村はその小さな花を差し出した。
「……お気に召さぬだろうか?」
別段珍しい花ではない。今の季節ならばそこらの畦道にいくらでも咲いている。
「Ha, ……crazyな野郎だ」
けれど政宗は溜息と共に六爪を鞘に納め、苦笑すると片手を幸村へと開いてみせた。その手の上へ花を乗せ、幸村は安堵の笑みをのぼらせる。
「お会いしとうござった」
幸村の手が政宗の頬を包み、まっすぐな目に顔を覗き込まれて政宗は俯く。
「毎日、政宗殿のことばかりを考えていた」
「……おい、馴れ馴れしく触んじゃねえ」
「嫌ならば振り払ってくれて構わぬ。だが、そうでなければそれがしを見て欲しい。せっかくお会いできたというのに、そう俯かれては顔が見えぬ」
幸村は不安げに政宗の反応を伺うが、添えた手は振り払われることはなく、ただ困ったように隻眼が上目遣いに幸村を睨み付けた。満面に笑みを浮かべて、幸村は政宗に顔を近づける。
「政宗殿……」
「ッ……真田……」
「これが……衆道……」
瞬く間に二人の世界を構築されて、忍たちは揃ってじりじりと部屋の隅に避難していた。どこか茫然と呟くかすがに、佐助は思わず愚痴をこぼす。
「きっついでしょー。主があれなもんで、俺様しょっちゅう男同士のいちゃいちゃ見せられてたまんねーったら……」
何となしに成り行きを見てしまう視線の先では、今にも口づけんばかりの勢いで接近している男二人が「その、触れてもよろしいだろうか」「馬鹿、忍が見てんだろ……」とか何とか囁き合っている。略して『シノみて』。語呂が悪い。
「い、意外と苦労しているのだな……」
「あ、わかってくれる? もうほんと、涙が出るね……」
すっかり毒気を抜かれたかすがは、ややあって佐助を横目でちらりと睨んだ。それに気付いて佐助は後ろ頭を掻くと、神妙な表情でごく小さく頭を下げる。
「本当に、悪かった」
答えは返さずにふんと鼻を軽く鳴らして、かすがは片足を廊下に踏み出す。
「……次に会う時は合戦の場だ。その時はお前を殺す」
「あいよ」
なぜか笑みを浮かべた佐助を奇異なものを見る目でひととき眺め、視線を逸らすと素早い動作でくのいちは庭の樹木の影に消えた。庭先で地面をつついていた雀が数羽、軽い羽音を立てて飛び立つ。
残された佐助は、顔を赤くして何やらぼそぼそと喋っている二人の色惚けに一瞥をくれて、かすがの消えた先を名残惜しげに見遣るが姿のあるはずもない。背後で太い声が「あッ……」とか喘ぐのが聞こえたような気がするが気のせいだ。きっと気のせいだ。そう思い込もうとする端からまた声が漏れ聞こえてくるのが精神衛生上あまりよろしくない。
膝で歩いて廊下に出、佐助は後ろ手に障子を閉める。溜息をひとつ落とすと、声に出さずにいいなあと呟いた。
初:2005.10.26/改:2009.05.30